miércoles, 14 de diciembre de 2011

違和感のスケッチ(文学の読み方)

今週は本のプレゼンやCDのプレゼンなどのイベントが重なっている。つまり今週が年末の駆け込みの一週間なわけだ。

今日はJuana Manuela Gorritiという19世紀の作家の、普段アルゼンチンの作家だと認識されているのだけれど、ボリビアでの生活と、ペルー、ボリビア、アルゼンチンをまたいだ生涯と著作を視野に入れようという趣旨のコロキアム。重要な発言があったり、最近ちょっと気になっていた名前の人が実際に優秀な人だと確認できたり収穫はあった、しかし…、

作家の生涯を見たくなったりするのはとても分かるし、移住が思考のeclecticismを生むという重要な指摘もあった、しかし…、言いたいのはそこじゃなくて…、

どうしても読むときに形式的な面というか、一つの作品の設計のからくり(「フォーマル」という言葉を説明しようとしているのです)を明らかにしようという方向に行くのは、それはもちろん面白いし役に立つのだけれど、「そこで終わり~?」という感じがしてしまう。一つの設計のからくりや原理、しかも見え見えのやつを抽出してその意義を位置付けて終わるのが「読み」だと言っていいんだろうか?

今日はMauricio Souza Crespoという新進の文学研究者のコメントについてそれを思ったのだけど、以前Juan Villoroというメキシコの作家が東大の駒場に来て、Juan Carlos Onettiという作家について発表をしたときにも思ったのだった(注)。

抽出するんだったら、もっと意外なやつにしようよ。そしてもっと行ったり来たりして思わぬ方向にもぐってつなげていくような、そういう自由な読み方をしようよ。認識上の役に立っても面白くても、制度化された「文学」になったり、見え見えの問題の立て方から入ったら、結局そこで止まっちゃうじゃん…。

てことを思いながら、でもボリビア文学の系譜とかをちゃんと押さえよう、つまり今やっているアイマラ語のことの世界の反対側をちゃんと視野に入れようとか思いながら、真面目に聞いていたのでした。


(注)ただし自分で創作をもする場合に、これがある意味両者を直結する思考になりうるのだろうとは推察できる。その上で、ということになります。

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