sábado, 31 de diciembre de 2011

¿Cristianismo Andino? 2011

1. Bolivia

Nacimiento con la Puerta del Sol de Tiwanaku.
(Santuario Padre Adolfo Colfing, El Alto, Plaza Obelisco)

よく見ると…、り、りかちゃん人形だろうか?

2. Perú

Nacimiento de la Iglesia de Santo Domingo - Qurikancha por la Av. Sol.


Una alpaca acompaña al nacimiento...

El nacimiento de la Plaza de Armas, Cuzco. La feria de artesanía del 24 de diciembre en la misma plaza se llama "Santu-rantikuy", la compra santa...

miércoles, 28 de diciembre de 2011

まだ何か話すことないかな…?

私のケチュア語は遅々とした進みを改める気配がないが、私の先生はとてもすごい先生だ。言語的な感覚が相手と合うというのは、僕にとっては師弟関係における大事な要素の一つだ。

この僕のケチュア語の先生は、二年前に自宅から少しのところで車に轢かれて複雑骨折して、三か月間生死の間をさまよった。そしてそれと共にミシガン大学で教えていた彼女の仕事もパーになってしまった(正確には中断してしまった)。去年のブログにその頃のことを少し書いてあるが、それとともに糖尿病が悪化していて、しかもちょっと前に家族が出かけた間に代理の人に注射するインシュリンの量を間違えられて、一度意識不明になっている。

それでも去年に比べたらだいぶしっかりして、勢いも出て来たのだけれど、でも昔と変わったことがある。一回の話が長くなった。そして長くなったのは、ふつうに考える<老い>ではなくて、今僕にもう一回しゃべっておかないとと多分思っているのだ。

そういうことを経る中で、私の考えも少しずつ変わってきた。しばらく前までは、まだもう一度先生に会えるだろう、もう一度何かをやり直すチャンスが回ってくるだろうと、どこかで頼っていた、というか、そこを甘えなければ自分が持たないくらいでもあったのだけれど、たとえ次があったとしても今しかないのかもしれないと、少しずつちゃんと思えるようになってきた。それは人の老いとともに自分が何かと向き合うことを余儀なくされてきたのかもしれない。それを成熟と言うのか何と言うのかは、まだ放っておこう。

今日も帰り際、まだ話すことはなかったかなと先生は一生懸命考えている。それを見ていて思い出したのは、そうか、入試が終わって報告に来るかつての塾の生徒たちの姿だった。何かが終わって次に進んで、ひょっとすると何かが終わっていってしまう中で、もやもやして気持ちの整理なんてついていなくて、今の瞬間があともう少しだけあってほしいという。そういうことを思い出したりしながら、私は静かに座っていた。何かをちゃんと覚えようとしていた。

でも今一緒に仕事をしているから、まだまだ先がある。次に会うときは、ケチュア語が分からない他の家族が探し出せない昔のノートを掘り出す手伝いをするぞ。この人と一緒に、一つ仕事を作るんだ。

viernes, 23 de diciembre de 2011

夜の街は自分たちのもの

クスコの街の中心部の、教会が密集するところを、観光客目当ての値段の高い店が並ぶところを、ケチュア語だけをしゃべる子供たちが集団になって、五人六人とかで手をつないで、走っていく。たぶん、クリスマス関係の屋台で稼ごうと街に出て来ている家族の子供たちなのだ。

リマ(海岸部)とアンデス山岳部の間にある目も眩むような社会的距離はよく話題になるが、クスコと周辺農村部との間にも地理的には近くても同様に目も眩むような社会的距離があると思う。(これはラパスよりもずっと鋭く存在していると私は思う。)

いつか、この夜の街を走り回っている人たちが、もっと大きなうねりになって、こんな嫌味な街はひっくり返してしまえばいいのに。スペイン人が作ったコロニアル建築だけでなく、インカの堅固な石の礎だって、大きな大きな血の川(yawar mayu)が奔流となったとすれば…。

domingo, 18 de diciembre de 2011

Otro reencuentro con el Lloyd Aéreo Boliviano

"Vuelo 210 de Aerosur operado por Lloyd Aéreo Boliviano..." (domingo 18 de diciembre de 2011)
Un encuentro más con el LAB en momentos inesperados. La última vez fue en el comienzo de 2010, cuando tomé un vuelo a Cochabamba de La Paz del TAM (Transporte Aéreo Militar) y vino este avión del LAB, prestado. ¿Como fantasma que nunca muere? este avión de una empresa que se quebró por el año 2006, sigue apareciendo en varios momentos de mi vida.
La tripulación incluso es/fue del LAB, realmente profesionales (mucho más que los de Aerosur en realidad), que creo que me hace entrever algo del profesionalismo de los tiempos pasados.
Pero hasta cuándo estamos teniendo que tomar este avión Boeing 727, antiguo, abuelito ya. Lo que me estoy imaginando es lo siguiente. Aerosur, que hace como una semana tuvo uno de sus aviones quebrando su llanta al despegar de El Alto pidió al LAB que les preste servicio. Y también se vé un avión con uno de sus motores aparentemente quemado en el aeropuerto de la misma ciudad, dejado ahí desde hace más de un mes (que hasta el momento, nunca he leído en las noticias). ¿Será que les están faltando aviones?

¿O será por la fuerza extraordinaria del papá Juan Pablo II, al que este avión del LAB transportó cuando vino a Bolivia?

Un avión más del mismo modelo de Aerosur... (en Viru Viru 18 de diciembre de 2011)

de TAM (denominado Túpac Katari) (El Alto 20 de diciembre de 2011)

 (Nota aclaratoria 20 de diciembre de 2011: Mirando de cerca, el avión de Aerosur parado en El Alto solo tenía cubierto su motor probablemente para que no entren objetos de afuera... pero ¿por qué sigue ahí?)

miércoles, 14 de diciembre de 2011

違和感のスケッチ(文学の読み方)

今週は本のプレゼンやCDのプレゼンなどのイベントが重なっている。つまり今週が年末の駆け込みの一週間なわけだ。

今日はJuana Manuela Gorritiという19世紀の作家の、普段アルゼンチンの作家だと認識されているのだけれど、ボリビアでの生活と、ペルー、ボリビア、アルゼンチンをまたいだ生涯と著作を視野に入れようという趣旨のコロキアム。重要な発言があったり、最近ちょっと気になっていた名前の人が実際に優秀な人だと確認できたり収穫はあった、しかし…、

作家の生涯を見たくなったりするのはとても分かるし、移住が思考のeclecticismを生むという重要な指摘もあった、しかし…、言いたいのはそこじゃなくて…、

どうしても読むときに形式的な面というか、一つの作品の設計のからくり(「フォーマル」という言葉を説明しようとしているのです)を明らかにしようという方向に行くのは、それはもちろん面白いし役に立つのだけれど、「そこで終わり~?」という感じがしてしまう。一つの設計のからくりや原理、しかも見え見えのやつを抽出してその意義を位置付けて終わるのが「読み」だと言っていいんだろうか?

今日はMauricio Souza Crespoという新進の文学研究者のコメントについてそれを思ったのだけど、以前Juan Villoroというメキシコの作家が東大の駒場に来て、Juan Carlos Onettiという作家について発表をしたときにも思ったのだった(注)。

抽出するんだったら、もっと意外なやつにしようよ。そしてもっと行ったり来たりして思わぬ方向にもぐってつなげていくような、そういう自由な読み方をしようよ。認識上の役に立っても面白くても、制度化された「文学」になったり、見え見えの問題の立て方から入ったら、結局そこで止まっちゃうじゃん…。

てことを思いながら、でもボリビア文学の系譜とかをちゃんと押さえよう、つまり今やっているアイマラ語のことの世界の反対側をちゃんと視野に入れようとか思いながら、真面目に聞いていたのでした。


(注)ただし自分で創作をもする場合に、これがある意味両者を直結する思考になりうるのだろうとは推察できる。その上で、ということになります。

domingo, 11 de diciembre de 2011

プラムの促成

果物の栽培は、ただ育てて花が咲いて実が成って収穫して売るだけではないんだと気付く機会が、これまでに何回かあった。

例えばプラム(ciruelo)。今年は先週くらいから収穫が始まっているのだけれど、これからの時期は日中太陽の光で暖められる部屋に、こういう布と新聞紙に包んだプラムが置かれている。
これは早く地面に落ちてしまったり、実が付きすぎて枝が折れてしまった部分のプラムを集めて、甘くなるように人間が手を加えているのだ。大体こうしてから一週間くらいで甘くなる。これはアイマラ語でphuqacha(ña)と呼ばれていて、スペイン語のcompletarに大体対応する、つまり<人間が手を加えて完成させる>とか<足りない部分を補う>という意味合いのある単語なのだ。

これは熟す前に収穫して運送途中で熟させる現代の栽培方法の原型のようなところがあるようにも思えるところだが、この場合は、本来だったらダメになってしまったかもしれない実も、人間が手を加えることで完成させて、場合によっては他よりも少し早めに売り始めるという、無駄を減らして得をするための人間の知恵という側面があるのではないかと思う。


実がたわわに成ると、全ての枝がこうして垂れ下がってきて、たまに重みに耐えきれずに折れてしまうことがあるのだ。

これがその折れてしまった枝。

そして鳥に部分的に啄ばまれてしまった実は、また別に集めて、これは豚の餌へと回される。こうして、ある意味全てが無駄がなく複数の形態に分かれて利用されていく。これが、より商業化・大規模化された栽培形態と異なる、小さな規模の果樹栽培ならではの「計らい」なのかもしれない。
(この「計」は「生計」の「計」。)

ちなみに、アイマラ語でよく聞き間違えてしまう音というのがあるように思う。一つは語頭のjとqの音が意外と紛らわしい。枝が折れて落ちてしまったことを、確かおばあちゃんはjaquntata(かjaquqata)と言っていたのだけど、これを私はqaquntataかと聞き間違えて、「枝をさするのかな」と色々考えていた(qaquñaは「さする」)。ちなみにもう一つは語中のyとllで、以前教えてもらったジャガイモが地中で腐ってしまうjullurañaを、私はjuyurañaだとしばらく思い違えていて、「辞書に載ってない」と思っていた(実際にはjulluñaなどが載っている)。

*実は元々自分の調査はこういうこととは別のことを少しずつ追いかけていたので、余談のつもりでこういう話を書き留めていたのですが、これ自体をもう少し真面目に記述してみようかなと思い始めました。書きながら考えていくというか、書きながら自分を作っていくというのは、やはり意外と役に立つものですね。

viernes, 9 de diciembre de 2011

村から、アイマラ語から、考える

私はここボリビアのアンデス・オーラルヒストリー・ワークショップというアイマラの人たちを中心とする組織ともう8年以上の付き合いになるのだけど、今日の午後そこで昔のカセットを年上の友人から預かったものをデジタル化していたら、長いこと会っていなかった友人が姿を現した。以前のエントリーのTIPNISの行進の話の最後にちょこっと顔を出す人で、5年越しの卒論をなんとか完成させようと、村から出て来ているのだった。アメリカに出張中の私の師匠の家に泊まらせてもらっているらしい。

夜にあった多元的経済とか社会的連帯経済を考えるセミナーでも顔を合わせたので、近所まで一緒に帰って来た。そのアルゼンチンから来た人のセミナー自体は大したことがなかったのだけど、「よき生活(suma qamaña)」のあり方とかを考えるとしたら、死者との関係とか星のこととか、村で伝わることわざ(アイマラ語で「イウハ(iwxa)」と言います)から自分は考えるなあと、帰り道に横でボソッと言っている。それを聞きながら私は一瞬頭がグラグラして、でも本当にその通りなんだよなと同時に思う。でもこれを実感を込めて言えるというのは、やっぱりすごい。本来先住民の考え方から導入されたはずの「よき生活」を巡る議論には、こういう発想からの思考が決定的に欠けているのだ。

そして私がカセットの音声をデジタル化しているのを横で見ていた彼は、そのインタビュアーの年上の友人(ラパス生まれ)について、多分話し方を甘くしよう(endulzar)と努力していたはずで、お年寄りへの敬意をどうやって込めようとするかだよねと、またひどく適確なことを言う。本当にその通りで、都市で生まれたアイマラの人は、どうしても「乾いた」言葉の紡ぎ方になってしまうのだ。これは私のアイマラ語の先生が、特に都市のラジオのアイマラ語について、しつこくしつこく批判をし続けてきたことでもあった。

アイマラ語の方が得意な彼は、アカデミックな言葉を操るということもだけど、段落の形で文章を書くということに苦労しているのを、以前私は見てきている。自分の思考が都市の(アイマラの)人に分かってもらえないと思っている、その感じが何となく私はすごくよく分かる気がする。それは彼だけではなくアイマラ語の方がスペイン語よりも得意な人はよくそう思っていて、不思議なことに私はそういう人たちと仲良くなる。それでも彼は「向こう」から、村に住みながら考えるんだと言っていて、数年前から村の役職(の最初の方でつくやつ)につきはじめているのだった。口数が少なくて、ゆっくり考えてボソッととても重い言葉を発する彼のあり方に、私は実はとても影響を受けていて、今度こそ卒論が終わるといいなと、ラパスの夜の灯りの下を歩きながら横でそっと思っていた。

*最初はツイートしていたのですが、長くなり過ぎてしまって、こちらで書き直しました。

jueves, 8 de diciembre de 2011

Las redes comerciales que se extienden y atraviesan

De la señora que limpia el departamento donde yo vivo, sus familiares ocupan el kiosko a la vuelta de la esquina que vende dulces y refrescos, y también la tienda de ropas indias al frente de ese kiosko.

El señor que vende periódicos en las mañanas en la esquina justo debajo de nuestro departamento, su familia ocupa el kiosko unas tres cuadras más allá.

La familia que vende periódicos en la esquina de Aspiazu con 6 de agosto muchas veces les veo vendiendo unas dos cuadras más arriba del Aspiazu. El señor consigue cualquier título de las obras de Fausto Reynaga (uno de los ideólogos más importantes del indianismo actual en Bolivia).

Así los negocios y sus puestos, y la estrategia familiar de la ocupación de estos, no es un solo punto sino que se extienden por las calles, las atraviesan, así formando una red compleja en cada rincón de la zona de Sopocachi, ciudad de La Paz.

martes, 6 de diciembre de 2011

学会プロポーザルがリジェクトされて

来年行われる、あるラテンアメリカ関係の国際学会にプロポーザルを送っていたのが、リジェクトされたという連絡がきた。初めての経験に少しショックを受けて、色々と考えてみた。(そもそも今までローカルな学会でしか発表をしてないからいけないんです、そうなんです、わかってますよ。)

一つは、有名な学会だからというだけで、実はパネルのサブテーマが自分が報告したいテーマとかぶっているのかかぶっていないのかが微妙なところにプロポーザルを送ってしまったのは、やはりそんなに楽観視をしてはいけないということなのだろう。もう少し、戦略的にパネルの構成や特定化された学会を選びながら、プロポーザルを送るべきなのだ。
(実際、もう少し分野の特定された国際学会に送っていたプロポーザルの方は、アクセプトされたという連絡が数日前に来ている。)

あともう一つ、今年の重要な教訓は、本当に自分とドンピシャのマイナー系国際学会の場合、プロポーザルの締め切りが過ぎた後にその存在に気付いたとしても、強引にプロポーザルを送ってみるべきなのだ。今年の10月末に聞きにだけ行ったある学会では、「そのテーマをやっていて、なぜ後からでもごり押ししなかった!」とオーガナイザーを含めて複数の人に突っ込まれた。フォーマルな締め切りが厳密な締め切りではないのは、中南米域内だけじゃないのね。

最後は、自分のテーマの構成の仕方について。今現在の私のテーマは、ボリビア国内受けはするのだけど、国際受けしないかもしれないという気が確かにする(「学振受けする」というのと似た感じで)。それはそれで今はいいのだと思っているのだけど、そこにとどまって自足するというのはまずいかもしれない。そのためには、自分のテーマの一点突破だけではなくて、分野全体への目配りと検討を通じた自分の課題の設計が必要になるのと、今やっている個別の話がちゃんともっと深まって境界が突破できるようになるかという、両方なのだろうなあ。

でも、結局は今自分がやっていることが一番大事なので、とりあえずこれくらいで考えるのは止めて、さっさと目の前の論文を書こう。

(2016年3月5日追記:この記事は比較的読まれているようなのですが、実はこの話には後日談があって、比較的早い段階で「実は人が足りないのでやっぱ出てくんない?」 という連絡がパネル主催者から来たので、リジェクトされたからといって不貞腐れてすぐに別の予定を入れないことが大事かもしれません。)