domingo, 24 de marzo de 2013

日常生活の中で先住民言語が生き残っていくメカニズム

元々アイマラ語やケチュア語などの先住民言語を話していた人々が、移住などを通じて都市のスペイン語世界に巻き込まれていくと、親から子への先住民言語の伝承が行われなくなり、スペイン語のモノリンガル(単一言語話者)化が進んで、先住民言語の話者数が減少していく……というのがよく言われる話だ。そして広い意味でこれは間違ってはいないかもしれないのだが、私は少なくともそんなに一直線にこの過程は進まないだろうと思っている。

20世紀を通じて、アイマラ語もケチュア語もいずれ話者は絶滅すると考えられ続けてきたのだが、21世紀に入った現在もそんなことは全くなかった。そしてボリビアの高原部では話者数が1000人ちょっとしかいないウル・チパヤ語ですら、勢いを盛り返しつつある状況にある。多くの言語が危機的状況にある中でも、先住民言語における<もうだめなのだ>という言説には、少なくとも注意してかからなければいけない。

そんなに簡単に消え去らないのは、日常生活の中で色々なメカニズムを通じて先住民言語が使われ続けているからだと思う。その中で重要なものの一つに「内緒話」があると思う。階層間の分断がある際に自分たちの側だけで使える言葉があったり、仲間うち(たとえば市場の女性たちの間)で気楽に話をするときに使える言葉があるとかなのだが、最近親同士で話をするときにもそういうことがあるかもしれないと思うことがあった。

それは、周りに自分たちの話の内容を知られたくないとか、子どもに自分たちの話を聞かれたくないとか、そういうときに使われるものだ。私が仲良くしている家族の中で、子どもの頃にはケチュア語の世界の中で育っていて、随分と後に若い親になった女の子が、とても久しぶりにケチュア語で色々と夫に向って話しているのを聞きながら、こうして役に立ったり使われたりしていくこともあるのだなあと、私は感心しながらその様子を眺めていた。(夫はケチュア語を決して話さないが聞けば分かるし、子育ての手伝いに行っている彼女のおばさんはケチュア語を完璧に解する。)

ラパスで仲の良い家族のおばあちゃんは、孫たちに向ってはスペイン語で話すのだが、そのスペイン語の中にはアイマラ語の単語をスペイン語化して話しているものが数多く混ざっていて、したがって一緒に暮らしている孫たちは、少なくとも語彙の面ではかなりアイマラ語が分かる。

たとえ全体の流れとしては「負け」であっても、先住民言語は様々な形ですり抜けて、もれ出して、しぶとく使われ続けていく。

*これは3月23日にツイッターで簡単に書いた内容を少し丁寧に書き直したものです。

木になるトマトのジャム(再び)

昨年木に成るトマト(tomate de árbol, sach'a tomate)でマーマレードを作るエントリーを書いた。



昨年の教訓のようなかたちで、やっぱりアクが強いよねという話になった。

木に成る果物にも年季というものがあるのだろうか。成り始めて最初の年の方が今よりもずっと苦かったらしい。それでも何も加工をしていないこの果物は、おそろしく苦いというかザラザラしている。

なので、まず湯むきをして(このトマトは湯むきをすると中身は黄色とオレンジの間の色をしている)、中の種を取り出すが、今回はその後に四回ほど茹でてそのお湯を捨てるという灰汁抜きをすることいなった。

しかも昨年はヘタ付きで煮たのだが、そのヘタも苦さの要因ではないかということで取り除くことに。

その後に砂糖とシナモンを入れて煮込むのは同じ。圧力鍋で二回くらいピーというまで持って行って、あともう一度ふたを外して弱火にかけ、汁がとろっとするまでもっていく。

それにしても、このトマト、エクアドルではジュースやアヒー(アンデスのトウガラシと合せた万能調味料)にしたりもするのだが、灰汁対策ってどうやっているのだろうか。今度誰かに聞いてみなければいけない。




途中段階を確認中そして味見中。

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sábado, 23 de marzo de 2013

アンデスのしめ鯖

セビーチェはペルーでもどちらかというと海岸部の料理なのだが、アンデス山岳部でもよく作られて、よく食べられる。ペヘレイで作ったりもするのだが、ペルーは今ペヘレイが禁漁(veda)の期間中で、我々の家族はよく海岸部から冷凍で運ばれてくるサバ(jurel)を使ってセビーチェを作る。

セビーチェは簡単に言うとレモン〆めで、同時に余った骨の部分と頭の部分でチルカーノ(chilcano)と呼ばれるスープを作って食べるのだが、サバでこれをやると、ははあセビーチェはしめ鯖で、チルカーノは船場汁かなあと思いながら私は今日眺めていた。

(実際に、魚の皮を剝いで切り分けた後に、しばらく塩をしておいてからそれを洗い流し、そして絞っておいたレモン汁につける。しめ鯖の作り方とおなじではないか。チルカーノは、ポワロー葱とセロリと生姜を入れて煮立たせて、最後にセビーチェの漬け汁を少し混ぜます。白濁しているのは漬け汁に牛乳が入っているから。)

ところで、ここのサバ(jurel)は日本のとだいぶ違って、なんとゼイゴ(尻尾の近くにあるギザギザしたもの)があってそれを取らないといけない。なんか特大アジみたいだな。





上の写真のように、チャーハン(arroz chaufa)を作って、それを横にとって、セビーチェの汁に浸しながら食べるのが、うちの家族の流儀です。真ん中上方に見えるのはサツマイモ(camote)。

天気の良い週末


jueves, 14 de marzo de 2013

街のうす暗がりの中で

オレンジに所々白が交じった街灯が薄暗く照らしだすラパスの夜を、家路につく客で満員になったミニバスはひたすら走っていく。坂と川の多いこの街を、斜面をおりておりて川を渡って、またのぼってのぼって、またおりておりて川を渡って、またのぼってのぼって。

今日はコパ・リベルタドーレスでラパスの地元のチームがブラジルと当たるというので、街の中心のスタジアムだけ煌々と照明がついているのが、斜面の上の方から眺めると、そこだけ目立って明るくて、すぐわかる。

人間の命も簡単に失われ、動物の命なんてもっと簡単に失われてしまうこの社会で、誰も死なずに二年間を生き延びたことを讃えよう。資金繰りがどんどん大変になっていって、人生の苦しさはいつも上り坂で次第に急になっていくなかで、何とかこれからも生き延びることができるだろうか。

遠く離れた地球上の二点をつないで、少しずつ積み上げてきたつながりに、絶望的に生きるのが大変なこのボリビア社会の中で、少し救われる思いがすることがある。まったく当たり前でないことが、当たり前のような気がするその一瞬を、まだもう少し私は生きていこう。

martes, 12 de marzo de 2013

研究者のためのラパス本屋案内

ある研究仲間からのリクエストがあったので書いてみます。

ボリビアの出版事情の厄介なところは、大学の紀要やワーキングペーパーを手に入れるのが意外と厄介だったり、その日にその場所にいないと手に入らなかったり、道端の売店で売られる重要な出版物があったりもすることですが、それはちょっとマニアックすぎるので、まずは標準的な辺りで。

1.Plural社直営の本屋
 Sopocachi地区のRosendo GutiérrezとEcuadorの角にある。文学、歴史、社会科学などの分野で、いまボリビアで最も精力的に重要な著作の出版を続けている出版社。それ以外の出版社の本や大学の紀要も部分的においてある。かつて存在していたhisbol(しばらく前に潰れた)という重要な出版社の本の在庫を全部引き取ったことでも知られている。

2.Yachaywasi
 Plaza del Estudianteからラパスの目抜き通り(Av. Arce)をほんのちょっと下りたところに左に折れる行き止まりの小道があり、その奥にある。曲がるところにお店の看板が出ている。ラテンアメリカ域内で出版された書籍にボリビア国内では最も強く、ボリビアに住んでいると重宝する。しかし、ボリビア国内の出版物の品揃えに波があるのが弱点。でも寄ってみるべき重要な本屋。

3.Librería Akademia
 Yachaywasiのすぐ近く、UMSAのビル(モノブロックと呼ばれるやつ)の正面やや右側にAkademiaという本屋さんが最近できていて、ボリビア国内の出版物を比較的よく揃えている。半地下に入っていく小さな店構えなので、油断すると見逃す。

4.Escaparate Cultural
 Plaza del Estudianteから6 de agosto通りを下りていき、最初のAspiazu通りの交差点を過ぎて半ブロック程下がったところにある。ボリビア国内の出版物の品ぞろえがよく、「この本まだあったんだ!」という本が見付かることがあるが、時期による波がある。

5.Los amigos del libro
 Plaza Murillo(ラパスの中央広場)の上の辺(へん)からミラフローレス地域に向かう方角に半ブロック戻ったところにある(通りの名前がすぐに出て来ないので変な言い方ですみません…)。昔はラパス市役所の傍にあったのだが移転した(このことを知らない人がまだ結構いるので注意)。かつて重要な出版社だったのだが、創業者が亡くなった後は在庫を捌くだけになってしまったらしい。でもボリビアで出版された古めの本が置いてある。この本屋の対面にGisbertという本屋もあり、本がどれだけ置いてあるかが時期によって変わるのだが、併せて覗くといい。

6.Fundación Xavier Albó
 先住民関係の社会科学と歴史の本を出版している。かつてはCIPCAというボリビア最大の農村開発NGOの出版局だったのだが、自立した。C. ChacoのOstriaとの角にあるが、タクシーで行く場合は運転手にCancha San Luisと告げると理解してもらえる(建物の向かって反対側にある)。角にある白と青色の建物を入って二階へ。建物正面の鉄格子の扉は中に手を突っ込むと開く。Ichiban Hotelの場所が分る場合は、そこからLandaeta通りを上って最初に左に曲がる角(すぐ)を曲がって急斜面を上ったところにある交差点の角。ここの図書館はボリビアで調査をする研究者が必ずと言っていいほどお世話になるところ。
 ちなみにCancha San Luisからのイリマニ山の眺めは素晴らしい。

ちょっとマニアックなことを書きくわえておくと、サンフランシスコ寺院からラパスの目抜き通り(場所によって名前が変るがこの辺りはAv. Montesと呼ばれる)を上っていくと、右側に古本を扱う屋台が並んでいる(これもかつては現在のMercado Lanzaにあったものが市場の建物の新設に伴って移転した)。そして、逆に下に行くと、この目抜き通り(こちら側はAv. 16 de julioと呼ばれる)とAv. Camachoの間にPasaje Nuñez del Pradoというチョケヤプ川を埋め立てた上に古本の屋台が並んでいる一角があって、そこの一番上側で開いている店が社会・歴史・文学関係に強く、私は個人的にずっと贔屓にしている。通い続けていると、こっちの好みが分ってきて、「こんなのがあるよ」と置くから出してきてくれたり、探してきてくれたりする。

また、8月のどこかで二週間にわたって国際書籍市(Feria Internacional del Libro)が開催されて、そこには主要出版社に加えて大学や様々な社会団体も参加するので、ものすごい人出で消耗したりもするのですが、手っ取り早い。時期と場所は近くなったところで「Feria Internacional del Libro」と開催年でググると出てくるはずです。また、社会思想や人類学関係は8月末に国立民族学・民俗学博物館(Museo Nacional de Etnografía y Folklore, MUSEF)で開催される民族学年次大会(Reunión Anual de Etnología)に出る出店をチェックするのが役に立ちます。

domingo, 10 de marzo de 2013

アンデスのご当地パン

アンデスの各地には、その町ごとの名物といえるパンがあったりする。ペルーのクスコ市付近だと、インカの聖なる谷(valle sagrado de los Incas)ではピサック(Pisac)という町のパンが有名で、クスコから南に行く街道に出るときには、オロペサ(Oropesa)という町の巨大なパンが有名だ。

たぶんこれは、その町の標高の違いや、オーブン(オルノ、horno)の作られ方や、粉の種類や配合が組み合わさっているのではないかと思うのだけど、これは想像して楽しんでいる段階で、確かめたわけではない。これは「どこどこのパン(Pan de XXX)」と呼ばれ、その名前を口にするとみんなが「あぁ~」と言う。

ボリビアはラパス市自体にもマラケタ(marraqueta)と呼ばれる、<小型バゲットしかし中ふかふか>のパンがあって、私はボリビアを離れているとこれが恋しくなる。ラパスからティワナクの町と遺跡に向かう街道で高原(アルティプラノ)に出ると、ラハ(Laja)という町があって、そこのパン(Pan de Laja)もどこかピタパンに似たような独特の味わいがする。

そして私はこの週末に新しいご当地パンを発見した。これはラパス市から渓谷部に下る街道沿いにあるパルカという小さな町(ムリーリョ郡第一地区の中心-Capital de la Primera sección, Provincia Murillo)のパン(下の写真)で、形はマラケタに似ているのだが、三倍以上大きく、なんとも形容しづらいのだが全体がもう少しサクッとしている。


私はミニバスが止ったときに殺到を始める人の群れに乗り遅れたのだが(売り切れてしまった)、買っていた人から後でお裾分けをもらった。

いろいろと探求し甲斐のあるアンデスの食文化が、また一つここにある。

追記:ラパス市のロドリゲスの市場でふと見つけてしまった。な、なんと……マラケタ・ミックス(mezcla para marraqueta)??こんなものが使われているのか。

アンデスの谷のイメージ


谷の筋が一つ違うだけで、アンデスの山はまったく違う姿を我々の目の前に現わしたりする。なだらかな斜面と急な斜面、どれだけの高度差を上り下りするか、切り通しの場所や谷の筋の配置され方、途中の作物や集落の生業のあり方など。


ラパス市の守り神であるイリマニ山(写真)とムルラタ山を正面にのぞみ、それらに抱かれながら谷をひたすら下り続ける。


するとイリマニの麓で、氷河から流れ出る水に恵まれて、湿気を身の回りに濃く感じる小さな集落へと出る。トウモロコシや果物がふんだんにある楽園のようなところ。

むかし飛行機の上から、こんなところにも村があって、自分が行くことはあるだろうかと思ったりしていたところで、今はアイマラ語の口承文学の調査をするまでになった。ラパス市から3時間以上かかり道も悪いこの場所は、とても遠い印象があったのだが、気候と水の条件の良さから17世紀の植民地時代には既にスペイン人のアシエンダ(大農園)が存在した記録があると、先日別の研究者の方に教えてもらった。スペインとアンデス先住民の歴史は、ここでも複雑に地層をなしながら、現在があるのだった。

悪魔の群れが踊りながら

ラパス市内のロドリゲス市場の一角で、いつ来るとも知れない村に向かうバスを待って、大雨の中を二時間くらいじっとぼんやり座っていると、モレナダという踊りを踊る大軍団が姿を現した。とうとう私にも悪魔が見えるようになったのかと内心びっくりしていると、やっぱりこれは人間たちで、創立50周年を迎える団体が、お祝いでしこたま酔っ払って大雨の中を練り歩いてくるのだった。

私はおばあちゃんから、夜に山の中でモレナダを踊るお祭りに出くわしたのだが実はそれは悪魔の群れであったというお話を教わっているので、ははあと思いながら周りの露店のおばちゃんたちに紛れて、ずっと見入っていた。お話の世界と現実の世界が重ね合さるように物が見えるというのは、こういうことなのかもしれない。

domingo, 3 de marzo de 2013

ボリビア版クイの料理

(日本でモルモットと呼ばれるかわいいかわいい動物が解体されて料理されるのを見たくないかたは、このポストを回避してください。)

アンデスにはクイと呼ばれる動物がいて、特別な日のご馳走のために飼われていることが多い。うちのおばあちゃんは、これをワンク(wank'u、「ク」は破裂音)と呼んでいるが、他のアイマラの人たちは別の呼び方をするかもしれない。

今回の滞在ではお家にお邪魔する最後の機会となった私のために、朝一番でクイをつぶして料理をしてくれた。

クスコでお世話になっている家族は、クイに香草を詰めてオーブン焼きにするのだが、このおばあちゃんはちょっと違った料理のしかたをする。

まずクイは茹でてから小麦粉をまぶしてフライパンで焼く。これはフライパンで焼く時間は短いので、その前に肉を十分に柔らかくしておくということなのだと思う。


同時に、これにあわせるソースを作る。これはアグァード(aguado)と呼ばれるのだが、私にはいつもアオガード(ahogado、窒息した)に聞こえる。イタリア料理のaffogatoに影響されているのかな。タマネギとトマトを刻む。タマネギは玉のところだけではなく茎のところも。グリーンピースを入れて、まずはこれに火を通す。

火が通ったらお湯を足し、それが沸騰したら黄色トウガラシのペーストを加える。それを煮詰めていくとアグァードの完成。この料理のしかたはペルーでほとんど見ない気がするので、ボリビア・アンデスならではの味かもしれない。

これらを併せて、何と呼ぶのか分からないけれど、この家族のクイ料理の出来上がり。この精一杯のおもてなし料理に皆で舌鼓をうつ、幸せな日曜日であった。どうか、どうか、まだこのような機会にまた巡り会えますように。

うちの家族では動物を屠るのはおばあちゃんの役目。クイも、ニワトリも、羊も、豚も。ちょっと死神みたいねと私は密かに思っている。

まだら模様のトウモロコシ

不思議なことに、チョクロと呼ばれる白トウモロコシには、一定の割合で赤系統の色の粒が混じったまだら模様のが獲れることがある。そして、それらは乾かされて次の年にも使われているようだ。おばあちゃんに聞いてみると、白いのとおんなじだよ、と言いながらも、白い方が美味しいけどねとか言ったりもする。

アンデスにはウィルカパル(Willkaparu)と呼ばれる栄養価の高い赤トウモロコシもあるのだけれど、それとはまた違うんだろうな。実は私はよくウィルカパルの粉末(ピト、pito)をお湯に溶かして飲んでいるのに、実物を見たことがない。

このあたり、もうちょっと深く分かっておきたいなと思いながら、とりあえず写真を撮っておいた。