jueves, 30 de diciembre de 2010

年末と年始

 写真はおもと(万年青)の受け流し生けです。お正月用のいけばなとして。

 一つの葉の一つの角度で、そして一つの葉と一つの葉の組み合わせで、空間が変わっていく。その空気が、エッジが鋭くなっていないと、伝統花はすぐにボンヤリとしてしまう。教えてくれる先生の手つきが自分の中に入ってきて、しかしそれを経る中で自分の形が生まれ現れてくる、それを気が遠くなるほど繰り返せるといいのだけれど。
 2011年がいい年でありますように。

jueves, 16 de diciembre de 2010

読書ガイド

 勤務先の仕事の一貫として、ふと思いついて、現代版の『ラテンアメリカ科ブックガイド』を編集中。
(現代版というのは、僕が学部生だった時代にははるか前から伝わっていたブックガイドがあったのだ。この前偶然に出てきたので、今度これも存在を復活させよう。)
 先生方だけではなく(常勤の先生は誰も出してくれない…)、非常勤として関わりのある人と博士課程の上のほうにいる人たちにお願いしつつあって(現在進行中)、そうするとかなり分野に幅が出て来る。新しく学部から入ってくる人に、大学院へ外から入ってくる人に役立つように。役立つだけでなく、日本語で、そして日本語になっていない本で、広がる世界を。そこへ向けての語学の習得を。
 でも何と言っても、これはお願いしている私の役得。一人ひとりの熱の入ったセレクションは刺激だ。
ブログをつけている方だと、この方の原稿はいち早く届いたものの一つ。
http://hirokiss69.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-4d42.html
 もう頂いているものは、暫定的な形で研究室に来る人々の目に触れるようにしています。力のこもったチューター役を、どうもありがとうございました。かつてのゼミでの名司会ぶりをも髣髴とさせるものです。うちの学生はぜひ見に来よう。最終的には分科のホームページで公開することを目指しています。

viernes, 10 de diciembre de 2010

基礎文法の先の混沌へ

 アイマラ語で一通り文法を教わった後に、人の言っていることが分かるようになって、話せるようになるにはどうすればいいんですか、というのは難しい質問だ。僕自身がまだ苦しんでいるし、これはある程度は永遠に苦しみ続けることにもなるし。語彙面でも、それ以外の面でも、段階を踏んで上がっていく教材がないような言葉を勉強している場合に。
 少なくとも言えることは幾つかある。一つには、我々外からその言葉を勉強する人たちにとって、「読む」ことの位置付けは大きい。口承の文学を対訳形式で、幾つかの例では実際の会話を記録して対訳形式にしたものも、出版されている。(そこから先は僕は未公刊の資料を大量に扱っていて、そっちに来るかどうかは人それぞれだろう。)もう一つは、その場に居合わせることだ。人がその言葉で話し、議論している場所にうまく居合わせることだと思う。自分に対してしゃべってくれることもそうなんだけど、それだけではなくて、むしろ自分が一緒に居る人が他の人に対してどう関わっているか。その中で、こういう風に使うのかという感覚とレパートリーを自分も増やして、身につけていく。
 「分かる」インプットとアウトプットの「必要」を蓄積していくという、下の本の感想文のエントリーを、具体的な場面に置き直すということになるだろうか。
 でもこの過程は、先の見えない混沌とした状況に長く耐えないといけない。これは自分への戒めとしても。ただ、何も見えない混沌ではなく、何が自分にとって課題なのかが、その時その時で具体的にみえていることでもある。
 横にずれると、アイヌ語を勉強するときに、ある所から先は独学の人は似たような問題に突き当たるのだと思う。その意味で、千葉大学の研究会に参加させてもらっていることは、とても参考になっている。これから先にアンデスの言語に関心を持つ人が増えてくるならば、そういう場所を作らないといけないんだろう。
 これはまだ宿題として、考え続けよう。

lunes, 6 de diciembre de 2010

振り出しに戻る

 かつてボリビアで仕事をしていたとき、様々な狭間に落ち込む感覚をよく味わった。
 様々な見解と立場がせめぎ合うという意味での政治に積極的に関与する国連やヨーロッパ系ドナーと、あくまでも純粋な技術的側面での協力にとどまろうとする日本。どちらにももちろん一理はありつつも、積極的に自分を開いていく(場合によっては壊していく)イギリスの考え方に大きな影響を受けた私には、肝心な所で議論を避けてしまう日本の援助の世界はとても居心地が悪かった。
 そしてボリビアの政治は正確に情勢を分析するのが、とてもとても難しい。その中で有数のアナリストの人たちの中で揉まれ、そこからもっと長いスパンの政治思想上の課題とつながる視野をどう組み立てるかを考えてきた。でも、自分で調査をすると、政治経済の動きとは直接関係のない人々の暮らしの様々な側面に、混血の社会とは区別された意味での先住民の社会や運動に自然と関わっていってしまう。
 抜け出せないままに、再び狭間のような役割を短期間得て、久しぶりにボリビア国内の主要な機関をインタビューで回っている。 ドイツの社民党系の財団のシンクタンクの、とても率直で魅力的な代表の女性の話を午前中に聞きながら、解決できないまま行き場を見失っている自分の課題に、再び立ち戻る。でもそこから、自分の足場を築く道も細く細く見えている。 五年前から、直観だけではもうどうしようもない事に、息をひそめて、潜ろう。

domingo, 14 de noviembre de 2010

アウトプットの「必要性」=リハーサル

白井恭弘『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』岩波新書、2008年。

 ある本を買いに駒場の生協書籍部まで歩いて行って、その際に横ら辺にあった別の本を手に取ったのがこれ。
 科学的なアプローチのいい面が出ていて、複数の立場への目配りだけではなく、様々な実証的な研究をどう位置づけるかについて、バランスの取れた紹介がなされていると思う。「教科書」を目指したという後書きも、それこそが必要であったと思わせてくれるが、同時に実践に役に立つアイディアが幾つも詰まっている。
 印象に残ったことを。
(1)子供(幼児)の方が言語習得に成功し易いという点をまずは認めた上で、ただしそれは生得的な要因のみに基づくのではなくて、外国に住む時に周りのどのような人々と付き合っているかということも含めた環境的要因も大きい。(環境要因は操作することができるよね。)
(2)ある程度理解可能なインプットを大量に行うことで、予測能力も含めたその言語の力が身につく。
(3)必ずしも初期段階からひたすら話そうとしなくても、アウトプットをしようとして自分で頭の中で組み立てる=リハーサルすることが重要で、それによってその言語で考えるようになる。(ずっとしゃべらなくて、あるとき突然しゃべり始める子供のように。)
 また全体的な立場に関することだが、「ネイティブ」を目指す必要はないというメッセージと、だからと言って形を気にしないその場しのぎのコミュニケーションではだめだろ、というメッセージのバランスを取ろうとしているように見受けられ、そこも共感を覚えるところだった。
 ただしこれを自分の専門にしようと思わないのは、自分の目の前にある言葉自体が何なのだろうという関心の方が僕は強くて、かつ自分の生々しい経験とうまく折り合いがつかないような気がするのだが、でもこの本は巷の外国語習得に関する本としては珍しく役に立つと思った。

miércoles, 3 de noviembre de 2010

『三月のライオン』

『三月のライオン』という漫画は、結構好きで、読み返したりもしているのだが、やはり何が好きかというと、何かでプロとしてやっていくことの残酷さや救われなさや圧倒的な何かを、直接的に出すのではなくてオブラートに包んで、秋の夕暮れのような光の中で描いている、というのが大きいのかもしれないと思う。最近、よしながふみさんが羽海野チカさんにインタビューしているのを読んで、確かに、と思ってしまった。(『あのひととここだけのおしゃべり』、太田出版、2007年)。

前によしもとばななさんも日記でこの漫画が好きという趣旨のことを書いていたように思うのだけど、確かにそこの部分が通底しているのだと思う。『王国』を読んだときの、あの庭の描写で、久しぶりにその感覚を思い出した。僕は『キッチン』に書かれている料理の描写がとても好きなのだけれど(「魂のかけらが入ってしまう」という趣旨の部分)、そういう話を、厳しさを、上手に表現しているのはとても好きだ。これはもう研究の対象とかそういうことじゃなくて、自分のこととして。

sábado, 16 de octubre de 2010

神様に愛されている

ずっと前にふと思っていてから放置していたことを、今更ながら。
ボリビアのラパスで空港に向かおうとするとき、だいたい僕がいる辺りのところからは、高速ではなく普通の道を上がっていく方が近いので、つづら折の坂道(街なかですけど)をぐるぐる回って上っていくのだけれど、たまにちょうど良く朝日が射しはじめた時間帯に通ることがある。
もう街は動き始めているのだけれど、たまにふとたたずむおばちゃんがいることがある。急斜面に街があるので、朝日の方角に向けて300m以上の落差のある空間を一望に見渡せる。やわらかな暗めのオレンジ色の朝日があたる。こういうときに、ああこれは神様に愛されている感じがする、と思う。ラパスの街は上に行くと階層が下がっていくのだけれど、ここに住む人たちが街の全体を知り尽くす主役だ、という感じとも合わせて。

そして…、
現実としては全く関係が無いのだけど、同じ感情をもったことがもう一回だけあった。それは僕自身が修士課程をやっていた、イギリスの国際開発研究の研究所。ラテンアメリカの従属論系統の論者や南アフリカからの政治亡命者を受け入れてきた大学のその研究所は、先生全員がすごい勢いで働いていて、学生は若干無視されがちで、そして設備はとても整っていなかった。もちろん僕はとても批判的で、ブツブツ言っていた(議論の場では僕は実はよくしゃべります)。
ただし、幾つも印象に残っている中でも最も初期のものは、全体として(程度と質の違いもふくみながら)共有されている危機感だった。このまま同じことをやり続けるならば、そもそもそのようなアウトプットが存在することには意味がなくて、我々は常に間違えてきたのではないだろうか。自分達の植民者としての時代に向き合うことへとつながっていく強い批判的な思考、この感触は日本の大学にいてそれまでに得ることはなかった。
危機感が緊張感を生み出すその中で、複数の応用理論的な取り組みが進行し、それは2000年代のこの分野に関する僕のイメージの骨格を形作っている。この研究所の狭い廊下のじゅうたんを踏みながら、ああここは神様に愛されているかもしれない、と二回ほど思った瞬間があることは、今でも覚えている。

martes, 28 de septiembre de 2010

「現国」と「文章」と「分かる」こと

 今日ある生徒の質問に答えて話そうとしたことを、自分で確認するために、もう一度。
 大学入試の現国の勉強をするときに、知っているから問題が解けるんだという方向に、やはり僕は持っていきたくない。それだと知識があれば解けて、知識が無いとガクンという波から抜け出せない。高校生が現在の言論の動向に全て目を配っているべきだという想定は、やはり非現実的だ。そして、それは自分が思いもかけなかった何かを見出していくことに対して、とても閉鎖的に働くのではないだろうか。
 だから、むしろ本文の組み立てられ方(様々なレベルでのパーツとパーツのつながれ方)に着目して、その形を見抜くための道具立てを揃えていく。そして選択肢を切るための道具立てを揃えていく。ただ「消去法」と言うならば、それは実は様々な理屈から成立しているものを大雑把にまとめているだけに過ぎない。つまりそれは、「論理学」の「論理」とはちょっと違う、実践的な論理の練習なのだ。
(ちょっと話がずれるけれど、大学の先生が入試問題について書くものは、往々にして木目が粗すぎて実際の受験生の役に立たない、というかそれでできるようになる受験生はそもそもそのような本を実は必要としていないのではないだろうかと思うことがある。だからやはり、鍛冶屋は鍛冶屋の仕事をではないけれど、大学の先生より塾や予備校の先生が細かくなるし、その意義はそれとしてあるはずだ。)
(そしてもちろん、この方向で考えているのは僕だけではなくて、あまりオリジナルな見解ではないと思う。)
 そう考えることで、一つ一つの話題ごとに分類するのではない、論理の形に注目しながら考えていくことができるようになる。
 でもそれだけではない。知識があれば読めると思って「分かる」と思う、その感じが僕は嫌いなのだ。それは結局字面を追いかけて納得したと思ってしまう、そこから一歩も出るものじゃない。そんなところで「分かる」と思いたくない。その一言一句が、その一つ一つのつながりが、実は何一つ分かっていることなんてないんだ。だから、そこからもう一度バラさないといけない、そこからもう一度切り込まないといけない。文章が到達点ではなくて、そこから世界に入っていくための入り口であってほしいんだ。
(念のために、入試の現国では知識が要求される部分がやはりあるので、それはそれで教えるというのはあった上での話。それは2000年代に入って増えてきたという印象がある。)

miércoles, 1 de septiembre de 2010

引きこもり

藤田護におすすめの職 最下位:外交官 第3位:魚屋 第2位:ソwムwリwエw 第1位:ヒッキー
http://shindanmaker.com/42590 #11Fsy
色々と試してみたら結構安易な感じの診断が繰り返されていたことに気付くけれど(もちろんそういうものよね)、でもこの最下位と第一位は考えさせられる。たまたまにしては上手くできすぎてないかい?
 まず簡単な方から。そもそもボリビアの日本大使館で働いていたから、(広めの意味で)外交官だったじゃんっ!と突っ込みたくなるところなのだけれど、中学生の頃、いわゆる「帰国」でオトナの話を適当にかわすのが上手だった僕は、「外交官が向いているわよ〜」という周囲のこれまた適当な意見をまともに信じて、本気で目指そうかと思っていた時期があった。ところが、高校の担任の先生に思いっきり強く反対された。「絶対に上と衝突して辞めて、それは周りの為にもならないから辞めとけ。それでもと言うなら、専門職(=ノンキャリ)の方にしておけ」と。今から考えると(そして実は当時もそう思ったのだが)、これはかなり的確に僕の何かを言い当てているかもしれない。
 さて、問題は「引きこもり」の方なのだ。最近のCLACSOが出している雑誌Crítica y Emancipaciónというラテンアメリカ社会科学の雑誌に、ボリビアの現副大統領のÁlvaro García Lineraによる記事がある。そこで彼は、何かを考えようとするならば、社会に関わろうとする時期(tiempo de acción)と引きこもる時期(tiempo de reflexión)の両方があると主張する。(マルクスやグラムシやラテンアメリカの何人かの思想家たちが念頭にあるようだ。)
Álvaro García Linera. 2010. "Elementos para pensar la reconfiguración del campo político boliviano." Crítica y Emancipación, Año 2, No.3, pp.293-306 (Buenos Aires: CLACSO).
 直接には書いていないが、彼の場合は、武装ゲリラEjército Guerrillero Túpac Katariに深くコミットした時代があり、その後の投獄の時代があり、その後の政治アナリストから副大統領へという時代があることになるのだろう。
 若干話のレベルが落ちるのだけれど、研究をしているときに「引きこもる」ことが重要で、僕自身にはそれが足りていないような気がする、言うならば外に出て行くときと引きこもるときのメリハリをもっとつけないと、この先に行けないのではないだろうかと漠然と思っていたときにこれを読んで、自分の課題を再認識し直したというのがある。現地調査をしているときは、それがなかなか難しいのだよね。
(ここから話の筋が若干ずれていくのだが、Álvaroは人類学系統のセンスがないと以前から言われてきた。この人から僕はボリビア政治の見方と戦略的に有効な言説の構成の仕方について多大なことを以前学んだし、この人を批判する人は彼ほどには戦略的な有効性を考えていないのだが、この批判については僕もその通りだと思う。なぜなのかをよく考えるのだが、自分自身の論理的な一貫性が崩れることを過剰なまでに嫌う、ということなのではないだろうか。文化的差異や社会的差異に敏感になるということは、自分を崩して矛盾を内に孕んで、それでももっと後ろのどこかで一本筋が通ってほしいと願う、そういう姿勢を必然的に伴うからだ。この立場の違いの両側からボリビアの社会において重要な様々な論点が生まれてきているのだ、という感覚が僕にはある(そしてそれはもっと広くラテンアメリカ全域に言えることかもしれない)。以前に書いた「2000年代ボリビアの左派アジェンダの検討」という論文は、この軸を巡っての考察というのが表に出ていないモチーフなのだが、今回ちょっと先に考えが進んだように思う。)
(それにしても、そろそろまた引きこもった方がいいかもよ、先生。)

viernes, 27 de agosto de 2010

師匠

 Silvia Rivera Cusicanquiという人がいる(8月12日のエントリーに一度登場しています。)。携帯がどうも通じないと思ったら、自分たちの集団の雑誌の最新号を出すために、半狂乱のように仕事をしていると周りの人が教えてくれた。
 今日夕方に民族学の年次総会に行ってみたら、そのグループのブースが出て、先生があぐらをかいて座っている。雑誌の入校が一段落したのだな。段になっているところに横に座らせてもらうと、弾丸のようにしゃべり始めた。常に問題意識が鋭くて、それが現実からずれない、現実に切り込もうとすることからぶれない。アカデミックなことに関心があるというよりは、現実にどう役立つ考え方をするかに関心があるんだと常々話している通りだ。この人にとって、考えるということはその人の生き方そのものなのだと思う。性格のとても烈しい人。
 アンデスでキリストと悪魔が重ね合わせて捉えられること、イメージを通じて18世紀の先住民の大反乱と2003年の社会反乱とをどう対話させるか、二人の筆者のテクストが併存し相互に絡み合うように編集上のレイアウトをどう工夫するか、自分が街中でしゃべってきた(庶民の)スペイン語がアイマラ語世界とそれを知らない若者たちの世界をつなぐ蝶番の役割を果たす可能性。
 この人に対しても僕は返せないほどの学恩がある。いや、多分この「恩」は「学」だけではない。何年も何年も、体が感覚で何度も覚えようとしてきた生きて考えるこの人の感覚を、果たして僕は何か形にして外にもう一回出せるのだろうか。
 Silviaはここ何年もsociología de la imágenと呼ぶものに取り組んできたのだが、植民地時代の宗教画を中心としてこれを実践したPrincipio Potosí Reversoという写真と映像満載の本がスペインで出版された。そして「混血」を均質化を求める動きとしてではなく、対立と補完する複数の要素の斑模様として捉え直す試みを続けてきていて、アルゼンチンでCh'ixinakax utxiwaという文庫サイズの本が出版された。両方とも僕がボリビアにいなかったここ四ヶ月の話だから、すごいバイタリティーだ。

jueves, 26 de agosto de 2010

塾の先生と自分の研究

東京にいるときは国語を専門に教える塾で大学受験生を相手に教えています。東京の面白いところは、英語だけとか、こういう単科の塾が複数存在できるところですね。不況のときは安上がり志向が増えてきて結構大変になるみたいですが。
実際にどう教えているかというよりは、自分の研究に関係ある話を。古文の先生をしているときは、古文の基礎は品詞分解をして直訳をすることだと教えます。要は助動詞や助詞などのパーツを一つ一つ正確に訳してつなげるような、それでいて日本語としてちゃんとしている訳をできるようになる、ということです。その先にももっとたくさんあるのですが、まずはこれですら学校でなかなかうまく教えてもらえていない生徒は多い。
広い文脈につなげると、これは小説家の人々が取り組む訳というよりも、そして一般の人を対象として分かり易い日本語で意訳するというよりも、大学で勉強するということを視野に入れた訳の仕方だと言えるのだろうと思います。源氏物語を中心とした藤井貞和さんの「研究語訳」という提唱と取り組みは、この延長線上につながってくるのだと思います。
さてさて、僕はこれは古文の話だと思っていたのですが(ただし漢文も漢字の品詞を考えるという似た教え方をしますが)、アンデスの言葉を勉強するようになって、そして研究の世界を垣間見るようになって、おおっと思ったことがあります。僕は言語学の細かいことにあまり詳しくないので言葉使いがちょっと変になるかもしれないのですが、アンデスのケチュア語とアイマラ語はともに接尾辞を連ねて動詞や名詞に意味を付け加えていく言語です。つまり日本語の助動詞と助詞のようなものを持つ「膠着語」と呼ばれる種類に属する言語で、日本語のように漢字の力に早くから頼らなかった分、それぞれの接尾辞の意味の場の広がりと組み合わせ方が一層複雑なように思います。
そうすると何と研究者の人たちは「品詞分解」にあたるものをします。análisis morfológicoと呼ばれるものがそれです。そして、スペイン語に訳すときに「アンデスのスペイン語(castellano andino)」と呼ばれる、この地域で普通の人々が話すスペイン語の方言のようなもので訳すべきことが提唱されるのです。ここではスペイン語は長らくアンデスの言語と接触してきたので、アンデスの言語の特徴の影響を受けた様々な言い回しが発達してきました。つまり境界領域での翻訳が長期にわたって行われてきた訳ですね。そのようなスペイン語の種類を使った方が、正確に直訳に近い仕方で訳が工夫できる、と考えるのです。
こう考えて来ると、日本語の古文の世界とアンデスの言語の世界が思わぬところで結びついて比較できるようになってきます。
ただし、文化的な状況説明を必要に応じて加えながら訳すという姿勢を強調することもできます。César Itierのケチュア語の口承文学の訳や、Ricardo ValderramaとCarmen Escalanteのオーラルヒストリーの訳は、どちらかというとそちらに重点を置いた訳になっています。この辺りも、日本の古文の訳を巡る議論とかぶってくるところがあるかもしれません。

miércoles, 25 de agosto de 2010

一瞬の街の光景

夜の黄色い灯りの暗がりの中、住宅街の土壁の建物の間を歩いていく。斜面の多いラパスは道が規則的じゃないから、大体こっちの方かなと見当をつけて。

すると突然、家が途切れる、建物が途切れる。絶壁の上に出て、同じ高さの街が一遍に目に入ってくる。そして斜面の下に向かって、ラパス市街の光の海が広がっている。その向こうの闇の奥は、見えなくても、イリマニ山がそこにそびえている気配がする。

ラパスの街は歩いていると、たまにいきなりこれに出会う。道はそこで途切れて、階段が下に向かって続いていく。その先にまた、道と街が続いている。

domingo, 22 de agosto de 2010

トマト?

 ラパスに帰ってきて早々に、そのままどんどん下に行ってRío Abajoまでたどり着くと、おばあちゃんが「子供たちは川にトマトを取りに行ったよ」と教えてくれる。「??」。盗みに行ったのだろうか。
 実は全然違った。どうもここはトマトが自生しているのだよ。確かにトマトってアンデスが原産地だったな。川沿いのあちらこちらに勝手に生えているので、若い株を取ってきて、畑に植え直すのだそうだ。小さいのによく見ると、もう花が咲いたり、小さい実がなったりしている。すねの辺りまでの高さにしかならないらしいが、大きなトマトがなるらしい。
 タッチの差で「トマト取り」に間に合わなかったので、来年こそは一緒に連れて行ってもらおう。
 桃だけではなくて梨やプラム(ciruelo)の花も咲いていて、乾期の8月は花盛りで、来る果物の豊穣の季節(12月頃から)を予感させる時期なんだなあ。

jueves, 19 de agosto de 2010

クスコの街

 僕が住んでいるところは、だいぶ街外れに近いのだけれど、中心部にある図書館から毎回30分ちょいの道を歩いて戻っている。クスコの中心部の夜はやはりきれいだ。観光客がいようとなんだろうと、大きな石組みの土台が両側を囲む小道は圧倒的だし、浮かび上がる数々の教会をくぐり抜けて、市場の脇でたくさんの人々が帰りのバスに群がるところをかき分けて、歩く歩く。
 だからこそ、クスコのサントドミンゴ教会を、その土台をなすインカの神殿コリカンチャとともに、爆弾テロを仕掛けて吹っ飛ばす構想に、同じくらい共感してしまう。アイマラの無政府フェミニズム組織の女性が主人公の、Alison Speddingという人が書いたこのボリビアの小説は、まさにこの場面のせいでペルーでは発禁処分になっているらしい。(ただしそもそもボリビアで出版された本は、ペルーでは基本的に手に入らない。)社会変革を拒む抑圧の機構が、ペルーでは幾重にも人々を取り巻いている。(ただしボリビアの状況がましだと言っているわけではありません。)
 ちなみにこの小説では、独立戦争を始めたアイマラの人々は、アメリカ合衆国によってエルアルトに原爆を落とされる。そして国際的に封鎖された後は、組合組織(Sindicato)が宇宙船の操縦によって必要な外貨をもたらすのだが、その宇宙社会ではなぜかTrade Japaneseなるものが公用語になっている、という謎の日本モチーフが連続します。アイマラ語とスペイン語で書かれたこのSF小説は、De cuando en cuando Saturnina: Una historia oral del futuroと題されています。ボリビアではとても評判がいいので、見つけた方はぜひ。
(8月26日追記:ボリビアに戻ってみると第2版が出ていました。)

交通事故

 僕のケチュア語の先生が交通事故に遭っていた。今日訪ねていったら、息子が先に教えてくれたからよかったものの、二階の手すりから僕の名前を呼ばれて、一瞬誰だか分からなかった。痩せて、やつれて。でも話しているうちに、顔がどんどん元の表情に戻ってくる。四月の終わりに事故に遭ってから、二週間意識不明で、気がしっかりしてきたのもこの三週間くらいのことだという。
 この人はEdith Zevallosと言って、Bruce Mannheim(米国)とかCésar Itier(フランス)とか他の外国のケチュア語関係の研究者のカウンターパートのようになって、学生を受け入れたり世話をしたりしてきた。去年は一年間ミシガン大学に客員として行っていたので、会えなかったのだ。
 元々の村(Pomacanchi)の、かつて一緒に時間を過ごしてケチュア語の練習をさせてもらった家族の近況も聞く。先生、生きていてよかった。アイマラ語の勉強を始めてから、どっちつかずのカタツムリ行進が続いている僕のケチュア語も、もうちょっとうまくなったところを見せたい。来年また良くなったら、色々と質問に答えてもらう約束をして、お別れをする。その人に会うと、昔のその一つ一つの瞬間とその空間の雰囲気が戻ってくる。

lunes, 16 de agosto de 2010

私にどうなれって言うのっ

 去年からあるアイマラ語の文書に取り組んでいる。1980年代に行われた、20世紀前半の先住民運動のある指導者の子孫たちへのインタビューの記録なのだが、これが本気で難しい。村の人たちが話している言葉そのままなので、話が錯綜したり停滞したり飛んだりする。ネイティブの人の助けを多大に借りて何とか慣れてきたのだけれど、難しいことに変わりはない。
 昨日ふと気付いた、ちょっと面白いかもしれないことを。
"juma uñjam nä kamachaniw sistas nä ukanx kun manq'an khitiw yap lurarapin sas när ukham jaytarapayistax" sasaw six siya
 試しに直訳してみると次のようになる。
"Tú mirá, yo qué va a ser me dices, yo en eso qué va a comer, quién va a hacer chacra (para ella) diciendo a mí así me has hecho dejar" diciendo dice dice pués.
 ここは、軍に捉えられて低地に強制的に送られていた指導者が、一年越しに戻ってきたときに妻になじられる、という話。要は「私にどうなれって言うの」という語句が入っているのだが、人称に応じて動詞を活用させなければならないとき、「なる」をどの人称で活用させるのかが問題になると思うのだよね。普通のスペイン語だったら、「私」に合わせて一人称で活用させるのだけれど、どうもこの場合は三人称で活用させるんだなあ。
 こういうたまに出てきてくれないとどっちなんだろうと考え続けることに、たまに出会うことがあって、「おおっ」と思うことの一つです。

domingo, 15 de agosto de 2010

[readingcritiques]「国民文学論」の話へのコメント

(hatenaダイアリーに書き込めない病が続いていて、このブログは緊急避難的に作ってみたのですが、なんとコメントすらどうも通らないので、元々ある研究会内部のやり取りなのですが、文脈を無視してここに一旦載せておきます。)

 「マルクス主義的教養」の継承というのは、ラテンアメリカ(の思想系のこと)をやっていて1970年代を含めそれ以前に戻っていこうとしたときに、そして実は1990年代以降もラテンアメリカ諸国ではマルクス主義は全く死んでいないということも含めて、かなり切実な問題としてあって、日本の文脈でそう言う風になるかと示唆を多く受けました。
 そして、実はその議論は1990年代からの人類学の議論ととても似た形をしているのですが、それはマルクス主義的な部分が人類学の一部(はカルチュラルスタディーズやサバルタンスタディーズなどと近い場所にある)にスリップして影響を及ぼすようになっていったのだろうな。前から薄ぼんやりとそう思っていたのだけど、その思いを新たにしました。

viernes, 13 de agosto de 2010

Suma Qamaña o Vivir Bien

(8月15日に若干の追記・補足)
 Taller de Historia Oral Andinaという組織がある。アイマラ出身の人たちが中心になって運営されている。毎月最初の金曜日の夜は、外からも人を招いてAkhulliという議論のセッションをするので、ラパスにいるときは手伝いを兼ねて見に行くことが多い。今日は場所が国立民族学・民俗学博物館(MUSEF)で、お題はSuma Qamaña。スペイン語では普通buen vivir(よく生きる)と訳されて、MAS政権の成立以降、国家開発計画などの中心概念となった。
 三人が議論を提起するのだが、その一つ、うちらのOscar Chambi Pomacahuaの議論にはたと考えさせられた。僕が主要だと思うポイントを思い出すままに書き連ねると、次のようになる。
・ある一つの言葉を、それだけで単独で成立させることはとても西洋的で、アンデスの概念では、似たような言葉もう一つとペアにして考察をしなければならない。そして、そこではqamañaに対して/加えてjakañaを挙げる。
[ここはトンデモの議論ではないだろう。アンデスの様々な側面が二元的構造をとることは、これまで数多く指摘されてきた。ペアにして同じ単語を繰り返すケチュア語の詩の構造を想起してもいいかもしれない。]
・qamañaというのは、実は人間中心の概念ではない。つまり「自分は誰か」を問うのではなく「私はどこにいるのか」(kawkhanktansa)を問うのだ。
[ここでは、Xavier Albóを重要な一員として20世紀後半に盛り上がった、アイマラ民族のアインデンティティに関する議論を想起すればいい。その時の標語は「私たちは誰か」(khitipxtansa)だった。これは場所を中心とする論理なんだなあ。あと細かいことを加えると、動詞の活用接尾辞で明らかに複数のときは、複数を示すマーカー-pxaを付けなくていいことに注意したい。ここはスペイン語とバイリンガルの人がよく混同して付けるべきだと主張しがちなところ。]
・qamañaが「世界の中における自分の位置」を問うものだとすれば、jakañaの方は身体内部を指す。「生きている」のはこっちの単語が近い。útero(子宮)という意味にもなる。
・すなわち、suma qamañaはsuma jakañaとペアにして初めて意味を持つ。
[ここから彼はaski qamañaとaski jakañaを加えて、2対2の4項目を作れるのではないかと考えているようだった。]
 このような言葉を考察しながら宇宙論(世界観)と結びつけていく可能性を、実はほとんど初めてに近く聞いた。もう一つは、THOAが発行する雑誌Samiriの昨年第3号におけるSilvia Rivera Cusicanquiの議論だ。彼女は、二元的な構図を三項そして四項へと「開いていく」論理の可能性を、アンデスの織物に見いだしていく。

 僕はボリビアで社会も政治も言葉も色々な先生に恵まれてきたと思うが、いつもいつもTHOAの中でアイマラ出身の人たちの議論の中に身を置くことで、何か大事なものを教わってきたことを再確認する。色々な対立やせめぎ合いや分裂など、決して順風満帆ではないことを嫌というほど一緒にくぐっていたりもするけれど、先住民出身の「知識人」としか言いようのないあり方と思考が形成されていく過程を一緒にいられることは、かけがえのない学びの機会になってきた。
 人々が生活するのが必ずしも簡単ではない状況で、多くのアイマラ出身の人たちが金の流れる方に安易に取り込まれていく中で、愚直な一貫性はやはり僕の性に合う。この二年くらい、同世代の人たちとこういうやり取りをすることが増えて、これを、自分の体の中に取り込んできた考え方を引き受けて、自分でもここで思考を展開することができるんじゃないか、という欲望が少しずつ、強くなっていく。 

miércoles, 11 de agosto de 2010

1949年にアイマラ語で詩を朗読すること

 今年二月に亡くなったMatilde Garvíaという人がいた。今日は、彼女の追悼の催しがあったのだ。彼女とAugusto Céspedesとの間の娘が全体の構成を担当していた。
 この国では1952年に革命が起きた。この革命は混血の思想に主導されたために「先住民」の位置がないことが、その後になって次の時代への動きを作り出す。とはいえ、農地改革、教育の農村への普及、普通選挙など、大きな変革をこの時代のボリビア社会は経験する。
 しかし、それよりもさらに3年前。ボリビア映画史の最初期に女優として活躍したそのMatilde Garvíaが、Teatro Municipal(市立劇場)という上流階層の文化の中心地で、アイマラ語の詩の朗読を、オーケストラによるアンデス音楽を基盤とする楽曲の演奏と組み合わせるという、前代未聞の催しを試みた。プログラムの名前はAntis Aru(アンデスの言葉)。会場には、当時の新聞記事の数々が貼り出され、いかに反響が大きかったかが伺える。それらの記事を読んでいると、フォルクローレというのは現代では政治経済と関係なく文化の領域にその民族を閉じ込めてしまうという批判がなされるが、その文化の領域だけでも「死にいくもの」としての位置付けだけでない生きた関心が持たれることが、当時の主流社会の中でいかに大きな衝撃だったかが分かる。
 僕自身がここで色々と教わっている師匠のような存在であるSilvia Rivera Cusicanquiと、僕と同世代くらいの人たちの集団が追悼映像の作成を担当し、今一緒に仕事をしているFilomena Ninaという人が、そのアイマラ語の詩の現代の書記法への書き換えと翻訳を担当していたから、この人の存在を知った。
 詩の原作者はAntonio González Bravoと言う。当時アンデスの文化に興味を持ちアルティプラノ(高原地帯)を歩き回っていた人らしい。美しい詩だった。今までに出版されているアイマラ語の詩のアンソロジーに、この人は載っていない。アイマラの文化に興味を持って入っていこうとして、言葉を磨いていって詩を書いた。クスコでは、そのようにアンデス文化を愛しケチュア語で見事な詩を作ったAndrés Alencastreという人は、同時に自分の農園ではインディオに対して暴君であった(後に自分の農園の農民たちに虐殺される)。この人とアイマラの人たちの関係はどうだったのだろうか。
 当時のUMSA(国立サンアンドレス大学)には、アイマラ語の講座もあったらしい。僕がアイマラ語を教わったJuan de Dios Yapitaという人が、1970年代に言語学科の設立に関わって初めて教えられるようになったのだろうと思っていた。昔のことで分かっていないことは沢山あって、また一つ世界が重層的になっていく。

martes, 10 de agosto de 2010

分断された人種社会で生活すること

 ボリビアというのは社会の中に様々な分断の線が走っている。外交や国際協力の世界に携わっていれば実際に経験しなくても生きていける。でも、実際に生活をして、その線を踏み越えて行ったり来たりすると、色々なところにその壁を感じるようになる。
 これはとても厄介だ。同じ空間の中に共存していても、(使用人として雇うのではなく)対等の立場で一緒にいることを嫌悪する人たちは多いし、明らかに人種主義的な人はまだ分かり易いけれど、一見許容範囲を広く見せている人が一瞬見せる排斥の振る舞いは、いっそう始末に負えない。
 さらに厄介なのは、これは多分誰の中にもある。ということは僕の中にも。この国の歴史は分かり合おうとして結局分かり合えない事例にあふれている。マルクス主義や革命と先住民的なもの、混血的なものと先住民的なもの。これは思想的な問題であるだけじゃなく、今ここの人間関係の中にそのまま表れてくる。ここは不信と癒えない傷と猜疑心と嫉妬と足の引っ張り合いに満ち満ちた社会だ。「仲が良くないこと」は、外面の良さを通り抜けて、もっと内側に入っていくと様々な様相を表してくる。
 でもならば、あっさりと平然と両側に行くしかない。線は簡単に越えてしまえばいい。それは様々なものを刻み付けてくるけれど、それだけのことでしかない。質感の全く違う空間が、複数階層を成して存在していることの意外性を感じ続ければいい。権威的な安住する人たちともうまくつきあいながら、でも実際に生きていく中で色々なことを考えてきた人たちと一緒にいて、何かをしていく方法は、少しずつ見つかって、広がっていく。その中でしか考えることのできないテーマは、たくさん転がっている。
 昨日僕に相談して来た、僕よりもずっと若い人が、ラパスに着くなり直面したのは、僕にはこういう問題に見える。うまくその人なりの、人と道が見つかるといいね。

domingo, 8 de agosto de 2010

chuyma usutu

 今日聞いた話なのだが、あまり直接には自分の研究に関係なさそうなので、ここに書き留めておこう。
 ラパス市内を流れる川沿いに下っていくと、街の向こう側にイリマニ山のふもとまで、Río Abajoと呼ばれる標高の低めの地域が続いている。毎週日曜日は、僕のahijadoたちを連れて、そこに住んでいるおばあちゃんのところに行きます。
 そこの犬が去年毒殺されたので、今年の頭に家族皆で、エルアルトの16 de julioの市場という巨大な市場があるのですが、そこに子犬を買いに行ってきたのでした。今回行ったらまだ子犬のように無邪気なのですが大きくなっていた。数日前にその犬の調子が悪くて...という話を、昼ご飯の途中でおばあちゃんがしていて、最初他の人たちは毒を盛られたのではないかと思っていたらしいのだが、おばあちゃんはchuyma usutu(直訳するとEl corazón me duele、心が痛む)だと言い張ったらしい。「それは何?(Kunjamäs ukax.)」と聞いてみると、他の犬と夢中になって遊んだりした後に、なんというかぐったりダウンすることがあるらしい、そういうときは、前足や後ろ足や尻尾や頭や、いろんなところを軽く揺すってあげると元気になるということだ。ほら確かに元気になったでしょう、と言われる。ふーん。
 あと気付いたのは四匹いた猫が全部いなくなっていて、これはmulu(mulu mulu)のせいになっていた。これは聞いてみると小型の山猫のことなのね(スペイン語でgato montés)。本当かどうか知らないが、でもそんなのここにいるんだねえと話していたら、jach'a laq'uというのも教えてもらった。アイマラ語の辞書を見てみると狐なのだが、どうもこの家族はプーマのことを指して言っている気がする。おばあちゃんは、「このjach'a laq'uはこの辺ではあまり見ないらしいが、anda con fuego prendido(火が点いたようにうろつき回る)のだってよ」、と言っていた。
 今回行ってみたら、このおばあちゃんの一番下の娘が妊娠していた。この子は僕よりも年下で、15歳のときに初めて子供を産んでいて、次で三人目ということになる。いい知らせだ。
 ここでは結構あっさりと人が死んでしまう。手術が必要になると手術代は大抵払えない、兵役で低地の奥の方に送られると行方不明になっても探しにいくことすらできない(雨期にはバスだと一週間くらいかかる)、kharisiri(kharikhariとも、sacagrasa、人の脇腹から脂を吸い出す妖怪)に起因する原因不明の病気になったりする。ここ数年の間に、二人死んで二人死にかかった。だからこそ生命の力強さを目の当たりにすると嬉しくなる。人が生まれたり、人がもう一度生きようとしたりすることには、大きな価値がある。

sábado, 7 de agosto de 2010

食べ物の話題二種

 ボリビアで大好きな食べ物の一つにwallaqiという魚のスープがある。wallaqiñaはアイマラ語でhervir, bullir(沸騰する、沸き立つ)という意味。チチカカ湖で捕れる魚の一つにkarachiという魚があって、小さくて骨っぽくて食べにくいのだけれど、とても美味しいだしが出て、身も実は香ばしい。ペルーのクスコで僕がお世話になっている家族は、真ん中の娘が妊娠したときに、力を着けるために(ラパスのとはちょっと違う)karachiのスープを作って食べさせていたらしい。ラパスのwallaqiは、黄トウガラシをベースにしたスープで、ジャガイモと、チューニョ(ch’uñu)と呼ばれる黒い乾燥ジャガイモを戻したものと、あとは魚が入っている。
 ラパス市内にロドリゲス市場という大きな市場があって、週末は付近の道路も露店で全て埋まる、その市場からPlaza Belzúに向かって下りていく道に、週末は大量の人が群がってその中で一人のおばちゃんがアタフタして[そのせいで]ブスッとしている。¿Hay todavía señora?(まだある?)と聞くと、Siempre hay, pero no hay tiempo de servir.(あるけど、よそう時間がないんだよ)と横で待っている人が茶化してくる。我先にくれくれと言う人たちと張り合って自分の分を確保して、小椅子か道ばたの段に座って、魚の身をむしりながら食べる、食べる。最後にスープだけyapaaumento、おかわり)ができる。11時を過ぎるともう無くなってしまう、午前中の食べ物だ。
 誰にも役立たない情報かもしれないのだが、前に人と一緒に行った、エルアルトのCruce a Villa Adelaから一ブロック入ったところに出ているwallaqiの露店もおいしい。(追記:どうもPuente Avaroaのwallaqiも美味しいらしい。行ってみねば。)
 
 そのあと新聞を買って宿に戻ろうとする途中でレストランの中から声をかけられる。去年一年間住まわせてもらっていた小森さん一家のご主人のお父さんとお母さんだ。
 アンデスのトウガラシにlocotoというものがあるのだけど、この家の名物は、それを種を除いて刻んで醤油に漬ける、その名もlocoto con shoyuという発明品があり、これがなんとchicharrónlechónを含めて様々なボリビアの料理に本当に良く合う。僕は去年病み付きになった。(locotoは、上の黄トウガラシ(ají de vaina)とは違う。それ以外にも緑で小粒でめちゃ辛いurukipaというトウガラシがある。)
 時間がないときは粉末locotoを買ってきて、醤油をぐじゃぐじゃっと混ぜるだけでも十分にその役を果たす。
 今回の滞在でも一度ご飯にお呼ばれする予定で、今から楽しみ。新しい土地で人が生み出すご飯の味には、ピリッと効いた魅力があると思わせてくれる。
 

Agosto, mes de pachamama

ラパスの8月はパチャママ(大地の女神さま)の月だ。6月頃からアンデス地域は冬で寒くなり、しかもその少し前から乾期に入っているので、8月になる頃にはお腹を空かしているということになるらしい。

なので、8月の初めには様々なグループがメサというものを作って捧げる。日本語にすると「供壇」になるだろうか。織物(今回僕が一緒にいた人たちはwiphalaというアンデス先住民の七色の旗を使っていた)の上に、紙を敷いて、その上に砂糖菓子や銀など各色のヒラヒラを配置する。そしてリャマの胎児のミイラを飾り付けたものをその上に配置する。そこに来た人々は、コカの葉をきれいなものを四枚選んで願い事とともにメサの上に置いて、砂糖を一掴みふりかける。

外に薪の段が作られていて、そこに持っていくと、その周りにアルコールを四隅に振りかけて、火をつける。僕はアンデスの農村の伝統音楽を演奏する人たちと一緒にいたので、その演奏を聴きながら、炎が立ち上がるのを見ていると、ラフな感じでおしゃべりをしながらそこにいる人たちの間に、何かが走り抜けるのを感じるような気がする。大地との結びつきを取り戻す感覚、というのかな。最初は厳かな曲を、次は踊るための曲を演奏して、皆で輪になって踊った。
(ここはグループによって違う。僕は去年は別の人たちと一緒にいたのだけれど、そこでは火の周りを輪になって皆で回りながら祈りを捧げるという形だった。)
mesaの燃え具合によってその後を占う。consistenteに燃えているのがよく、当然二つに割れたりするとよくない。今回は燃えるのに時間がかかったので、願いが叶うまでに忍耐が必要かなあ、とか言っている。一緒にいる人々の間での雰囲気も、大事なことらしい。

それにしても、僕が一緒に仕事をしていて去年これを一緒にやったグループは、今年やる気配がないぞ...。

ル・グウィン追記

 前回に書いたLe Guinなのだけど、違和感というか、不思議だなと思うこともある。舞台設定はとても核心を突いた深い問題が扱われるのだけれど、そこでの問題の解決に向けた物語の紡ぎ方が、僕自身だったらちがう方向に行くのかもしれないと思う。『ゲド戦記』の第一巻は邦題の通り、自分がこの世に呼び出してしまった「影(shadow)」に脅えながら戦おうとするのだが、それは自分の影なのであってそれと一体化することで自分自身に戻るというのが解決策になる。
 これはある意味で「充足」の方向に向かうということ、何かを「取り戻す」ということに重点が置かれている。これは、『ファンタジーの言葉』における人類学者の娘として「インフォーマント」(ここでの家族と先住民の関係には明らかにこの言葉があてはまる)の先住民出身の男性たちと、それでも人間的な関係を築いてきた、という彼女の立ち位置に、おそらく深くつながっている。
 ここには根本的な疎外されているという感覚はない。ふと大江健三郎と比べてみると面白いのではないかと思う。例えば古義人の分身であるコギーがある日いきなり森の彼方に去っていってしまって、二度と戻って来なかったりするようなことは、ない。(ただしコギーは「影」ともそもそも違っているけどね。)
 「統一性」を批判するというスタンスは取れるような気がするのだけれど、むしろもう一段フラットに、同じ問題を共有したときの違う方向への取り組みとして他と比べながら読んでいると、面白いのかもしれないな。

miércoles, 4 de agosto de 2010

ラパス日記

 日本から塾関係の仕事を引きずってしまって、ビミョーに宿泊先に缶詰に近い状態になっていたのですが、その時に現実逃避もかねて読んでいた本に以下のものがあります。
アーシュラ・K.ル=グウィン『ファンタジーと言葉』岩波書店、2006年。
 薦められて、日本から同じ人のTales of the Earthsea(邦題『ゲド戦記』)の第一巻A Wizard of Earthsea(邦題『影との戦い』)を飛行機で読みながらラパスまで来たのですが、とてもとても面白かった。途中で一瞬「これは尻すぼみになるんじゃ...」と思ったのですが、やはり巻の結末に向かう流れで、考えさせられる点が提起されていた。
 上記のエッセイ集にしても小説にしても、しっかりした土台の上に複雑な思考を展開することのできる人だと思う。このエッセイ集は、現代の文学におけるファンタジーの位置、昔の作品を読むときのジェンダーについて考察するときの手つき、創作にあたって影響を受ける口承のお話の世界や絵本の世界の重要さ、などについて、随所にハッとさせる見解がある。半分くらいまで読んだので、残りを読むのが楽しみ。