録音を聞いて書き起こすというのは、ただ音を文字にするだけじゃないかと思いきや、意外と不思議な作業だ。
演説に慣れている人の流暢な言葉ならまだしも、人は言いよどみ、口の中でボソボソしゃべり、時に思いもよらない表現を持ち出してしゃべる。
語末の接辞が付いているのか付いてないのか、早口でしゃべった真ん中のところの単語を果たして正確に聞き取れているのか。そして、文法としてちゃんと整合性がとれているのかというのは、実は自分の思い込みの書き起こしを修正する重要な視点になる。と同時に、自分の文法的な勘に従ってこっちでないといけないはずだと思うと、録音に裏切られていることがある。
これは先生も同じのようで、一回見ているはずのものを、「これほんとはちがくない?」と言い出し、録音を聞かせてみると「ああ~」と納得している。そして三度目くらいになっていきなりこちらの間違いを発見してくれたりする。つまり、一見純粋に技術的な作業に過ぎないようにみえるものが、自分が慣れ親しんでいるはずの言語を、もう一度見直して、作り直して、分かり直していく作業となっているのだ。
なので、とりあえずは、同じ録音を三度くらい行ったり来たりしながら繰り返し検討している。スペイン語への訳も同様に。意外とそういう風に時間をかけてやるのがちょうどいいみたい。最初のがすごく長い話じゃなくてよかった…。
これは何となく、日本語の古典文学をやる人が携わる校訂の作業に似ているのではないだろうかと思うことがある。本文同士の異同を検討するというのは、同じ話の複数の録音や同種の話との対応の中で考えていこうとする作業ともちょっと似ている。
言語を扱う際の、分かろうとする際の基礎作業のようなものの感覚を大事に育てられるといいな。
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