martes, 16 de octubre de 2012

やわらかく過激な抵抗

私が2002年にイギリスのサセックス大学の開発研究所(Institute of Development Studies, University of Sussex)に提出した修士論文の一部分が、2005年に一度本の一章として指導教官との共著で出版されていたのですが、もう一度刊行されることになりました。

Cornwall, Andrea and Mamoru Fujita. 2012. "Ventriloquising the 'Poor'? Of Voices, Choices, and the Politics of 'Participatory' Knowledge Production." Third World Quarterly, Vol.33, No.9: pp.1751-1765.

開発の人類学(anthropology of development)という分野の中の、開発の言説(discourse of development)に関する論文と位置付けられるだろうと思います。
(元々の修士論文には、開発における「参加」の議論のレビューを行った章と、フーコー(『性の歴史』)とスピヴァク(『サバルタンは語ることができるか』)を基にした知の生産のあり方についての批判的な章がありました。具体的な検討の部分も公刊論文化されるにあたってだいぶ削っています。)

指導教官も独自の検討を基に色々と書いてくれていて、全体の見取りとしては、現場とグローバル報告書の間の齟齬を検討しているのが私で、中間レベルのナショナル・レポートも実は抵抗をしていると指摘しているのが私の指導教官の部分になります。

やはり今回参考になったのは、私の指導教官の文体です。本文は全部彼女に書いてもらうというおんぶにだっこ状態で、しかしだからこそ非常に勉強になりました。(私の修士論文は、「自分自身の英語で丁寧に書かれているのは好感が持てるが、やはり読み難いことも否めない」という非常にビミョーな評価を得ていたのです。)

彼女は、私の修士論文の論旨を一度もねじまげなかった。私の元々の書き方はもう少し曲がりくねっているのだけど、彼女独自のスタイルにうまく取り込んでもらった感じがする。やわらかく、気配りがきいていて、しかも強硬かつ過激に批判を展開する言葉づかいだ。

私が本来それほど自分が得意ではないことに何とか挑戦して書いた修士論文だった。ほとんど指導を引き受けない彼女が、これは私が見るから私の所に来なさいとわざわざ直接言いに来てくれて、もう私はギリギリの一杯一杯で、何とか仕上がった論文だった。これをどう受け止めて、次をどうするのか、私は10年経った今もまだ試行錯誤を続けている。

lunes, 15 de octubre de 2012

死の匂い

「うちのおばあちゃんはね、自分とこで食べられないものが好きなんだよ」と娘が言うので、サバロ(sábalo)という低地から運んでくる魚を買って、小麦粉とほんのちょっとのトウガラシ粉で揚げて、皆が大喜びだ。お裾分けをもらった猫と犬も大喜びだ。このおばあちゃんは、「死んだら何も持って行けないが、食った物だけは自分と一緒にあるだろ」というのが口癖で、その通り、日曜日に美味しい昼ご飯を皆が揃って食べると、何もにも替え難い満足感がそこに生まれる。

もうすぐボリビアも死者の日(Todos santos)が近付いてくる。

死の匂いというのが、濃くなったり薄くなったりしながら、そこにある。濃くなってくると、いたたまれないような気持ちになる。いつまで続くのかもわからない今がまだそこにはあって、そして本当のその瞬間にはそこにいられないかもしれないという思いが追い打ちをかける。生きていくこと自体が本当に本当に大変で、そして全ては取り返しがつかない。