sábado, 23 de octubre de 2021

【アイヌ語の口承文学の名言その2】超強力なのに全く役に立たない「魂の入った眼座」

(出典――砂沢クラ「キンラコロポイヤンベの話」『人々の物語』アイヌ無形民俗文化財記録第三輯、アイヌ無形文化伝承保存会、1983年、pp.177-200。

osiso ka ta cise kor nispa a wa inunpe kay ne inkar wa an kusu inkar=an awa inunpe ka ta ramat un sikso an wa nep cikap ne yakka ramat oma p tan kotan ek a ranke kor inoka a=nuyekar wa an w_a siran.

(右座には家の主人が座って、炉縁へと目を向けているので、私も目を向けたところ、炉縁の上に、魂の入った眼座があって、何の鳥でも生き物(魂の入ったもの)がこの村に来たら、その姿が映し出されている様子だ。)【石狩のアイヌ語】

 

【アイヌ語の解釈】

「右座」のことをosisoともsisoとも言う。「右」というのは分かり難いが、入口にあい対してというか、上座から見て炉の右側にある座のこと。osiso ka taで「右座・の上・に」。cise kor nispaは「家・を守る・旦那さん」で、「その家の主人」という意味で様々な地方のアイヌ語で使われる表現。aは「座る」という動詞の単数形で、接続助詞のwaで後ろに繋がる。

家の主人は、inunpe kay ne inkarしている。inunpeは「炉縁」を指す。kayはおそらく位置名詞ka「~の上」がこのような形にもなるのだと思うが、十分に他の用例が確かめられない。neは格助詞で「~へ、~に」という向きを示すはたらきをする。inkarは「眺める、目を向ける」という自動詞。ここでは自動詞が使われているから、inunpe kay「炉縁の上」と動詞は格助詞でつながれなければならない。inkar wa anは「見ている」で、家の主人は炉縁の上に目をやった状態でずっといることになる(だから主人公が忍び込んでいることに気づかないのだろう)。そうすると、主人公も自然とそちらに目をやることになる。kusuは「~ので」と理由を示す接続助詞で、inkar=anは主人公の動作を示している。awaは「~したところ」を意味する接続助詞(過去または完了の助動詞aとwaが結びついたもの)。

inunpe ka taのtaは、「~で、~に」と場所を示す格助詞で、炉縁の上にramat un sik-so「魂・~がついた・目の・座」という物がある(an)ことになる。nep cikap ne yakkaは「何の・鳥・である・~ても」という、文法用語としては<譲歩>を示す表現。ramat oma pは興味深い表現で、「魂・~に入っている・もの」で「魂が(そこに)入っているもの」ということになり、浅井亨さんは「動物」とこれを訳していて、どうもそういうことなのだろうと私も思っているが、十分に他の用例が確かめられない。

この続くtan kotan ek a rankeには、実はよく分からないところがある。tan kotanは「この村(コタン)」なのだが、ek「来る」は自動詞なので、kotanにそのまま続くことはなく、何かしら格助詞が入りそうなものである。かつ、後ろのaは過去又は完了のはたらきをもつ助動詞で、rankeは頻繁に行われる行為を示すはたらきをする助動詞なのだが、このようにa rankeと結びついているかたちが、あまり見当たらないようである。korは「~すると」を示す接続助詞なので、とりあえず「この村に来ると」ということかな、と考えてみる。

そうすると、i-noka「その物の・形象」がnuyekarされる。ここのa=は、主人公を示すのではなく、不定人称で受け身のはたらきをしていると考えられる。nuye-karは、nuyeが「彫刻する、刻む」という意味の単語で、nuyekarで「描く」という意味になる。つまり、a=nuyekarで「刻まれる、描かれる」つまり「模様がそこに浮かび上がる」ということなのだろう。siranは視覚的な根拠にもとづく情報であることを示す動詞で、「~の様子なのだ」といった意味になる。

 

【物語の解釈】

英雄叙事詩というジャンルの物語では、一つの話のなかに興味深いアイテム(私は「マジック・アイテム」と呼んでいる)が登場することがあり、ここで出てくる「魂の入った眼座」というのは、その一つだ。これはアトゥイヤ コタンという村での描写で、この場所を語り手の砂沢クラさんは中国だと考えているようだ(p.199の注2)。

その村の村長が上の引用した箇所で出てくる家の主人であり、彼はシネン アㇱ ウシ カムイ ラメトㇰという名をもっている。浅井亨さんはこれを「一人立ち大勇士」と訳している。この者が、「魂の入った眼座(ラマトゥンシㇰソ)」という物をもっていて、それをじっと眺めている。これは村に近づいてきたものを全て映し出してしまうのだそうで、sikso「目の・座」というからには、炉縁の表面の一部に、全てを映し出す目のようになっている部分があるのだろう。われわれが考えるところの「鏡」のようなものかもしれない。このアイテムがあることで、このアトゥイヤコタンは外敵の侵入に対して強い防御の力を得ているようである。

なぜ主人公のポイヤウンペがこのアトゥイヤコタンに来ているのか。育ての兄に養われている主人公は、大きくなって狩りに行ってくるよう兄から言われ、出かけた先で鹿を矢でしとめるのだが、そこで母親がアトゥイヤコタンで切り殺されたことを思い出し、そのままでは家に帰れないと思って、アトゥイヤコタンへと風に乗って海を越えて飛んでいく。当座の通過儀礼としての<初めての獲物をとる>という行為と、歴史のなかの代々の因縁を晴らそうとするとする行為が連続するのであり、私はこれを物語の構成における「マルチタスキング」と呼んでいる。

英雄叙事詩の主人公は、昔から続く戦闘の因果に巻き込まれていくのが定番なのだが、この場合は、母親の仇をとるというのが主人公の動機になっている。父親の来歴は全く語られない。このようなかたちは、少し珍しいかもしれない。

そしてまた、おもしろいことに、この「魂の入った眼座」というマジックアイテムは、全く役に立たない。主人公は、家の主人すなわち村長に全く気付かれずに家に入り込み、その妹にかたらいて恋仲となり、急に出ていって主人に切りかかり、その先に村の全員を切り殺してしまう。その恋仲となった相手すら、最後には主人公の刀の先に引っかかって動けなくなり、その片方の乳房だけもぎとって、主人公は獲物の鹿を背負って家に戻ってしまうのだ。主人公がKinrakor Poyyanpe(キンラコㇿ ポイヤンペ)と呼ばれる所以であり、これを浅井亨さんは「激情若大将」と巧みに訳している。ちなみに、件の女性は、家に戻ってからポイヤンペが天に向かって放ったramat un ipe op(ラマッ ウン イペ オㇷ゚:魂の入った人喰い槍)に刺さって天から下りてきて、主人公と兄とともに暮らすことになる。

全てを見通せる監視カメラのような眼座(鏡)が存在したとしても、英雄叙事詩の主人公ポイヤンペの強さの前には役に立たないということに、私は少し嬉しい気分になる。


jueves, 21 de octubre de 2021

秋を失いつつあるわたしたちは……

10月の半ばすぎで、大学の裏側のバス停を下りたところの農家では、椿の花が咲き始めている。秋という「あわい」の季節を失いつつある私たちは、夏の蒸し暑さから冬の寒さへの急な移行にとまどっている。

 


 

 

【アイヌ語の口承文学の名言その1】魔物の合体に継ぐ合体と、数字の「6」

(研究のためのノートを取っているのですが、せっかくなのでその断片を公開しながらいきます。)
出典:「トミサンペッの女がトゥスをして許婚を蘇生させた話」『冨水慶一採録四宅ヤエの伝承――歌謡・散文編』四宅ヤエの伝承刊行会、2007年。

pp.128-129
repunkur atuy yaunkur atuy, atuy utur
atuy asam ta atuy rasanpe iwan rasanpe sinep ne yaykarika
otasaw ... sawrasanpe [ota sam ta ota rasanpe?] iwan rasanpe sinep ne yaykarika
na ota rasanpe ne wa atuy rasanpe sinep ne yaykarika menoko ne an ike
atuy corpok ta pirka cise kor wa an ike

沖の人の海と陸の人の海、海のあわいに
海の底で海の魔物、六つの魔物が一つになって、
浜辺で浜の魔物、六つの魔物が一つになって、
それからまた、浜の魔物と海の魔物が一つになって女になったもの、
海の下で綺麗な家をもち、そこに住んでいるものが

 

【アイヌ語の解釈】
repunkurはrep-un-kur「沖・に住む・人」、yaunkurはya-un-kur「陸・に住む・人」で、レプンクㇽは海の向こう側の島に、ヤウンクㇽはこちら側(北海道)の島に住む人を指すようだ。repunkur atuyは海の向こう側、yaunkur atuyは海のこちら側ということになる。uturは「あいだ、あわい」を意味する位置名詞なので、atuy uturとは向う側の海とこちら側の海の、ちょうどあいだくらいの場所ということになる。人間が住む世界からは、ちょうど一番遠い場所になる。

asamは「~の底」を意味する位置名詞なので、atuy asam taで「海・の底・に」となる。rasanpeはなかなか見慣れない単語だが、『アイヌ語方言辞典』で美幌の菊池クラさんがto rasanpeで「湖の悪魔」だとしたという記録があり、「魔物、悪魔」という意味の道東(の一部?)で用いられる単語なのだろう。atuy rasanpe「海の魔物」とiwan rasanpe「6つの魔物」は同じ存在を指していて、対句的に並んでいる。yaykarikaもなかなか見慣れない単語だが、田村雅史さんが解釈しているように「変身する」でよいのだと思う(様々な地域のアイヌ語でこれはyaykarと言う)。sinep ne yaykarikaで「一つ・に・変身する(合体する)」となる。
(注――ちなみに同じ四宅ヤエさんは別の物語で、an=yupi utari / oman rukoci / an=yaykarika / an=nospa ki wa / paye=an ike(私の兄たちが 行った足跡を まわって 追いかけて 行って)という使い方をしている(『冨水慶一採録四宅ヤエの伝承――韻文編2』四宅ヤエの伝承刊行会、2012年、「第8話 オタスッツの男の自叙――キムンナイの長者を危篤から救ったオタスッの末っ子の物語」p.187)。yay-kari-ka(自分・回る・~に…させる)という語構成を考えると、後者の使われ方の方がこの単語はしっくりきそうだ。)

その後ろでも四宅ヤエさんは言い迷っているが、[ ]で補われている表現が対句としても正しそうで、ota sam ta「浜・辺・で」となり、ota ranpe「浜の魔物」とiwan rasanpe「6つの魔物」が同じ存在を指していて、対句的に並んでいる。naは「まだ」を意味する副詞、ne waは二つのものを結びつける言葉でota rasanpe「(6つが1つに合体した)浜の魔物」とatuy rasanpe「(6つが1つに合体した)海の魔物」を結びつけている。これがもう一度sinep ne yaykarika「一つに合体し」、menoko ne an「女性・になって・いる」、ike「そういうもの」となる。

corpokは位置名詞で「~の下」を意味する。atuy corpok ta「海・の下・に」pirka cise kor「きれいな・家・を持つ」、そしてkor wa anで「持っ・て・いる」となる。上の...menoko ne an ikeと、ここの...pirka cise kor wa an ikeが並べられて、同じものを指している(同格になっている)。

 

【物語の解釈】
アイヌの物語の世界では、カムイがしばしば人間に横恋慕をして、魂を奪い取ってカムイのくに(カムイ モシㇼ)で結婚しようとする。ここでは、主人公の女性(シヌタㇷ゚カウンマッ)の許婚のイヨチウンクㇽに、魔物の女が横恋慕をする。そして、その魔物の女性は、複数の魔物が姿を変えていることになっているのだが、その過程が合体に合体を継ぐすごいことになっている。海の底で6つの魔物が、浜辺で6つの魔物がそれぞれ合体して、その2つの魔物がさらに合体して1人の女性(魔物)になるということで、合計して12の魔物からなる女性というのは、聴くからにたいへん恐ろしげで強力な存在である。

このようにアイヌの世界においては、「6」という数字を基盤として世界の様々なことが組み立てられており、この物語で「6」が出てくるのは魔物の数だけではない。この魔物の女性が横恋慕した相手の魂を奪い取ろうとするのだが、この魂も6つの「小さな玉」からなることになっている。魔物の女性に魂を取られていく主人公の許婚イヨチウンクㇽは、病になり床に臥せって、息も絶え絶えになる。この魂が5つまで取られてしまい、あと1つという絶体絶命の窮地に陥る――
na sine pon tama uk ciki ray ciki ramaci uyna kuni yaysanniyo(さらにもう一つ小さな玉を取って(イヨチウンクㇽが)死んだら、その魂を取ってやろうと考え)(p.129)
アイヌ語を見ると、6つあるものはpon tama「小さい玉」であり、これが6つ集まってramat「魂」を構成しているらしい。ちなみに、『四宅ヤエの伝承』における日本語の訳では、この両方が「魂」と訳されている。

主人公の女性シヌタㇷ゚カウンマッは、これにどのように対抗しようとするか。実は、この主人公はトゥスとアイヌ語で呼ばれる巫術の力をもっており、床に臥せっている許婚の病の真の原因が魔物の女性であることを見通し、魂を取り返しに行く。巫術で見通すと、目の前がパッと開ける感じがするらしい――
tusu=an kane paye=an ine, ayne inkar=an ike, an=siketoko maknatara(トゥスをしながら進み、しばらくすると、私の目の前がぱっと開けて、次のような様子が見えてきました)(p.128)
このように、この物語についてはトゥスについての興味深い描写もある。

そして、シヌタㇷ゚カウンマッは奪い取られた許婚の小さな玉たちを取り返し、許婚イヨチウンクㇽのもとに行き口から飲ませる。それによってイヨチウンクㇽは活力を取り戻し、主人公の女性は無事に結婚を実現し、幸せな生活を送ることになる。このように、女性同士の巫術対決は、アイヌにとっての病いと<いのち>のあり方を垣間見せてくれるのだ。

参考――
「道東のアイヌ語テープ大量発見――白糠の故四宅さん40年前録音」『北海道新聞』2007年3月26日
(URL: https://blog.goo.ne.jp/ainunews/e/b7677dd3aa012540afd9a948335d9dfa



sábado, 9 de octubre de 2021

いろいろな言葉で仲間を追悼する

アンデス・オーラルヒストリー工房(Taller de Historia Oral Andina)では、この2年に亡くなってしまった先人たちを偲ぶセッションを連続で開催している。そして今回は、メンバーで創設者の一人でもある仲間を追悼するイベントであった。

この仲間の家族たちをも招き入れてのイベント。常に大量の酒を飲み、明るく朗らかで、家族と仲間をつなぎとめていくような女性だった。ラ・パスのカルナバルの最終日のチュタの踊りに皆で参加しにいったことが、懐かしい。

常にもう少し話したいと思っていたのだが、私が標高の高い場所では一瞬で酒が回ってしまうので、何を話したのかすら、よく覚えていない。今度私がそっちへ行ったら、あちらの世界ではそんなにすぐに酔っぱらわないで、もっと話せるんじゃないかなと思う。

個人の軌跡というよりも、家族として、組織の仲間としての思い出を大事にする言葉が続き、これまでのイベントともまた少し違う色彩を帯びていく。アカデミックな領域に参入しながらも、そのような形式的にきれい」ではない語りや、家族の語りに常に立ち戻って、それを大事にしていく、それはそれを標榜する組織にとっても簡単なことではないわけで、常に危ない刃の上を歩いて渡っているような気持ちになる。今回のがうまく成立して、本当に良かった。