jueves, 25 de agosto de 2016

今日のひとこと(アンデス先住民言語:ケチュア語の社会言語学)

Sin embargo, una vez que uno sale de la burbuja que es la ciudad misma de Cusco, una vez que se cruza la línea imaginaria entre la parte urbana del distrito de Santiago, en donde se habla quechua y castellano, y se entra a las comunidades que existen en el mismo distrito, uno encuentra un país, no un país bilingüe, sino un país monolingüe en quechua, que está administrado desde afuera por gente que a lo mejor habla quechua como segundo idioma, pero que obviamente son castellano hablantes. Pero el quechua que habla la gente que viene a administrar estos sitios es distinto del que habla la gente que vive en estas comunidades. (p.153)
【私訳】しかし、いったんクスコの街自体の外に出ると、ケチュア語とスペイン語の双方が話されているサンティアゴ地区の都市部の想像上の境界線を踏み越えると、そして同じ地区の中に存在する村々へと入っていくと、人は二言語使用の国ではなく、ケチュア語の単一言語使用の国と出会う。その国は、外部から、ケチュア語を第二言語としては話すかもしれないが、明らかにスペイン語話者である人々によって、統治されている。しかし、その外から統治をしにくる人々が話すケチュア語は、これらの村々で生きる人々が話すケチュア語とは、異なっている。
(Bruce Mannheim y Margarita Huayhua. 2016. "El quechua es un idioma multi-registral." En Centro Estudios Regionales Andinos Bartolomé de las Casas (CBC). Foro Dilemas de gobernabilidad en el Sur Andino al 2021. Cusco: CBC, pgs.152-156.)

とてもザックリした言い方なのだが、そのザックリさがむしろ現実を鮮明に特徴づけるということがある、と思わせる。ミシガン大学の言語人類学者のブルース・マンハイムはペルーのアンデス地方を、一貫して、別の民族・国が囲い込まれている(acorralado)状態にあると表現していて、これは単純すぎるという批判も受けてきたのだが、現在に至るまで直観として有効な洞察だと思う。そう、この分断が今も変わらず続いていることは、何度でも確認されてよいことだろう。同じ原稿の別の個所には、このような一節もある。

En el Perú no sabemos en realidad cuántos hablan el quechua, ni cuándo, ni dónde, ni en qué circunstancias sociales. En realidad, hemos repetido las mismas estadísticas de siempre, apoyados en censos insensatos, sin haber hecho el trabajo empírico sobre la base del cual se pueda armar una política idiomática más profunda. (p.152)
(censos insensatosはたぶんギャグ)
【私訳】ペルーで、我々は現実問題として、ケチュア語を、何人が、いつ、どこで、どのような社会的状況で話すのかを知らない。実際には、これまで、理性を欠いた国勢調査にあぐらをかいた変り映えのしない統計数字が繰り返されてきたのであり、より深みのある言語政策を策定するのに役立つような実地調査は行われてこなかった。

(注)ここで言及した文献の紙バージョンには文献リストが付いていないが、筆者マンハイム自身がacademia.eduで文献リスト付きのPDFファイルを公開している。

追記:この論考は、これまでの多くの調査がスペイン語とケチュア語の二言語話者に偏りすぎていたという反省の下に、ケチュア語の単一言語話者のおかれた社会状況やその音声的特徴を調べていく、中期的な取り組みの中に位置づけられるものだ。ここから、かつてのケチュア語とアイマラ語においてあった「五母音表記」の主張は(両言語ともに母音は三つしかない)、都市支配階層の二言語話者に基づいたものにすぎず、単一言語話者のケチュア語を見ていないものだ、という見解まであと一歩ではないかと思われるのだが、さてそれでいいのかな。

sábado, 20 de agosto de 2016

いのちの危機の場に身を置くたびに

私は「業界」としての人類学にコミットしているわけではないし、人類学自体が変化してきたのでもあり、調査の過程での調査者の「介入」に神経質になることはないが、ただし自分の介入(参与)を省察する必要はあるとは思っている。

かつて人類学において、調査者は中立を保つべきだとされ、調査対象への介入をするべきでないと考えられた時期があったが、そもそも方法論として参与観察の「参与」って何だったんだよということでもあるし、不介入主義がもつ倫理的陥穽が指摘されもしてきた。

文化相対主義をそう簡単に手放していいわけではない、でも我々はしばしば介入せずにはいられない。どっちも当たり前のことではない。

これが人類「学者」にとって、ここ25年くらいの比較的新しい感性だとして、決定的かつ衝撃的だったのはナンシー・シェパー=ヒューズ(Nancy Scheper-Hughes)のブラジルのスラムでの仕事だった。やっぱり自分の原点には、大学院の入り始めで彼女の仕事を読んだことがあったのだと、最近再確認した。

そもそも疑似的に家族の一員として位置を与えられるのは、介入というよりは、受動的に、しかし決定的にその家族を変えている。そしてその場で、「いのち」に関して、私は何度か自分が介入する決断を下してきた。これを放置したらもうその人の命が危ないという場面で、ということでもあるし、もっと緩やかには、生活や人生が本当に苦しい中で誰かが寝たきりに近くなっていたとき、私が来ると分かると元気になる、というのも、私は「いのち」に影響を与えているのだろう。

人は話したいし、聞いてもらいたい。そして、人は生きたい。なぜか、様々な経験を経る中で、いつのまにか、私は、この二点だけは、ほとんど前提のように想定してしまっている。

一生懸命に息をしようとしている、生きたいよね。そんなに簡単にわたしはお前を死なせたりしないし、家族がバラバラになるのを傍観したりなどはしない。そんなに直線的に考えてよいことなど本当はなかったのだと分かってきてしまったけれど、それでももう十年以上しんどい状態を一緒にくぐってきたのだ。いのちの危機から、せめて逃げないようにしよう。

ボリビア・アンデスのスペイン語の線過去と現在完了の間で

とりあえずボリビアのラパス近辺のスペイン語に限定して言うと、アンデス・スペイン語(español andino)という、先住民言語アイマラ語との言語接触の上に成立したスペイン語では、点過去が使われない。よく耳を澄ましていると、私の周囲の人々も点過去を使わないことが確認できる。

(ただし、様々なコンサルタント業務や大学などで支配社会の側と接触が多い人は、点過去を使うことがあるように思う。また、過去の事実を強調しようとすると点過去が使われることがあるような気がするのだが、これはまだ要追跡確認。)

現在完了と線過去の使い分けは、おそらく現在完了がアイマラ語の単純形・現在過去形(simple, presente-pasado)という(現在とともに)近い過去を述べる形に対応し、線過去がremoto cercanoという少し離れた過去だが自分が実際に経験した過去を述べる形に対応する。ちなみに、自分が経験していない・忘れている過去を述べる際には、アイマラ語ではremoto lejanoという形が用いられ、それはスペイン語では過去完了で述べられる。この最後の点は、よく知られている。

そうすると、アンデス・スペイン語の線過去の使い方は、規範文法における線過去の使われ方と少しずれてくるはずなのだが、そこの差異をまだはっきり私はつかめていない。

さて、この線過去と点過去はdeberやtener queという表現と組み合わさると、またある種の複雑さを帯びるようだ。debías venirというと「あなたは来るべきだったのに」で、これは実際には来なかったことを責めている。これはアイマラ語でreprochadorという、remoto cercanoの屈折接尾辞(活用語尾)に独特の屈折接尾辞を組み合わせた形があり(動詞の不定詞の形はjutaña、ここでの形はjutasamän)、それに対応している。ベースがremoto cercanoだから線過去、という対応もある。さて、has debido venirというと「あなたはきっと来たんだよね」となり、これはおそらく事実としてそうであったことを推量する。これは-pachaという動詞接尾辞(inferencial)に対応している。これは単純形に-pachaを付け加えたような形をとるので(jutpachata)スペイン語でも現在完了だ、という対応もある。

さて、deberとは別にtenías que venirという形がある。これは実際に来たかどうかはどっちでもありで、その人にくる必要があったことを問題にする、たぶん。これはアイマラ語では不定詞にremoto cercanoの屈折接尾辞を組み合わせた形に対応していて、だからスペイン語でも線過去だ、という対応がある。

これでだいたい合ってるかな。要検討。さて、それで、これがスペイン語の規範文法とどれくらいずれるかが、依然として問題か。言語接触では、スペイン語の元々の用法に相手の言語の用法を受け入れる素地があるから、接触による変化が起きる、とも考えられるので、アイマラ語に合わせてスペイン語が変わりました、という単純な話ではないはずなのだ。

これは本来まったく自分の専門ではないのだが、関心をひとたびもつと興味が尽きない。なんと複雑な言語世界をボリビアは生きていることか。

miércoles, 17 de agosto de 2016

テレフェリコが可能にするラパスの街の新しい空間感覚

 
ボリビアの現政権はインフラ投資を中心とした公共事業に大きな力を入れているが、行政上の首都ラパス市に滞在していて、すぐにその違いが目に入るのは、公共交通としてのロープ―ウェイ(スペイン語ではテレフェリコteleférico)のネットワークの整備である。

高山都市ラパスは空中都市でもある。植民地時代、南のポトシ銀山と北のクスコを結ぶ線上の高原地帯のすぐ脇に、風と寒さを避けられて標高のわりに温暖な、大きなすり鉢状の谷の入り口があったことが、この街の発達につながったのだと思うが、アンデスの他の都市と比べてもとにかく傾斜が厳しく、坂道が険しい。高原の上にあるエル・アルト市の国際空港は標高約4100mのところにあるが、ラパス市の中心は約3700m、南部にある富裕層の居住地区は約3300mで、400m~800mに及ぶ高低差を一望しながら日常生活を人は送ることになる。

高所恐怖症の私は、このテレフェリコができてからしばらくの間、これに乗るのを怖がって、周りの友人たちや家族から勧められても拒否し続けていた。しかし、あまりに笑われるので、ある日意を決して乗りに行った。そしてはまった。

怖いのは怖い……のだが、建設したドッペルマイヤー社はヨーロッパのこの分野の大手だから、とりあえず信頼するとしようか。

テレフェリコに乗って街を横切る(縦切る)感覚には明らかに全く新しいものがある。言葉にしづらいのだが、空中都市を空中から体験する感覚、と言ってみようか。エル・アルト市の頂上の駅から、車の場合のようにすり鉢にへばりつくようにして遥か下へおりはじめるのではなく、垂直に400m下に向かって一気に投げ出されるようにして斜面を垂直におりていく。街全体に包まれるように浮かび、そしてアンデスの高い峰々と深く切れ込んでいく渓谷を周囲に一望する。これが、あくまでも日常の交通手段として提供され、利用されるのは、街に新たな視覚と感覚を与えるものだと思う。

ただし、街の真上を通るので、家がテレフェリコの真下に当たった人々は災難だなと思う。何せ高い塀で目線を遮ったとしても、上からは中庭や生活の諸相が丸見えなのだ。抗議運動が起きそうなくらいだが、出歩く側からすると人々の生活が新たな角度から見えてテレフェリコに乗る魅力の一つになる、とも言えるだろうか。この点も含めて、なかなか衝撃的な乗り物だと思う。

domingo, 14 de agosto de 2016

どの場所から考えるか、それが私だ

ぶあつい壁の中の薄暗い部屋に、昼になるとアンデスの強烈な日差しが差し込んでくる。ラパス市のソポカチ地区の坂を上っていった辺り(Alto Sopocachi)に、私の魂の一部が確実にある。


私はラテンアメリカの思想研究で流行しているModernidad/Colonialidadグループを必ずしも高く評価してはいないのだが、その中のワルテル・ミニョーロ(Walter Mignolo)が提唱した「I am where I think」(どこで考えるか、それが私である)、つまり発話の場所(locus of enunciation)を重視する発想には共鳴している(Mignoloに立脚しないとそれが言えないのかという葛藤はあるが)。

何度も繰り返してその場所に戻り、上塗りするように、それをもう一度解体するように、耳を澄ましながら、対話を重ねながら、自分の思考をつなげていく。その機会を与えられていることが、いちばん有り難いことなのかもしれない。

sábado, 13 de agosto de 2016

国際学会JALLAをめぐる雑感

今週一週間は、JALLA(Jornadas Andinas de Literatura Latinoamericana:ラテンアメリカ文学をめぐるアンデス会議)という国際学会がボリビアのラパス市で開催されていた。もともとラパス市で立ち上げられた学会で、久しぶりに戻ってきたのだという。初日の幾つかの面白そうなセッションには出られなかったのだが、アンデス口承史工房(Taller de Historia Oral Andina)の一員として私も参加した。

参加していると、当然のことながら良い面も悪い面も見えてくる。

狭い意味での大学研究者の外側へと広がりをもち、高校や教員養成学校の教員や在野の研究者たちが国境を越えて参加していて、これはラテンアメリカで実施される地域ベースの国際学会の良いところだろう。また、人文系の学問では、特に大学を単位取得卒業(egresar)した後でも、卒論やら何やらで人々が比較的長い期間を大学周りに留まるので、学会とアカデミズムに関心を持つ層が比較的分厚い(日本よりも分厚いんじゃないだろうかと思うくらいでもある)。

我々のセッションも、教員養成専門学校の教員周りや高校生たちとその教員による人形劇などと組み合わさって、聴衆の中には何と高校生の集団もいたという、なんとも楽しいものであった。

ただの学究という方向を目指すよりは、そのような猥雑な雰囲気の中から大事だと思える課題と精神(スピリット)とをくみ取っていきたいなと思う。

ただし、業界内の分断は相変わらず存在する。アンデス文学の世界でも研究者は内向きのグループを作り、先住民の世界に足を踏み入れない。そして、その境界を越えようとした作家や評論家が神格化され、 カノン化され、それはその内向きのグループを守るように働く。僅かな例外を除いて、ウソみたいな文化的解釈がまかり通り、誰も疑義を挟まない。

もちろん、先住民文化の様々な側面が死に絶えた史前の遺物としてのみ価値づけられ、位置づけられていた20世紀前半からは、大きな変化なのだろう。しかし、社会の分断は確実に存在し、それは学会のプログラムにも確実に現れていた。

でもその中で、ボリビアは下から突き上げて自分たちで別のセッションを作っていこうという動きが盛んで(我々のセッションもその一翼を構成していて、そもそも参加すべきかどうかでかなり議論があったようだ)、それが一筋の風を吹き込んでくれている。

miércoles, 10 de agosto de 2016

今日のひとこと(ボリビア文学:イルダ・ムンディ書簡集)

Esos instantes vividos al calor de un sentimiento necesitan ser descritos por nosotras mismas. Quizá puedan tener exageración (exageramos algo) pero poseerán la visión exacta de lo que sentimos, de lo que vivimos, de lo que amamos...
【私訳】ある感情の高まりの中で生きられたその一つ一つの瞬間は、私たち女性自身の手で描き出されなければいけない。ひょっとすると、そこには誇張があるかもしれない(私たちは何がしかは誇張している)が、しかしそこには私たちが感じ、生き、愛した物事についての、正確なビジョンがあるはずだ。

"Carta de Laura Villanueva Rocabado (Hilda Mundy), octubre de 1934." En Hilda Mundy (Edición de Omar Rocha). 2016. Bambolla Bambolla: Cartas, fotografías, escritos. La Paz: La Mariposa Mundial y Plural editores, página 54.

昨日(8月9日)に刊行され出版記念のプレゼンがあった、『花火(Pirotecnia)』(1934年)で知られるボリビアの作家イルダ・ムンディの書簡と新聞記事を集めた書籍を読み進める中で出会った言葉。

家庭の中での(保守的で)退屈な人生と、こうではなかった筈なのにという思いと、女性が置かれた状況への絶望と、それに取り組む女性たちへの絶望と。それでも抑えきれない自身の内面の困難さが、書簡のそこかしこに姿を現して、花火のような閃光を走らせる。 この人をvanguardia(前衛)ではなくretaguardia activa(活動的な後衛?)と特徴づけるのがいいのではないかと、編者のRodolfo Ortizが昨日のプレゼンの場で発言しているのを聞きながら、確かにそれはそうかもしれない、と思った。