lunes, 20 de marzo de 2023

アンデスの高原地帯で重要な「トーラ(t'ula)」という灌木

コロナ禍(とそれ以前に部分的には私の不調)による長い休止を経て、昨年の夏からラテンアメリカに戻っている。この3月もボリビアに来ている。

論文には確かまだ書いたことがない事柄だが、 私はボリビアで一つの家族ともう20年にもなる関係を積み重ねてきていて、この家族の父親と子どもたちは、20世紀前半ボリビアにおけるアイマラ先住民運動(カシーケス・アポデラードスの運動と呼ばれる)の有名な指導者サントス・マルカ・トーラ(Santos Marka T'ula)の子孫である。この家族の中で私は、「密輸されてきた息子(hijo contrabandeado)」として、誰の息子で誰の弟でという家族の中でのポジションが決まっている。そして、皆が家族の外の人たちに対しても大真面目にこれを主張してくれる。

さて今回は、その家族の父方の出身地であるイラタ(Ilata)という村で、重要な役割を果たす植物の話だ。上記の先住民指導者の名字にもあるトーラ(t'ula)は、ボリビアの高原地帯(アルティプラノ)と呼ばれる標高4000m弱に広がる平原の一部に生えている、とても重要な植物に由来している。今日はラパス県のグアルベルト・ビヤロエル郡 に行っていたのだが、同じ県のパカヘス郡でも群生している地域を見たことがある。

これは、アルティプラノに生えている灌木で、下の写真のように枝に棘がなく(棘がある灌木がかなり多い)、葉の先端は細く柔らかくなっている。

 

少し離れて眺めてみると次の写真のようになる。後ろに植わっている赤い植物たちはキヌアというアンデス原産の穀物だ(アイマラ語ではフパjuphaと呼ばれる)。

 

これはまずは、薪として有用である。高原には樹木がそもそも生えないので、灌木を切ってきて乾燥させながら薪として使うことになる。トーラはまだ葉が緑のままで、すなわちまだ乾ききっていない中でも、しっかり燃えるのだそうだ。下の写真では、屋外の薪で料理する料理台(アイマラ語でケリqhiriという)を取り囲むようにして、伐採されたトーラが積み重ねられ、乾かされている。

 

(ちなみにこのような灌木がない場合は、リャマや牛の糞(アイマラ語でプルphuru)を乾燥させたものを燃料として用いる。)

肉のアサード(asado:炭で焼くバーベキュー料理)をやる時でも、この地域ではトーラが使われるのだそうだ。独特の風味になりそうで、今度再訪した際に皆でやろうということになった。

さて、トーラの有用性は薪としてだけではない。この雨季に、先っぽの方の葉が黄色くなり始めたトーラの灌木では、株の周りをよく調べると、土が盛り上がっている部分がある。今日教えてくれた人は、この盛り上がりを「荷物がそこにあるかのような(abultado)」と表現していた。そして、その盛り上がりを叩くと、太鼓(ボンボ)のような音がするのだそうだ。下の写真で、灌木の右下に土に切れ込みの入った盛り上がりが見えている。


そこには、新しく形成された地下茎のようなものがあり、掘り起こしてみると次の写真のようになる。

この地下茎はアマニョケ(amañuqi)と呼ばれるのだそうで、これには薬効成分が豊かに含まれると言われる。肝臓とかに特に良いらしい。黄色い部分とピンク色の部分があって、黄色の部分がカンク(k'ank'u)、ピンク色の部分がムスカ(musq'a)と呼ばれる。ピンク色の部分は甘い味がするらしい。よく洗って、乾燥させて、薄く切る。そのまま食べることもあるが、煎じてお茶(マテmate)にして飲むといいのだそうだ。沸騰させると辛くなるから、煎じるだけにするのが大事だと。

今年はまだ雨があまり降っていなくて、このアマニョケがほとんど見つからなかった。雨が降っていれば、もっと上の写真よりも2倍くらいに大きいサイズで見つかるのだそうだ。

今回は乾燥させるのを待っている滞在時間がないので、お茶を味見するのは別の機会に回すことに。刈り出してあったトーラを家に運ぶのを手伝う。

前々からこのトーラが重要な役割を果たす木であることは聞いていたのだが、燃料にもなれば薬にもなるのであったか。農村でのそれぞれの時期の仕事の手伝いから学ぶことは多い。

miércoles, 8 de febrero de 2023

アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その5)知里幸恵と同世代の少年たちが筆録したアイヌ語(吉田巌遺稿資料)

(2023年10月1日に若干の追記を行いました。)

 ここしばらく、2017年くらいから、私が所属している研究グループでは十勝地方のアイヌ語の記録の回復に取り組んできている。一つの成果としては、千葉大学アイヌ語研究会編『沼田武男「採訪帖」―アイヌ語十勝方言テキスト集』 (千葉大学文学部ユーラシア言語文化論講座、2021)が刊行されていて、また最近の取り組みの進展は中川裕「<アイヌ語を語り継ぐ>言葉の流れ 今も脈々と」(『信濃毎日新聞』、2023年1月15日)で紹介されている。

 様々な理由で十勝のアイヌ語やアイヌ語で語られた口承文芸は、なかなかその姿を把握することが容易ではない。 それは、かつてこの地域で重要な録音作業をしていたはずの帯広畜産大の辻秀子さんによる記録資料が、整理をされないままで行方が分からなくなったことも一因である(以前のエントリー「アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その3)」も参照、なおこの件には前進がみられるようだ)。また本別の沢井トメノさんが伝承した記録は、浅井亨、切替英雄、高橋靖以、澤井晴美の各氏によって公刊されてきているが、文字のみであって、音声が公になっておらず、また記録された資料の全貌がどれほどなのかも明らかになっていはいない。おそらく現状で公刊されているのは、沢井トメノさんが語り伝えたことの一部でしかないだろう。(上の辻秀子さんの記録のなかにも、沢井トメノさんの語りは複数収められていたことがみてとれる。)

 ここでとりあげるもう一つ大きい点は、十勝を拠点とした吉田巌が遺した資料のなかのアイヌ語部分がほとんど公になっていないことである。これは「吉田巌遺稿資料」という名称で、帯広市図書館に保管されてあるといわれ(蔵書検索では出てこない)、またその複製が北海道立図書館で閲覧可能になっている(以下の米田(1995)によれば、道立図書館で公開されているのは全体の一部でしかないらしい)。これは中身を見てみると、虻田学園をはじめとして、吉田巌が学校で少年たちから提出させていたらしい、それぞれの少年たちの出身地でのアイヌ語と伝承の記録が、多数収められている。

 この吉田巌遺稿資料のアイヌ語部分がもつ重要性は、札大の本田優子さんのかつての仕事である米田(1995)「アイヌ農耕史研究にみられる伝承資料利用の問題点」(北海道立アイタ民族文化研究セソター研究紀要』第1号)においても指摘されており、そこでは、これらのアイヌ語資料の今後の公刊に期待が寄せられていた。しかしながら、この吉田巌遺稿資料は、帯広市によって「帯広叢書」というシリーズで公刊が続けられてきたが、不思議なことに、上述の少年たちによるアイヌ語の記録資料部分は、現在に至るまでほとんどそこに含められていない。唯一、若き日の江賀寅三による記録が収められているが、これすら江賀寅三の名前で遺稿資料に収められている記録の、ごくごく一部でしかない。そもそも資料の全貌がどれくらいあるのかすら分からない。

 吉田巌のアイヌ伝承に関する記録は、「帯広市社会教育叢書」というシリーズでかつて刊行されていたものの中に複数収められているのだが、不思議なことにそれぞれの伝承の出典や語り手の情報はほとんど示されておらず、またアイヌ語の原文がある場合が複数あると思われるが、日本語でしか書かれていない。したがって刊行された記録と、原記録のあいだの対応がついていないのだ。

 このアイヌ語の記録が興味深く、重要性が高いのは、記録を残したこの少年たちが知里幸恵とほぼ同時代の、ほんの少し年上の世代に属していることである。同時代のアイヌ語の記録としては、金田一京助の影響のもとでアイヌ語の筆記にとりかかった知里幸恵が、孤高の存在として屹立している印象をどうしても受けてしまうが、同時代に吉田巌の学校でもアイヌ語をひらがなやカタカナを用いて記録していた子どもたちがいたのだ。その少年たちは十勝の出身だけではない、上述の江賀寅三をはじめ(彼は長万部の出身である)、白老や沙流川筋の少年たちの名前もそこにはある。学校の、おそらく宿題のような形だったのではないかと推測されるが(「國の宝」と題されたものが多い)、そこで子どもたちが苦心してアイヌ語で、あるいはアイヌ語と日本語の併記の二言語テキストとして、そして時には日本語だけで、地域ごとのアイヌ語を比較し、日記をアイヌ語でつけ、伝承を記録している。日記といえば、江賀寅三少年は、ジョン・バチェラーとアイヌ語で話した!と、その内容をアイヌ語で丁寧に記録して提出したりもしている。その躍動するアイヌ語が、図書館の片隅にしまい込まれたままになっていて、現在の若い世代のアイヌ語を回復しようとする人たちと断絶されたままになっている。

 2022年から2023年にかけては、知里幸恵の没後100年から『アイヌ神謡集』刊行100年という、大きな節目の年を迎えている。と同時に、知里幸恵を一人にしないことも大事なのだと思う。同時代の社会と、そこでの若い人たちのアイヌ語を記録するネットワークのなかに知里幸恵を位置づけなおす。そのためにも、吉田巌資料のアイヌ語記録部分は本当に本当に大事なのだと思う。

アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その4)フィールドワーカーとしての萱野茂氏の姿の解明に向けて

 萱野茂さんは沙流川の二風谷が生んだ偉大な知識人で、アイヌの文化についての収集や記録作業に長年にわたって尽力し、とても貴重な文化遺産(ヘリテージ)を後からの世代に残した。アイヌ語とアイヌ語で語られた口承の物語についても同様で、『萱野茂のアイヌ語辞典』、『ウウェペケレ集大成』、『萱野茂のアイヌ神話集成(10巻)』、(上田トシさんとの会話記録である)『凍ったミカン』、『チセ・ア・カラ――われら家をつくる』などなど、伝承されたアイヌ語も、そして自らのアイヌ語も記録として遺した。それは今の若い世代がアイヌ語を学び、取り戻すにあたって不可欠の記録群である。

 しかしながら、知識人として発言や発表される成果に注目が集まってきた一方で、調査者(リサーチャー)としての萱野茂さん、あるいはフィールドワーカーとして萱野茂さんの姿は、それほど明らかになっているとは言えない。このことが見えてきたのは、平取町と千葉大学で共同で取り組まれた事業で、『アイヌ語の保存・継承に必要なアーカイブ化に関する調査研究事業 2年次(北海道沙流郡平取町)調査研究報告書』に結実した作業であった(詳細については中川裕(2016)「千葉大学におけるアイヌ語資料の整理と公開」を参照)。これは、萱野さんが平取町からの委託で録音した24本のオープンリールテープを聞き起こし、公開する取り組みであり、私(藤田)も参加していた。現在は、二風谷アイヌ文化博物館のホームページで、テキストと音声が公開されているこの音声を聞いていると、和人の研究者が調査者として聞き取り調査をしているのとは、全く性格の異なる調査がそこにある。萱野さんの訪問を受けているおばあさんたちは、自分たちの文化を共有する後続世代の萱野さんに対して心から楽しんで言葉を発しており、口承文芸を共有する温かい場がそこに生まれていたことが分かってくる。

 しかし、これは平取町だけで萱野茂さんが展開していた活動ではない。北海道教育委員会(道教委)が出している6冊の報告書『アイヌ民俗文化財緊急調査報告書(無形民俗文化財1~6)』(1977-1981)を見ると、道教委のこの委託事業によって、萱野茂さんは平取町でも一層広い範囲を歩きまわり、また西は鵡川町、室蘭市、そして門別町、穂別町、新冠町、静内町、様似町、三石町、浦河町、鵡川町、室蘭市、さらには十勝まで足を延ばしている。この記録が一体どこにあるのか、それとも失われてしまっているのかが、私は長いこと分かっていなかったが、その相当な部分が北海道立図書館で電子化されたCDの形で「アイヌ民俗文化財伝承記録CD」として所蔵されており、これが道立図書館の蔵書検索からも確認できることが分かった。(北海道立図書館のこの資料の存在は阪口諒氏のご教示による。)この資料はアーカイブ公開などもされておらず、かつCDの内容と道教委の報告書の内容がどのように対応し、どのように対応しないのかの内容目録の検証もなされていないようだ。

 しかしこれは、まさにフィールドワーカーとして、自らの出身地域を越えて広範囲を歩き回った調査者リサーチャー)としての萱野茂さんの姿を示していると言えよう。この道教委の記録では、平取町内だけでもかなりの話者の下を訪れて記録がなされていることが伺え、記録としても貴重な価値をもっていることは論をまたない。と同時に、足を使って各地の伝承者を尋ね、言葉を交わす萱野茂さん自身の姿もこれらの記録から浮かび上がってくるはずなのだ。上述のCDを聴取するだけで、勝手知ったる旧知のおばあさんたちとの話し方と、初めて話を聞かせてもらう他の地域のおばあさんたちとの話し方とがどのように違っていたか、口承文芸を聞かせてもらう際にどういう文脈でお願いしているか、語り終えた際にその場に同席している人たちとどのようなコメントを短く挟んでいるか、そのような姿と佇まいとやり取りとが生き生きと浮かび上がってくるのだ。

注1――ただし興味深いことに、十勝での萱野茂氏の録音は、道立図書館の検索結果から確認できない。先の「アイヌ語の口承物語研究を進める際の「文献学的課題」(その3)」で指摘したように、『アイヌ民俗文化財緊急調査報告書(無形民俗文化財6)』(1981)の辻秀子氏による十勝での録音記録も、道立図書館の検索結果に全く現れてこない。この部分だけがぽっかりと抜け落ちていることになる。これは何が起きたのだろうか。

注2――これは相当に規模の大きい資料群であり、全体を聞くことは全くできていないが、テープによってはかなり劣化した状態でデジタル化されたものが入っているようだ。 これは、現在の技術でより良いデジタル化が可能かどうかも含め、早期の注目と対処がなされた方がよいのではないかと思われる。

 そしておそらくは、この道教委の録音資料だけではない。『炎の馬』、『カムイユカラと昔話』、『アイヌと神々の物語』 など、萱野さんによって日本語で紹介されたアイヌの物語群、そして特にカムイユカㇻ(神謡)ではないウエペケㇾ(散文説話)の方には、アイヌ語の原文が付されておらず、また神謡も含めて音声が公開されていないものが多い。これらの物語のどこまでが、上の平取町や北海道教育委員会の調査に基づいており、どこまでが、それ以外のタイミングで録音されたものなのかが重要になるだろう。そのような点の検証も進んではいない(なお、阪口諒(2018)「萱野茂氏によるアイヌ民話記録一覧」(『千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書』第325巻)はその点に向けた重要な一歩である)。すなわち、萱野茂さんの膨大な仕事は、いまだにその全貌が明らかになっていないのだ。

 仕事の全貌が明らかになっていない結果として、萱野さんの年長世代のアイヌの人たちとのネットワークや、そこでのやり取りの内容や、そこでの萱野さんの佇まいなども見えないままになっている。これはもったいないことでもある。結果から過程へ、アイヌ文化を広める役割への着目からアイヌ社会のなかでのリサーチャーとしての姿へ。世界的に「調査方法(リサーチ・メソッドとメソドロジー)への関心が高まり、以前の時代に行われた調査方法(例えばラテンアメリカの参加型アクションリサーチ)の掘り起こしが進む状況で、この点の重要性は高まりつつある。萱野さんのこのようなリサーチャーとしての等身大の姿は、やはり明らかになっていった方が誰にとっても良いのではないかな、と私は思っている。そして、それは逆接的ではあるが、丁寧な資料の掘り起こしと検証と公開を通じてしか実現できないことなのだ。