martes, 27 de junio de 2017

矛盾や亀裂から目を逸らさない地域研究へ


ラテンアメリカ地域についての外部からの研究者は、その地域を「理解」しようとするために、それを一つの十分に正常な型のバリエーションとして位置づけようとする、ストレートな枠組みを採用しがちだ。これは右派と左派を問わずにそう。

でも、本来ラテンアメリカの社会科学は、特に左派の社会科学は矛盾とか亀裂とかを重視してきた。当初は近代化や開発/発展の「正常な」モデルからのずれであり、不均等さ・異種混淆さであったが、そこから近代化や開発/発展を前提とせずとも社会自体が矛盾や亀裂の上に成り立っているという物の見方を鍛えてきたのだ、と私は思う。

こういう社会科学は厄介なので、外の人は手を出したがらない。でも、そういうことから目を背けたくないなと思う。私にとっては、そこにラテンアメリカが生んだ最良の感性があるのだ。まだまだこれからだ。

写真は、この本を読んでいるときにこの記事の内容を考えていた、という備忘のための記録。

martes, 6 de junio de 2017

howとwhatをつなげるために

最近よく授業で話していること。問いの立て方には5W1Hというものがあるが、それぞれの疑問詞は並列に存在しているわけではない。私は、howからwhyへ、そしてwhatへ、という図式を作る。最初は「どうやればいいんだろう?」 と思う、つまりhowの疑問から始まる。ここに現実との最も強い接点がある。でも、それだけでは問いとして不十分で、「それはなぜそうなっているんだろう?」と問う、つまりwhyの疑問へと展開することで、当たり前であったことに亀裂を入れて、もう一度考え直すという作業へとつながる。つまり研究へとつながる。しかし、最後にはwhyですら不十分で、「これはいったい何なのだろう?」というwhatの問いが投げられるようになることが、その先の段階としてある。つまり、それがそこにあること自体に驚く、それができるようになることが、問いを立てる方法として基本のところにある。

これはたぶん順番が大事。whatの問いが最初に来るのではなく、奥義として存在していることが大事。基本は最初にあるのではなく、たどり着くところにあるべきなのだ。

言語教育に携わるということは、「どうすればうまくできるのだろう?」(how)の問いがまずもってある。実際に社会とかかわる「実務志向」とか「応用」と呼ばれるような研究分野でもそうだ。でもそれは、えてしてwhyそしてwhatの問いと乖離しがちだ。スペイン語がどうやったらうまく習得できるのか、うまく教えられるようになるのか、という問い。それは、なぜここはこうなっているのか、スペイン語とはいったい何なのか、どのような言語なのか、という問いから、ひたすら乖離を続けていると思う。応用言語学としての言語習得論は、元々の言語学の役に立つ部分とのつながりを、どんどん失っていっているのではないだろうか。そして逆にwhatやwhyの問いを重視する人は、howの問いを通じて現実と関わる、ということを見失ったのではないだろうか。

授業の場というのは、あくまでも実践の場で、だとしたら「専門分野」としての乖離の傾向に、現場ではとことん抗いたい、と思う。

そして最後に、横から、「それは結局誰にとっての?」という、whoseの疑問に刺し貫かれたい。