martes, 27 de noviembre de 2012

季節のご馳走

高原部(アルティプラノ)に住んでいる僕の友人は、先週末にやっとジャガイモの植え付けが全部終わったと言っているが、ラパスの渓谷部(バーリェ)はうって変わってもう収穫が終わろうとしている。

次第に、一年のサイクルの中で、この時期にしか食べないものがあることに、気付いていく。ジャガイモを収穫するこの時期には、Puré de papasという所謂マッシュトポテトを作って、たらふくジャガイモを食べる。ジャガイモを茹でて、牛乳とバターを混ぜながらつぶしていく、単純な食べ物なのだが、これがなんとも美味しい。うちは牛肉のアサードと合せるが、その後話していた人たちはチョリソ(ソーセージ)と合せるのもいいよと言っていた。



来月(12月)の後半からは、白トウモロコシの収穫が始まる。前にもブログに書いたが、この時期になるとウミンタ(humint'a)という、白トウモロコシをすりつぶして、チーズやオリーブを混ぜて葉っぱに包んでオーブンで焼くものを作るのが、恒例行事のようになっている。あともう少しで、またその季節が巡ってくる。

miércoles, 14 de noviembre de 2012

インディアニスモがボリビアの政治にもつ批判の力

11月15日は、18世紀末のアンデスの大反乱の時代に、ボリビアで蜂起したトゥパク・カタリ(Túpac Katari)が処刑された日だ(1781年)。彼は現代ボリビアの様々な先住民運動にその名前を残していて、この日に向けて記念するためのイベントがラパス市では開かれる。

温情的に<他者>である先住民を主流社会に組み込もうとするインディヘニスモと対比して、先住民自らが自分たちのものを取り戻し再興しようとする思想をインディアニスモと呼ぶ。

前々から薄々こういうことだろうと思っていて、今日あらためて確認できたのは、インディアニスモの目標とは、<パチャクティ(pachakuti)を通じたコリャスーユ(Qullasuyu)の再興>であり続けているということだ。

コリャスーユというのは、インカの時代においてアイマラを中心とする人々が領域の南部で占めた地域の呼称だ。先住民の政治運動や政治思想は、興味深いことに、過去のある特定の時代を目標として定めることが多く、ここには<アイマラの人々はインカに支配された側なのではないだろうか>など議論の余地があるのだが、そこが問い直され議論されることはあまりない。そして、pachaは時間と空間が複合した概念、そしてkutiñaは「ひっくり返す」と「戻る」という意味をもった単語で、私が仲良くする組織Taller de Historia Oral Andina (THOA)のFelipe Santosは、<ひっくり返して戻るのだが、戻ったところはまったく新しい地平である>という興味深い見解を、この概念に関して提示している。

ここから、運動の目標として、「脱植民地化(descolonización)」や「解放(liberación)」はそれ自体も使われるのだが、むしろ「自らの回復(reivindicación)」や「再興(reconstitución)」が言葉として重視され掲げられることになる(Constantino Lima)。アメリカ大陸の先陣を切ってコリャスーユがreivindicaciónとreconstituciónを達成しよう、という目標だ。

この目標の中で、エボ・モラレス政権の成立、あるいは多民族国家(estado plurinacional)の建設というのは、一つの過渡期に過ぎなくなる。従ってそこから、強い批判の力を現状に対してインディアニスモはもつことになる。

この目標は、「自決(autodeterminación)」、つまり<自分たちのことは自分たちで決定する>という考え方と強くつながっている。ここで、この<自分たち>というのが明確に規定できるかどうかは、かなり難しい。混血(メスティソ)化したアイマラの人たちをどう考えるか、現政権下でアイマラの富裕層(burguesía aymara)が拡大しているという事実をどう考えるか、そこに低地先住民はどのような形で入っているのか。そして既存の行政区分を変えることは本当に困難で(既得権益)、ボリビアでの先住民自治の実際は遅々として進んでいない。<自分たち>を明確に規定することが難しいにもかかわらず、先住民の自決という考え方が力をもつ。そして多元性や複合性が幾ら強調されようとも歴史の節目に「二つのボリビア(Dos Bolivias)」(白人・混血層のボリビアと先住民のボリビア)という考え方が力をもち、二元的な社会観に基づいて主流社会を突き上げようとする。この矛盾と難題が、実はボリビアの政治の最も重要な駆動力の一つだと私は思う。

これに関連してふと気づいたのは、主流社会の側から提示された<混血(メスティソ)アイデンティティと先住民アイデンティティは互いに矛盾せず、多くの人が両方のアイデンティティを生きているのではないか>という主張に私は注目しているのだが(具体的に提示したのはFundación UNIRという組織で、私は大使館勤務時代に立ち上げにも一部関わっていました)、今日のイベントを聞いていて、この図式を時間化してしまうとかなり簡単に頽落してしまう、つまり、先住民としての過去を持ちつつ現在は混血化しているとすると、かつての混血(メスティサヘ)へと社会を統合しようとした時代の思想と変わらなくなってしまうという批判の可能性だ。(実際にUNIRの中でそういう議論の組み立てを聞いたことがあった。)現在において、同時に、混血アイデンティティと先住民アイデンティティをもっているのではないか、と考えるためには、かなりの強い思考力が要求されるのかもしれない。

今日のイベントでの指摘で興味深かったのは、コリャスーユの再興に向かうインディアニスモに対して、(具体的な70年代からの)カタリスモ(カタリ主義)はボリビア社会の中に自らを位置づけ、協力・協調の可能性を探る立場だと規定されていたことだ(Pedro Portugal)。(もちろんこれが1970年代以降に興隆したアイマラ先住民運動の分裂と弱体化をもたらした重要な要因でもある。)そこから、ファウスト・レイナガ(Fausto Reynaga)やフェリペ・キスぺ(Felipe Quispe)が提唱した「二つのボリビア」(上述)という概念は、我々がボリビアの一部を構成していることになってしまうという点で、批判されるべき考え方になりもする(Constantino Lima)。

これらの考察の現代性としてもう一つ挙げられるのは、現状について、<インディオが権力を獲ってインディヘニスタに堕落した>と捉え、<権力をとることが脱植民地化なのではない>という認識が共有されていたことだ。本来希望をもたらすはずだった政治が大規模な幻滅と現状迎合を生んでいる今の時代に、強い批判の立場があることは、やはり心強い。

だが、だが、やはり私の批判的コメントも最後に書いておかないといけない。今日のPedro Portugalが一つの典型なのだが、彼は、<他者>になることを全て拒絶する、ある種の先住民的普遍主義的ラディカリズムとでも呼べる立場をとる(分かり難いネーミングなのだが取りあえずそう呼んでおく)。そうすると、独特の宗教や世界観の存在も、はたまたより良いもう一つの世界の可能性も、打ち消してしまいそうになり、段々とどこへ行くんだか分らなくなる。奇妙なことにカタリスタ/インディアニスタ運動(ここは総称します)の指導者にはこのような考え方が見られることがあり、実はフェリペ・キスペにも似たような所がある。
(フェリペ・キスペには、戦闘で強いやつが勝つという考え方と、ある種の素朴な(「トラクター導入型」)近代化への志向が存在しているということを、かつてどこかに書いたんだが、探さなければならない。)

そして、そして、やはりインディアニスモは男性主義的(マチスタ)な思想なのだ。今日のイベントも登壇者に女性は一人しかいなかった。男性に従属するのではないとすると、女性のラディカルな思考は、階級をまたぎ国際的なネットワークの中に自らを位置づけていくアナーキズムの形をとることが多く、そこのせめぎ合いに目をつぶってインディアニスモを礼賛してもいけないのだ。

(後でもう少し具体的な情報を補いますが、とりあえず着想を全て書き記しておきます。)

立ち話の9年間

私は物売りや道端の屋台のおばちゃんと話し込むことがたまにあるが、そうしていると稀にその関係が長く続くことがある。

今日の夜、大学の前の広場を通りかかると、お互いに「あぁ~~~!」と言う。実はそのおばちゃんとは2003年からの知り合いで、もう9年以上になるのだ。

市に登録していないゲリラ物売りおばちゃんで、市役所の人に見つかると怒られたり排除されたりするので(こういうときに使うスペイン語はmolestarだ)、街の中心の方で、しかしそういう人が通らなさそうな空間や時間に出現する。かつて私が大使館で専門調査員の仕事をしていたときは、私が住んでいたマンションの目の前の階段状になっている道路に露店を広げていたのだ。

街を縫うしぶとさ、と言うのだろうか。
私のラテンアメリカの街の原風景は、いつもこういうところにある。

世間話を続けていると、お互いの状況を毎回簡単に交換し合うようになる。小さな女の子がチョコレートを道行く人々に差し出している横で、「お前さん、しばらく見なかったけどくにに帰ってたのかい?」「元旦那が病気になったっていうのはどうなったの?」とか、立ち話を続ける。

夫が他の女に走り、小さな子どもを何人も抱えていて、生きるということは、本当に闘いだなといつも思う。

それにしてもこの人は子沢山で、しばらく会わないと子どもが一人増えている。最初は把握していたはずだったのだが、ついに誰が誰だか分らなくなった。沢山の子どもを連れて、街のある場所でぬうっと出会う。この人は神様の一種なんじゃないかと私は思っている。

domingo, 11 de noviembre de 2012

牧草で蒸す

アンデスにはジャガイモ以外にオカ芋と呼ばれるものがある。アイマラ語ではアピーリャ(apilla)と呼ばれる。ふかすと、とてもとても甘くて私はこれが大好物だ。

さて、ジャガイモは霜にあてた後に水けを抜いたチューニョやトゥンタとよばれるものがあるのだが、オカ芋にも同じものがあって、これはカヤ(kaya)と呼ばれる。

チューニョやトゥンタは水に浸けてもどしておいた上で塩茹でをするのだが、カヤはそれとは違う調理の仕方をする。前にも一度簡単に触れたことがあるのだが、今日はゆっくりと見れたので、写真を撮ってみた。

まずは水でもどすところまでは同じ。

次に鍋底に枝を渡して上げ底のようなものを作る。

そして牧草を刈り取って来て、それを敷き詰める。

その上に、水で戻したカヤを水けを絞りながらのせて、牧草の下に水をはって、蒸す。

これが蒸し上がったカヤ。牧草を通すことで、もともとカヤが持っている独特の強い香りが少し中和されるみたいだ。柔らかくて、クニュクニュした食感があって、私はこれも大好物なのだ。

お皿一杯によそってもらって、ひたすら食べていたら、お腹が痛くなった。

ジャガイモの花と実

今から1か月ほど前は、ラパスの渓谷部にある畑には白い花と紫の花が咲き乱れていた。
確か日本だと咲いたり咲かなかったりするのだと思うのだが、ジャガイモの原産地のアンデスにいると、これでもかとばかりに花が咲き誇る。

そして今、その畑はこうなっている。

地上部が刈り取られて後は収穫するばかりとなったジャガイモ畑。アルティプラノ(高原部)ではまだ植え付けが終わったばかりなのだが、バーリェ(渓谷部)ではもう収穫期に入っているのだ。

この収穫期を判断する目安になる物が、この刈り取られた所に転がっている。

この緑色のコロコロと転がっているミニトマトの熟してないようなのが、あのとき咲いていたジャガイモの花からできた実なのだ。この実はアイマラ語でマクンク(mak'unk'u、二つの「ク」は共に破裂音)と呼ばれて、これが出来てくると下でジャガイモが十分に大きくなっていると判断できる、そのための目印の役割を果たすと、うちのおばあちゃんに教えてもらった。

日本のジャガイモは実なんてなったっけか……?

こうしてアンデス渓谷部の農サイクルがまた一度すぎていこうとしている。でもただ循環するだけじゃない。おばあちゃんは、今年身体がだいぶつらそうで、この分納耕作(al partir、半分はうちのもの)をしている畑を今年で手放そうと考えている。色々なことを教わらないままになってしまったんだなあ。





viernes, 9 de noviembre de 2012

Todos Santos 追記

今日は私が関わっている組織の月例の会合があって、友人が話すのを聞いていた。

トドス・サントスではパンで人間の形を作って、これをタンタワワ(t'ant'awawa)と呼ぶのだが、私はこれを死者をかたどったものだと思っていた。そして実際に、かつては(特に頭蓋骨の)ミイラを使っていたのが、カトリックの側から禁止されたために、パンで代用するようになったと考える人もいるのだが、実はこれではなぜ子ども(wawa)なのかが説明できない。これはそうではなくて、むしろかつてインカの時代に太陽神に捧げられた子どもたちのミイラをかたどったものなのだ、という説があるのだね。

そして、サトウキビや果物を私は下で「出会い物」と表現したが、友人が言うとおり、むしろこれは、自分の地域では採れないものに大きな価値があって、そういうものを揃えようとするのだと考えるべきかもしれない。うちのおばあちゃんの食の好みも確かにそうだったなあ(先月のエントリー参照)。

下の写真は2011年に撮影したもの。t'ant'awawaや供壇(メサ)のための小品が並ぶ露店と、うちの家族が作ったt'ant'awawaとt'ant'acaballoです。



11月23日追記:
ボリビア・アンデスにおける死の儀礼を扱うセミナーでMilton Eyzaguirreの発表を聴いていて、そもそもアンデスでは生のサイクルと死のサイクルが併存していて、死と男根・出産を同時に表現するモチーフは多数存在しているので、t'ant'awawasは死と並行して新たに生まれた子供たちなのだと位置付けるのを聞き、なるほどなと思った。

jueves, 8 de noviembre de 2012

ボリビアの現代政治史の先住民主義(インディアニスモ)からの再考

今日は2000年から2002年のMIP(Movimiento Indígena Pachakuti)という、戦闘的なアイマラ指導者のフェリペ・キスペ(Felipe Quispe)が率いた政党の形成過程を扱った本のプレゼンが夜にあって、そこに顔を出してきた。

Jiménez Kanahuaty, Christian. 2012. Movilización indígena por el poder. Los levantamientos indígenas en el altiplano boliviano y el surgimiento del Movimiento Indígena Pachakuti (MIP) Bolivia, 2000-2002. La Paz: Editorial Autodeterminación.


コメンテーターにホセ・ルイス・サーベドラ(José Luis Saavedra)という、アイマラ先住民運動(カタリスタ/インディアニスタ運動)の指導者らをインタビューし、つなぎの役割を果たしてきた知識人が入っていて、彼が話していたことで興味深いことが二点あった。


一つは、ラテンアメリカでも珍しい先住民の精神性を重視した武装ゲリラがボリビアで成立したことが及ぼした影響の大きさを、再評価すべきではないかという点だ。これはトゥパク・カタリ・ゲリラ軍(Ejército Guerrillero Túpac Katari, EGTK)という、1990年代の半ばに公の活動を開始した途端に軍隊に潰された短命のゲリラがボリビアには存在し、フェリペ・キスペ(や現副大統領のアルバロ・ガルシア・リネラ)は、このメンバーで投獄されていた経歴をもつ。(二人とも証拠不十分で釈放されている。)これは先住民の精神性を理解し損なったチェ・ゲバラではなくて、ということだ。


もう一つは、2011年のTIPNIS問題以来のボリビア政治の惨状を乗り越えるためにこそ、強硬なアイマラ先住民主義を打ち出したMIPの形成過程を丹念に振り返ることが役に立つ可能性だ。MIPは2003年以降衰退していくことになり、フェリペ・キスペの不信に満ちた妥協できない排外的性格がその原因として挙げられもするのだが、近年彼の強硬姿勢の再評価(「あれはやはり正しかった」)が同時に進んでいて、2000年から2003年にボリビア社会がもっていた可能性を取り戻そうとする考え方があるのだと思う。


また、著者自身の発言で重要かもしれないと思ったのは、制憲会議(Asamblea Constituyente)を前にして皆が怖気づいて、その結果既存の国家の枠組みを壊しきれなかったという指摘だ。その結果として、「多民族国家(estado plurinacional)」の名の下で、先住民司法の範疇が法律で狭められ、先住民の中央政府への政治代表は結局認められず、先住民自治に向けた行政区分の見直しは進まないなど、先住民の領域の抑圧が継続し、さらに進むという、逆説的な事態が生まれた。これはやはり重要な批判点だ。


ボリビアの政治には、この先住民による反乱(sublevación)の歴史的蓄積を通じて生まれる先住民主義(インディアニスモ)の強い核が存在して、だからハイブリディティなどの概念に取り込まれない、先住民対混血・白人という二分法的な社会の捉え方が可能になっている。その強い批判の力は、やはり思考にとって大きな刺激になる。

domingo, 4 de noviembre de 2012

夜明け前の暗がりの中で

ペルーとチリとの三国間の国境が近い、ボリビアのアルティプラノ(高原)の村に泊りがけで出かけていた。バスは週に2便しかなくて、この現代にこの便数はかなり少ない。

年をとったお母さんのもとに子供全員が集まるという機会だったので、寝る場所が足りなくて、車の中で寝ていた私は凍てつくような寒さで目を覚ました。すると隣で寝ていた人が「お前もか」と言い、二人で笑った。

満天の星空の中で、車のフロントガラスから正面に、ひときわ大きな星がひとつ見える。これはuru uru(ウル・ウル)と呼ばれる星だそうで、午前4時に昇り始めるのだそうだ。この星が見えると、農村では一日の作業が始まる、大切な星なのだそうだ。方角は南の方に見えて、昇っていく。

そして次に、耳をよく澄ますと、遠くで鳥が鳴いているのが聴こえる。これはphuku phuku(プク・プク、「プ」は帯気音)と呼ばれる鳥で、5時になるとこの鳥が鳴き始めるらしい。確かにそうだった。問題は、鳴き声がphuku phukuと聞こえるらしいのだが、私にはどうしても「ホケホケ」と泣いているように聞こえる。何語でもそうだけれど、アイマラ語の聞きなしも難しいなあ。

するともう一つ鳥が鳴いている。これは僕も知っているliq'i liq'i(レケ・レケ、「ケ」は破裂音)という鳥だ。この鳥の鳴き声は確かにliq'i liq'iと鳴いているように聞こえる。今回新しく隣の人に教えてもらったのは、liq'i liq'iが鳴いているときは、人とか犬とか狐とかが傍を通っているのだそうだ。それを知らせてくれるのが、あの鳥の役割なのだと。

そこで分かったのは、アイマラ語の口承文学には、家畜(荷物を運ぶリャマ)を盗まれた旅人にliq'i liq'iが姿を変えた若者が泥棒の在り処を教えるという話があるのだが、ここで出てくるのが何故liq'i liq'iでないといけないのかが、これを聞いて初めて納得できた。知らせてくれるんだな。

「うちの母さんは読み書きは全く出来ないけれど、様々な自然の徴候の読み方を知ってるんだよ」とその人が私に言う。極寒の中で豊かな夜明け前のひと時だった。



PS 今回出かけていた地域はリャマしかいないと言われていたのだが、確かにそうで、そしてそれはこの場所は雨がほとんど降らないからなのだった。雨は1月と2月だけに集中的に降り、その期間は川が渡れなくなって、村が孤絶し、電気も来ない、若者が殆どいなくなってしまった地域なのだ。この境い目になっているのはペルーとの国境から流れてくるデサグアデロ(Desaguadero)川で、この川を越すと途端に雨が降らなくなるのだそうだ。アンデスではちょっとの距離差で気候が全然変わってくる、いわゆるミクロクリマ(microclima)というのが大事だというのはよく言われるのだが、高原部(アルティプラノ、altiplano)でもここまで違うというのは、新たな驚きだった。
 しかしそうであればそれなりの楽しみはあって、リャマを解体してワティヤ(wathiya)という地中で石で焼く料理をご馳走になった。もう石と土で焼かれた肉や芋の美味しさは格別だ。次の日にはリャマ・スープを作る。リャマの骨からでる出汁の旨味は、羊ともだいぶ違って、またなんともいえない美味しさだった。


viernes, 2 de noviembre de 2012

ボリビアのTodos Santos 2012

(下の記事の続き)
今年目にした色々な物を記録しておこう。

まずはメサ(供壇)を構成する様々なもの。下の写真中央にあるのはビスコチュエロ(biscochuelo)と言う。

この下がっているのはティラ(tira)と呼ばれる。
問題はこの上の二つが、それぞれ何の意味を持っているのかが正確には分からないことだ。この場合に限らず、供え物の構図は面白く不思議だなあ。

そしてこれがキヌア(キスピーニャ)で出来たリャマ。このリャマもパンや果物を死者が持って帰るときに担いでいくそうだ。ちなみにこのリャマは段々レア物になりつつあるようで、すごい探したと見つけて来た人は話していた。

町の墓地では、それぞれの家族が陣取って、人びとにお祈りに来てもらう。「誰々のために祈ってくれ」とお願いして、祈りが終わると、果物とパンをセットにしてお礼に渡す。

jueves, 1 de noviembre de 2012

ボリビアのTodos Santos


11月の頭は日本のお盆に当たるトドス・サントス(Todos Santos)という死者の魂が帰ってくる日々だ。

ふと思ったが、戻ってくる死者がつく杖になるというサトウキビは低地から、そしてパンと共に死者が持って帰れるようにという果物は、オレンジ、バナナ、パイナップルと亜熱帯地方産だ。Todos Santosのメサ(mesa、供壇)も、高度差のある様々な地方の物の出会いの場なのだなあ。

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(以下は2009年の同じ家族のトドス・サントスについて、レコムの『そんりさ』という会報に書いた原稿を一部転載します(2009年11月号)。)


 ラパス市内のサンペドロとロドリゲスの間の辺りに、ミニブス(minibus)(日本で言うマイクロバスをバスとして使っているもの)[1]とトルフィ(trufi)(いわゆる乗合タクシー、ミニブスよりほんの少しだけ高い)の乗り場(parada)がある。乗客が埋まるたびごとに出発するのだが、日曜日は客が多くて一台着くたびごとに人が殺到する。ラパス市内を南に向かって高速を下りていくと、高級住宅街であるソナ・スール(Zona Sur)に向かって左に大きく曲がるカーブがある。そこを逆に右に曲がると、月の谷と呼ばれる観光スポットに向かって岩山を再び少し上ってから、また下り始めて動物園やバーベキュー場やカートや乗馬のできるマリャッサ(Mallasa)という所に着く。ここは市内よりもだいぶ暖かく、ラパスの人々が週末に遊びに来るところ。そこも通り過ぎると、ラパス市内から一緒に下りて来た川をわたる大きめの橋があって、その先はリオ・アバホ(Río Abajoと呼ばれる地域に入る。
 リオ・アバホは高度が3000mを切るので、空気がむっとするほど濃くなって、暖かさがラパス市内と全然違う(注:僕が普段いるエル・アルトは高度が4000mを越えています)。ワフチーリャ(Huajchilla)、バレンシア(Valencia)と比較的小さめの町が続き、川の左側はメカパカ(Mecapaca)という町で終点になる。ラパス市内からは1時間と少しで着く。ラパス市内で僕が仲良くしている家族のおばあちゃんがバレンシアに住んでいるので、ほぼ毎週日曜日にここに通って、アイマラ語のお話を学ばせてもらったりもしている(注:これは僕の現在の調査の一つの小さな柱になっていて、多分どこかで発表する機会があると思います)。ここは果物の生産が盛んで、10月終りになると果樹の葉は青々と茂り、花の季節はもう終ってプラムや梨やイチジクやルフマと呼ばれる果実が青く育ち始めているのが見える。12月の後半から徐々に収穫の季節に入る。ラズベリーは既に赤くなっていて、つまみ食いができる。かつてはアシエンダが労働者たちに分配されたという経緯があったようだが、最近ではこの辺りもラパスの高所得層の別荘地としての開発が進み、広い敷地を仕切って大きい住宅の建設が進んでいるのが毎年増えているようだ。
 日差しの質が違って、バレンシアは土壁が濃密な太陽にあてられて焼けているような感じのするひなびた町だ。メカパカは今年12月の総選挙の大統領候補にもなっていて、セメント会社の社長でもある大企業家サムエル・ドリア・メディナの大邸宅があることで有名であり、街の中心部は壁が全て濃い目のオレンジ色で統一されて塗られているのだが、これは彼が資金を提供しているらしい。
 111日は、(メキシコなどと同様に)ボリビアでもトドス・サントスと呼ばれる日本のお盆のような行事がある。この日一日死者の魂が戻ってきて、翌2日に戻っていくのだ[2]。うちのおじいちゃんは2004年に亡くなっていて、そのためにお供え物をするメサ(mesa)というものを設える。おじいちゃんが生きていた頃はバレンシアのうちでメサを設えていたらしいが、亡くなった後はその先のメカパカのおじいちゃんの弟が持っている家で共同にメサを出している。
 うちのメサはこのような感じである(写真)。上から見ていくと、サトウキビと花でアーチ(アルコ)が作られ、その奥には一番上にビクトル・パス・エステンソロ元大統領の写真が(おじいちゃんが大ファンだったそうだ)、その下には右側におじいちゃんの名前が、真中には若くして死んだおじいちゃんの兄弟の一人の写真が、残りの二つは彼らのさらに父親と母親の名前になっている。目を引くのは、果物とともに人をかたどったパン(タンタ・ワワ(t’ant’a wawaと呼ばれる、t’の音はglotalizaciónと呼ばれる破裂させる音)と馬をかたどったパンがその下に大量に積まれていることだ。両方ともお面がついていて、このお面(カリータス(caritas)と呼ばれる)はトドス・サントス前になると市内の露店の至るところで見える。トドス・サントス前の一週間は市内のパンを焼くことのできるオーブン(オルノ、horno)のある場所は大忙しだ。これは戻ってくるはずの死者をかたどったものであり(戻ってくるのは老人だから少しふざけてタンタ・アチャチラ(t’ant’a achachila)だと言っているのを聞いたこともある)、馬は死者が一年分のパンと果物を積んで戻っていくためにあるということだ。この馬はリャマだったりすることもあるらしい(うちにはなかった)。少し段になるように積まれているのは、段を上るようにして天に戻っていくかららしい。少し分かりにくいが左側三分の二ほどはおじいちゃんの弟夫婦が用意したもの、右側三分の一くらいがおばあちゃんが用意したものだ。正面には、酒をよく飲む人だった場合は酒と、故人が好きだった食べ物が備えられて、また列席する人たちにもふるまわれる。花の中で目を引くのは、とう(tuquru)の立ったタマネギが必ず供えられることで、これは僕が聞いた話では故人が飲む水を含んでいるということらしい。
 お祈りをしに来る人がいる。僕は子供たちと途中からサッカーをしていたので全貌は見ていないのだが、家族の人たちはその人に例えば「Chachajataki. 私の(死んだ)夫のために(祈ってほしい)」と依頼する。そうするとその人はお祈りをした後に、「urasyun katuspan 魂までが祈りを受けとりますように」と言って、家族の人たちも同じ言葉を返している(スペイン語で言うときはque se reciba la oración)それを死んだ家族の分、そしてメサを出している両方のそれぞれに対して繰り返すと、それぞれからパンや果物が分け与えられる。僕が目撃したのは、近所の人のようで、あまり豊かでない人がこうしてお祈りをして回ってパンと果物をもらっているとの話だった。
 月曜日は僕も含めてラパスに住んでいる家族は行かなかったのだけど、メカパカの墓地にメサを移動して食べ物を振る舞うらしい。月曜日に魂が天に戻っていくということなのだが、農村の方では火曜日まで続いて、火曜日に魂が戻っていくらしい。エル・アルトで僕が今いさせてもらっているラディオ・サン・ガブリエル(Radio San Gabriel)でも火曜日はまだ仕事に来ない人がいて、「村に戻っているからね」と周りの人たちがしゃべっていた。




[1] ちなみに、ラパス市内にはミニブスと共に、アメリカのスクールバスの中古を中心とした大型バスで運行される路線があり、それはミクロ(micro)と呼ばれる。名前だけだとミニブスとミクロのどちらが大きいのだかよく分からない。タクシーなんかに乗るとお金がかかってしょうがないと思う人は、もっぱらミニブスとミクロとトルフィを愛用することになる。慣れてくると意外に路線の構図が分かってくるもの。

[2] よく考えてみると、前に仕事をしていたとき、僕は決まってこの時機に休暇をとっていたので、実はトドス・サントスを見るのは初めてなのだった。面白いことにここの日系人の人たちは、8月ではなくてこのトドス・サントスを目安にしているようだ。1日に僕が泊まっている家の家族を中心とした人たちで大がかりな夕食会があった。