martes, 15 de diciembre de 2015

言語教育で最初に時間をかけることの大事さ

今年度、語学の授業に関して、どうもこういうことなのかな、と初めて気づいたことがある。

一つ目は、最初の段階で何度も丁寧に自分で考えて言葉を発してみる訓練を積むと、そこでの進みが少し遅いと感じられたとしても、後の進みが意外なほどにスムーズになるらしいということだ。それは、おそらく体感で確固たる基盤が形成されることによる。この丁寧に練習をしながら時間を積むというのは、コミュニカティブ・アプローチを採るときの重要な点で、というかコミュニケーションを取れるようになろうと思ったらどうみても必要な点だ。

二つ目は、時間を取って関係を構築してくると、単語の知識を得ようとするときの考え方や、文章を読む際の文の要素の組み立てとつなぎのパターンへ、思考を誘い易くなってくる。 もちろん、単語は一つの意味との一対一対応で覚えるべきではないし、文の組み立てやつなぎは「構文」のような静態的なものではなく展開していくゴツゴツして立体的なものだ。こう考えてごらん、こう見てごらんという方向へ、一緒にやり取りを通して向かえるようになる。これは、今年度非常に珍しく(しかも非常勤先で)二年連続で一つの集団を教え続けている中で気づいたことだ。

いずれにしても、これは最初の一年とちょっとという時間に、丁寧に丁寧に時間をかけて自分の頭で考えていくということの大事さだ。それぞれ、全然別の集団と時間を共にする中で、こういうことかなと気づいてきた。

こういうことをベースに据えると、ただ単元と項目を順番にこなすという以上の何かができるだろうかね。おもしろいかね。

martes, 1 de diciembre de 2015

30台の最後で

ああ私はオダギリジョーさんと同い年なのか。

NHK(Eテレ)の『スイッチ・インタビュー』を偶然見た。5年後に見たくらいでは自分が十分に変わっていないのではないかという感覚、技術を蓄積していっても20台で失った感覚にはもう辿り着かないのではないかという葛藤、それでも若い人ともう一度何かを作ろうとする再出発、それらのすべてがキツく、そういうことだなと納得し直すような、つらい時間を経験した。対談の相手に自分より10歳ほど若い人を指名するという、その振る舞いも含めて。

(逆に)将棋の羽生善治さんは、年配世代の継続を見たのが先の見えないスランプから立ち直るヒントになったと、事あるごとに話している。追求し続けて、それでも果てがない、その年台ごとの人のあり方があるのでしかないことを、受け入れられるようになるということは、狂言の野村万作さんと野村萬斎さんが言う「時の花」とも通じることだ。

もがき苦しむように楽しく、生きている。