domingo, 23 de julio de 2017

何度も魚スープへと立ち返る


ボリビアのラパスに着いたときに、まず私が顔を出すところがロドリゲス市場のワヤケ(魚スープ)のお店。土曜日は路上に屋台が出て、日曜日は少し奥まった場所の店舗だけが開く。コワと呼ばれる香草の香りがむっと立ち込め、入り口に座るおばちゃんに、また日本からたどり着いたのかい、と声をかけられる。夜が明けると早朝から店も開いている。指で骨をつまみながらカラチ(チチカカ湖の魚)の全身とサバロ(東部低地の魚)の頭をむしり食べる。飲み終わったらスープとチューニョ(乾燥ジャガイモの保存食)は少しお替りをもらえる。これを食べると、体と心と頭が場所に馴染んでいく気がする。





martes, 18 de julio de 2017

言語の教育の隘路と可能性

私は元々スペイン語教育を「専門」として「研究」したことはないのだが、自分の職業上の実践的な(つまりメチエとしての?)関心から気になって、折に触れて研究を読み、周囲を見ながら考えている。

ただし、関心をもてば関心をもつほど、自分が掘っている方向が、他の人たちがいる場所からだいぶ離れているような気がしてくる。

(1)文法とは、ただの文を作るためのルールの羅列ではない。「なぜ」を突き詰めることで、そもそものその言語の発想の仕方、世界の形成の仕方が、より鮮やかに見えるようになるものだ。もっと言えば、言語学(これは応用言語学ではなく)の知見の中に、実際の言語を使う際に役立つ部分が確実にあることへの信頼が、私は他の多くの人よりも高い。また、形式と内容はそもそも分離できないから、内容と文脈を持たない文で形式だけ練習することの効果を、私は深く懐疑している(この最後の点は有難いことに前の職場でも今の職場でも教員間で共有されている)。

(2)ただし文法とは、実際に使おうとする現場から立ち上がるものでしかない。日本社会は、言語習得において受け身の能力(特に読み)を過剰に優先しがちで、文法を先に説明して後から演習をするということは、結局は受け身の言語能力に特化した教育になりがちだ。そこにあるノイズを含めて明確に文脈化されたことばからスタートして、学生自身のマッピングと教員が築いてきたマッピングをすり合わせる。それは実際に使おうとする中で生まれるマッピングだ。

(3)「日本人教員」と「ネイティブ教員」という区別自体が私は嫌いだが、でも両者の間に越えがたい壁がある。日本人教員は往々にして日本の外国語教育の文脈にどっぷり漬かりすぎていて、現状を十分に批判的に見られない。また、特に教員はごくごく限られた無手勝流の「現地経験」を元に言語教育を云々することが多く、 言語に繊細かつ深い洞察を行うネイティブスピーカー(これは言語学者とは限らない)と丁寧に話す機会が少なすぎる。ネイティブ教員は日本の言語教育の歴史的文脈とそれが持つ凄みを、具体的な形で体験することがほとんどない。

ある種の条件はそれほど簡単にクリアできるものではない。そこで楽観的な見通しを持ってもしょうがない。でも、自分がひたすらやっていれば、そこと相通じる何かを他の人たちの中に見つけることだってできる。たぶん、そういうこと。

martes, 4 de julio de 2017

身体の相互浸透としての、花を生けること

古典花をやっていると、枝や茎の形を作っていく作業がとても重要になる。現代の花でも枝を丸めたりなどの細工をすることがあるが、古典の花は一本一本を作っていかないといけない。より職人的な作業が必要とされるというか。

この前に桔梗を生けていたときに、おもしろいことに気づいた。この草は切り口から粘り気のある汁が出てくるが、これが手についてくると茎の先端の細いところまで、けっこうきれいにためることができる。それは、水仙の花茎から出る汁を葉をつけるのに使うのと、少し似ている。

これは、身体を通じて植物に関わり、植物自体にどうすれば良いかを教えてもらうということだと思える。身体を植物に近づけて同期させていくような。

しかしそれは、植物を人間に近づけるということでもある。人間の思う正しさや、人間の思うありのままだ。相互浸透したい欲と、人間を投影してしまう業との間で、花は生けられてそこにある。

写真は桔梗の9本生け。市場は梅雨が終わる前にもう秋の花が出回る気の早さだ。