jueves, 14 de septiembre de 2017

今日の一言(アルベルト・フローレス・ガリンド『権威主義の伝統』)




ペルーの歴史家アルベルト・フローレス・ガリンド(Alberto Flores Galindo)を私はずっと敬愛してきた。彼は私が小学生の頃に早逝しているので、もちろん直接の面識はない(ただし私のボリビア人の師匠によれば彼女の修士課程のときの教員だったのだそうだ)。同時代のペルーの歴史家のみならず、知識人全体に活力を与えたフローレス・ガリンドは、歴史家であると同時に現代の問題にコミットし続けた学者であり、元々現代に関心のある私はその点から大きな影響を受けてきた。

死後に全集が編まれる過程で発見された『権威主義の伝統(La tradición autoritaria)』というエッセイがある。今回リマをごく短い時間偶然訪れる機会があり、このエッセイが小さな書籍として別の形で出版されているのを見つけて購入した。そして別の人によって書かれた序文に目を通して、とてもビミョーな気分になった。

彼の主著である『インカを求めて(Buscando un Inca)』は危険な本だ。インカ時代を理想化して、その回復を求めるアンデスの人々の心性を、スペイン植民地時代から現代まで歴史を通して辿り続けるこの本は、実際にインカを神聖化してしまっているという矮小化した評価を被り易い(よく読めばわかるがそんなことはない)。歴史学者としての手続き面での厳密さ(rigor)を求める人には、このような本の執筆は受け入れ難い逸脱として位置づけられることになる。そして、この心性を伝統的迷信と受け取る人からは、アンデスの先住民社会も市民社会の一員として合理的に理解されるべきなのだという批判を受けることになる。後者については、カルロス・イバン・デグレゴリとの論争があり、デグレゴリは人々の「インカを探し求める」心性は、20世紀後半のアンデス社会には既に当てはまらないのではないかという批判を行っている。

言いすぎることを恐れずに言えば、ペルーの学界というのは、複雑な可能性が実現されることを助けることがなく、常により矮小な図式の中での議論に知識人を押し込めようとする。それは、20世紀後半にホセ・マリア・アルゲダスの晩年の作品『全ての血(Todas las sangres)』についての議論をも彷彿とさせる。デグレゴリとの論争は、現代ペルーにおける思想上の最大の問題を示しているといって過言ではないと思うのだが、フローレス・ガリンドが早逝してしまったことによって、フローレス・ガリンドが生きていたら、彼が正しかったとしたらどうだったのか、という問いを埋もれさせてしまった。そしてペルー社会の現実も、この問いを覆い隠したままで21世紀の最初を通過してきたかのように思える。

以下に、このフローレス・ガリンドによるエッセイの最初の二段落と、その仮の訳を付してみる。外野の様々な思惑にもかかわらず、真っ直ぐな文章で、やはり私はこの人の思考が好きだ。
 
Este texto es un ensayo, género en el que se prescinde del aparato crítico para proponer de manera directa una interpretación. Escrito desde una circunstancia particular y sin temor por los juicios de valor, el ensayo es muchas veces arbitrario, pero en su defensa cabría decir que no busca establecer verdades definitivas o conseguir la unanimidad; por el contrario, su eficacia queda supeditada a la discusión que pueda suscitar. Es un texto que reclama no lectores –asumiendo la connotación pasiva del término– sino interlocutores: debe, por eso mismo, sorprender y hasta incomodar. El riesgo que pende siempre sobre el ensayista es el de exagerar ciertos aspectos, y por consiguiente omitir matices, pasando por alto ese terreno que siempre media entre los extremos: los claroscuros que componen cualquier cuadro.
(この文章はエッセイであり、エッセイというジャンルは込み入った批評の装置を回避しつつ、より直接的方法で一つの解釈を提示しようとする。個別の状況から書かれ、価値判断を下すことへの恐れをもたないエッセイとは、しばしば恣意的なものであるが、それを擁護しようとするにあたって、エッセイは決定的な真実を確立しようともしなければ、万人の支持を得ようともしないということができるであろう。むしろ逆に、エッセイの効果とはそれが惹き起こす議論によって決まるのである。それは――字義どおりに取るならば受け身の存在である――読み手(レクトール)を探し求めるのではなく、対話の相手(インテルロクトール)を探し求める文章なのであり、したがって相手を驚かせ、居心地を悪くさせなければならないのだ。すべてのエッセイストにのしかかる危険は、特定の側面を誇張することで、したがって微妙な色合いを、二つの極の間を常に仲介してくれるあの地平を、あらゆる絵図を構成する光と影とを切り捨ててしまうことである。)

En este ensayo se quiere discutir las relaciones entre Estado y sociedad en el Perú, buscando las imbricaciones que existen entre política y vida cotidiana. Lo habitual es separar: convertir la realidad en un conjunto de segmentos. Pareciera que no hay relación alguna entre las relaciones familiares, los desaparecidos en Ayacucho y las prácticas carcelarias. Pero una de las funciones de cualquier ensayo es aproximarse a la totalidad encontrando lo que, mediante una expresión de la práctica psicoanalítica podríamos llamar “conexiones de sentido”.
(このエッセイでは、ペルーにおける国家と社会の関係について論じ、政治と日常生活の間に存在する同形性や重なり合いを探り当てようとする。方法として通常採用されるのは分離であり、そこでは現実が部分の集合に切り分けられる。家族関係と、アヤクーチョにおいて消滅させられた者たちと、監獄内での慣習との間に、いかなる関係も存在しないかのように思えるかもしれない。しかし、どのようなエッセイでも、その一つの役割は、全体性に接近しつつ、精神分析の実践の表現を用いるならば「意味のつながり」とでも呼べるものを見出すことにあるのだ。)