martes, 27 de noviembre de 2012

季節のご馳走

高原部(アルティプラノ)に住んでいる僕の友人は、先週末にやっとジャガイモの植え付けが全部終わったと言っているが、ラパスの渓谷部(バーリェ)はうって変わってもう収穫が終わろうとしている。

次第に、一年のサイクルの中で、この時期にしか食べないものがあることに、気付いていく。ジャガイモを収穫するこの時期には、Puré de papasという所謂マッシュトポテトを作って、たらふくジャガイモを食べる。ジャガイモを茹でて、牛乳とバターを混ぜながらつぶしていく、単純な食べ物なのだが、これがなんとも美味しい。うちは牛肉のアサードと合せるが、その後話していた人たちはチョリソ(ソーセージ)と合せるのもいいよと言っていた。



来月(12月)の後半からは、白トウモロコシの収穫が始まる。前にもブログに書いたが、この時期になるとウミンタ(humint'a)という、白トウモロコシをすりつぶして、チーズやオリーブを混ぜて葉っぱに包んでオーブンで焼くものを作るのが、恒例行事のようになっている。あともう少しで、またその季節が巡ってくる。

miércoles, 14 de noviembre de 2012

インディアニスモがボリビアの政治にもつ批判の力

11月15日は、18世紀末のアンデスの大反乱の時代に、ボリビアで蜂起したトゥパク・カタリ(Túpac Katari)が処刑された日だ(1781年)。彼は現代ボリビアの様々な先住民運動にその名前を残していて、この日に向けて記念するためのイベントがラパス市では開かれる。

温情的に<他者>である先住民を主流社会に組み込もうとするインディヘニスモと対比して、先住民自らが自分たちのものを取り戻し再興しようとする思想をインディアニスモと呼ぶ。

前々から薄々こういうことだろうと思っていて、今日あらためて確認できたのは、インディアニスモの目標とは、<パチャクティ(pachakuti)を通じたコリャスーユ(Qullasuyu)の再興>であり続けているということだ。

コリャスーユというのは、インカの時代においてアイマラを中心とする人々が領域の南部で占めた地域の呼称だ。先住民の政治運動や政治思想は、興味深いことに、過去のある特定の時代を目標として定めることが多く、ここには<アイマラの人々はインカに支配された側なのではないだろうか>など議論の余地があるのだが、そこが問い直され議論されることはあまりない。そして、pachaは時間と空間が複合した概念、そしてkutiñaは「ひっくり返す」と「戻る」という意味をもった単語で、私が仲良くする組織Taller de Historia Oral Andina (THOA)のFelipe Santosは、<ひっくり返して戻るのだが、戻ったところはまったく新しい地平である>という興味深い見解を、この概念に関して提示している。

ここから、運動の目標として、「脱植民地化(descolonización)」や「解放(liberación)」はそれ自体も使われるのだが、むしろ「自らの回復(reivindicación)」や「再興(reconstitución)」が言葉として重視され掲げられることになる(Constantino Lima)。アメリカ大陸の先陣を切ってコリャスーユがreivindicaciónとreconstituciónを達成しよう、という目標だ。

この目標の中で、エボ・モラレス政権の成立、あるいは多民族国家(estado plurinacional)の建設というのは、一つの過渡期に過ぎなくなる。従ってそこから、強い批判の力を現状に対してインディアニスモはもつことになる。

この目標は、「自決(autodeterminación)」、つまり<自分たちのことは自分たちで決定する>という考え方と強くつながっている。ここで、この<自分たち>というのが明確に規定できるかどうかは、かなり難しい。混血(メスティソ)化したアイマラの人たちをどう考えるか、現政権下でアイマラの富裕層(burguesía aymara)が拡大しているという事実をどう考えるか、そこに低地先住民はどのような形で入っているのか。そして既存の行政区分を変えることは本当に困難で(既得権益)、ボリビアでの先住民自治の実際は遅々として進んでいない。<自分たち>を明確に規定することが難しいにもかかわらず、先住民の自決という考え方が力をもつ。そして多元性や複合性が幾ら強調されようとも歴史の節目に「二つのボリビア(Dos Bolivias)」(白人・混血層のボリビアと先住民のボリビア)という考え方が力をもち、二元的な社会観に基づいて主流社会を突き上げようとする。この矛盾と難題が、実はボリビアの政治の最も重要な駆動力の一つだと私は思う。

これに関連してふと気づいたのは、主流社会の側から提示された<混血(メスティソ)アイデンティティと先住民アイデンティティは互いに矛盾せず、多くの人が両方のアイデンティティを生きているのではないか>という主張に私は注目しているのだが(具体的に提示したのはFundación UNIRという組織で、私は大使館勤務時代に立ち上げにも一部関わっていました)、今日のイベントを聞いていて、この図式を時間化してしまうとかなり簡単に頽落してしまう、つまり、先住民としての過去を持ちつつ現在は混血化しているとすると、かつての混血(メスティサヘ)へと社会を統合しようとした時代の思想と変わらなくなってしまうという批判の可能性だ。(実際にUNIRの中でそういう議論の組み立てを聞いたことがあった。)現在において、同時に、混血アイデンティティと先住民アイデンティティをもっているのではないか、と考えるためには、かなりの強い思考力が要求されるのかもしれない。

今日のイベントでの指摘で興味深かったのは、コリャスーユの再興に向かうインディアニスモに対して、(具体的な70年代からの)カタリスモ(カタリ主義)はボリビア社会の中に自らを位置づけ、協力・協調の可能性を探る立場だと規定されていたことだ(Pedro Portugal)。(もちろんこれが1970年代以降に興隆したアイマラ先住民運動の分裂と弱体化をもたらした重要な要因でもある。)そこから、ファウスト・レイナガ(Fausto Reynaga)やフェリペ・キスぺ(Felipe Quispe)が提唱した「二つのボリビア」(上述)という概念は、我々がボリビアの一部を構成していることになってしまうという点で、批判されるべき考え方になりもする(Constantino Lima)。

これらの考察の現代性としてもう一つ挙げられるのは、現状について、<インディオが権力を獲ってインディヘニスタに堕落した>と捉え、<権力をとることが脱植民地化なのではない>という認識が共有されていたことだ。本来希望をもたらすはずだった政治が大規模な幻滅と現状迎合を生んでいる今の時代に、強い批判の立場があることは、やはり心強い。

だが、だが、やはり私の批判的コメントも最後に書いておかないといけない。今日のPedro Portugalが一つの典型なのだが、彼は、<他者>になることを全て拒絶する、ある種の先住民的普遍主義的ラディカリズムとでも呼べる立場をとる(分かり難いネーミングなのだが取りあえずそう呼んでおく)。そうすると、独特の宗教や世界観の存在も、はたまたより良いもう一つの世界の可能性も、打ち消してしまいそうになり、段々とどこへ行くんだか分らなくなる。奇妙なことにカタリスタ/インディアニスタ運動(ここは総称します)の指導者にはこのような考え方が見られることがあり、実はフェリペ・キスペにも似たような所がある。
(フェリペ・キスペには、戦闘で強いやつが勝つという考え方と、ある種の素朴な(「トラクター導入型」)近代化への志向が存在しているということを、かつてどこかに書いたんだが、探さなければならない。)

そして、そして、やはりインディアニスモは男性主義的(マチスタ)な思想なのだ。今日のイベントも登壇者に女性は一人しかいなかった。男性に従属するのではないとすると、女性のラディカルな思考は、階級をまたぎ国際的なネットワークの中に自らを位置づけていくアナーキズムの形をとることが多く、そこのせめぎ合いに目をつぶってインディアニスモを礼賛してもいけないのだ。

(後でもう少し具体的な情報を補いますが、とりあえず着想を全て書き記しておきます。)

立ち話の9年間

私は物売りや道端の屋台のおばちゃんと話し込むことがたまにあるが、そうしていると稀にその関係が長く続くことがある。

今日の夜、大学の前の広場を通りかかると、お互いに「あぁ~~~!」と言う。実はそのおばちゃんとは2003年からの知り合いで、もう9年以上になるのだ。

市に登録していないゲリラ物売りおばちゃんで、市役所の人に見つかると怒られたり排除されたりするので(こういうときに使うスペイン語はmolestarだ)、街の中心の方で、しかしそういう人が通らなさそうな空間や時間に出現する。かつて私が大使館で専門調査員の仕事をしていたときは、私が住んでいたマンションの目の前の階段状になっている道路に露店を広げていたのだ。

街を縫うしぶとさ、と言うのだろうか。
私のラテンアメリカの街の原風景は、いつもこういうところにある。

世間話を続けていると、お互いの状況を毎回簡単に交換し合うようになる。小さな女の子がチョコレートを道行く人々に差し出している横で、「お前さん、しばらく見なかったけどくにに帰ってたのかい?」「元旦那が病気になったっていうのはどうなったの?」とか、立ち話を続ける。

夫が他の女に走り、小さな子どもを何人も抱えていて、生きるということは、本当に闘いだなといつも思う。

それにしてもこの人は子沢山で、しばらく会わないと子どもが一人増えている。最初は把握していたはずだったのだが、ついに誰が誰だか分らなくなった。沢山の子どもを連れて、街のある場所でぬうっと出会う。この人は神様の一種なんじゃないかと私は思っている。

domingo, 11 de noviembre de 2012

牧草で蒸す

アンデスにはジャガイモ以外にオカ芋と呼ばれるものがある。アイマラ語ではアピーリャ(apilla)と呼ばれる。ふかすと、とてもとても甘くて私はこれが大好物だ。

さて、ジャガイモは霜にあてた後に水けを抜いたチューニョやトゥンタとよばれるものがあるのだが、オカ芋にも同じものがあって、これはカヤ(kaya)と呼ばれる。

チューニョやトゥンタは水に浸けてもどしておいた上で塩茹でをするのだが、カヤはそれとは違う調理の仕方をする。前にも一度簡単に触れたことがあるのだが、今日はゆっくりと見れたので、写真を撮ってみた。

まずは水でもどすところまでは同じ。

次に鍋底に枝を渡して上げ底のようなものを作る。

そして牧草を刈り取って来て、それを敷き詰める。

その上に、水で戻したカヤを水けを絞りながらのせて、牧草の下に水をはって、蒸す。

これが蒸し上がったカヤ。牧草を通すことで、もともとカヤが持っている独特の強い香りが少し中和されるみたいだ。柔らかくて、クニュクニュした食感があって、私はこれも大好物なのだ。

お皿一杯によそってもらって、ひたすら食べていたら、お腹が痛くなった。

ジャガイモの花と実

今から1か月ほど前は、ラパスの渓谷部にある畑には白い花と紫の花が咲き乱れていた。
確か日本だと咲いたり咲かなかったりするのだと思うのだが、ジャガイモの原産地のアンデスにいると、これでもかとばかりに花が咲き誇る。

そして今、その畑はこうなっている。

地上部が刈り取られて後は収穫するばかりとなったジャガイモ畑。アルティプラノ(高原部)ではまだ植え付けが終わったばかりなのだが、バーリェ(渓谷部)ではもう収穫期に入っているのだ。

この収穫期を判断する目安になる物が、この刈り取られた所に転がっている。

この緑色のコロコロと転がっているミニトマトの熟してないようなのが、あのとき咲いていたジャガイモの花からできた実なのだ。この実はアイマラ語でマクンク(mak'unk'u、二つの「ク」は共に破裂音)と呼ばれて、これが出来てくると下でジャガイモが十分に大きくなっていると判断できる、そのための目印の役割を果たすと、うちのおばあちゃんに教えてもらった。

日本のジャガイモは実なんてなったっけか……?

こうしてアンデス渓谷部の農サイクルがまた一度すぎていこうとしている。でもただ循環するだけじゃない。おばあちゃんは、今年身体がだいぶつらそうで、この分納耕作(al partir、半分はうちのもの)をしている畑を今年で手放そうと考えている。色々なことを教わらないままになってしまったんだなあ。





viernes, 9 de noviembre de 2012

Todos Santos 追記

今日は私が関わっている組織の月例の会合があって、友人が話すのを聞いていた。

トドス・サントスではパンで人間の形を作って、これをタンタワワ(t'ant'awawa)と呼ぶのだが、私はこれを死者をかたどったものだと思っていた。そして実際に、かつては(特に頭蓋骨の)ミイラを使っていたのが、カトリックの側から禁止されたために、パンで代用するようになったと考える人もいるのだが、実はこれではなぜ子ども(wawa)なのかが説明できない。これはそうではなくて、むしろかつてインカの時代に太陽神に捧げられた子どもたちのミイラをかたどったものなのだ、という説があるのだね。

そして、サトウキビや果物を私は下で「出会い物」と表現したが、友人が言うとおり、むしろこれは、自分の地域では採れないものに大きな価値があって、そういうものを揃えようとするのだと考えるべきかもしれない。うちのおばあちゃんの食の好みも確かにそうだったなあ(先月のエントリー参照)。

下の写真は2011年に撮影したもの。t'ant'awawaや供壇(メサ)のための小品が並ぶ露店と、うちの家族が作ったt'ant'awawaとt'ant'acaballoです。



11月23日追記:
ボリビア・アンデスにおける死の儀礼を扱うセミナーでMilton Eyzaguirreの発表を聴いていて、そもそもアンデスでは生のサイクルと死のサイクルが併存していて、死と男根・出産を同時に表現するモチーフは多数存在しているので、t'ant'awawasは死と並行して新たに生まれた子供たちなのだと位置付けるのを聞き、なるほどなと思った。

jueves, 8 de noviembre de 2012

ボリビアの現代政治史の先住民主義(インディアニスモ)からの再考

今日は2000年から2002年のMIP(Movimiento Indígena Pachakuti)という、戦闘的なアイマラ指導者のフェリペ・キスペ(Felipe Quispe)が率いた政党の形成過程を扱った本のプレゼンが夜にあって、そこに顔を出してきた。

Jiménez Kanahuaty, Christian. 2012. Movilización indígena por el poder. Los levantamientos indígenas en el altiplano boliviano y el surgimiento del Movimiento Indígena Pachakuti (MIP) Bolivia, 2000-2002. La Paz: Editorial Autodeterminación.


コメンテーターにホセ・ルイス・サーベドラ(José Luis Saavedra)という、アイマラ先住民運動(カタリスタ/インディアニスタ運動)の指導者らをインタビューし、つなぎの役割を果たしてきた知識人が入っていて、彼が話していたことで興味深いことが二点あった。


一つは、ラテンアメリカでも珍しい先住民の精神性を重視した武装ゲリラがボリビアで成立したことが及ぼした影響の大きさを、再評価すべきではないかという点だ。これはトゥパク・カタリ・ゲリラ軍(Ejército Guerrillero Túpac Katari, EGTK)という、1990年代の半ばに公の活動を開始した途端に軍隊に潰された短命のゲリラがボリビアには存在し、フェリペ・キスペ(や現副大統領のアルバロ・ガルシア・リネラ)は、このメンバーで投獄されていた経歴をもつ。(二人とも証拠不十分で釈放されている。)これは先住民の精神性を理解し損なったチェ・ゲバラではなくて、ということだ。


もう一つは、2011年のTIPNIS問題以来のボリビア政治の惨状を乗り越えるためにこそ、強硬なアイマラ先住民主義を打ち出したMIPの形成過程を丹念に振り返ることが役に立つ可能性だ。MIPは2003年以降衰退していくことになり、フェリペ・キスペの不信に満ちた妥協できない排外的性格がその原因として挙げられもするのだが、近年彼の強硬姿勢の再評価(「あれはやはり正しかった」)が同時に進んでいて、2000年から2003年にボリビア社会がもっていた可能性を取り戻そうとする考え方があるのだと思う。


また、著者自身の発言で重要かもしれないと思ったのは、制憲会議(Asamblea Constituyente)を前にして皆が怖気づいて、その結果既存の国家の枠組みを壊しきれなかったという指摘だ。その結果として、「多民族国家(estado plurinacional)」の名の下で、先住民司法の範疇が法律で狭められ、先住民の中央政府への政治代表は結局認められず、先住民自治に向けた行政区分の見直しは進まないなど、先住民の領域の抑圧が継続し、さらに進むという、逆説的な事態が生まれた。これはやはり重要な批判点だ。


ボリビアの政治には、この先住民による反乱(sublevación)の歴史的蓄積を通じて生まれる先住民主義(インディアニスモ)の強い核が存在して、だからハイブリディティなどの概念に取り込まれない、先住民対混血・白人という二分法的な社会の捉え方が可能になっている。その強い批判の力は、やはり思考にとって大きな刺激になる。

domingo, 4 de noviembre de 2012

夜明け前の暗がりの中で

ペルーとチリとの三国間の国境が近い、ボリビアのアルティプラノ(高原)の村に泊りがけで出かけていた。バスは週に2便しかなくて、この現代にこの便数はかなり少ない。

年をとったお母さんのもとに子供全員が集まるという機会だったので、寝る場所が足りなくて、車の中で寝ていた私は凍てつくような寒さで目を覚ました。すると隣で寝ていた人が「お前もか」と言い、二人で笑った。

満天の星空の中で、車のフロントガラスから正面に、ひときわ大きな星がひとつ見える。これはuru uru(ウル・ウル)と呼ばれる星だそうで、午前4時に昇り始めるのだそうだ。この星が見えると、農村では一日の作業が始まる、大切な星なのだそうだ。方角は南の方に見えて、昇っていく。

そして次に、耳をよく澄ますと、遠くで鳥が鳴いているのが聴こえる。これはphuku phuku(プク・プク、「プ」は帯気音)と呼ばれる鳥で、5時になるとこの鳥が鳴き始めるらしい。確かにそうだった。問題は、鳴き声がphuku phukuと聞こえるらしいのだが、私にはどうしても「ホケホケ」と泣いているように聞こえる。何語でもそうだけれど、アイマラ語の聞きなしも難しいなあ。

するともう一つ鳥が鳴いている。これは僕も知っているliq'i liq'i(レケ・レケ、「ケ」は破裂音)という鳥だ。この鳥の鳴き声は確かにliq'i liq'iと鳴いているように聞こえる。今回新しく隣の人に教えてもらったのは、liq'i liq'iが鳴いているときは、人とか犬とか狐とかが傍を通っているのだそうだ。それを知らせてくれるのが、あの鳥の役割なのだと。

そこで分かったのは、アイマラ語の口承文学には、家畜(荷物を運ぶリャマ)を盗まれた旅人にliq'i liq'iが姿を変えた若者が泥棒の在り処を教えるという話があるのだが、ここで出てくるのが何故liq'i liq'iでないといけないのかが、これを聞いて初めて納得できた。知らせてくれるんだな。

「うちの母さんは読み書きは全く出来ないけれど、様々な自然の徴候の読み方を知ってるんだよ」とその人が私に言う。極寒の中で豊かな夜明け前のひと時だった。



PS 今回出かけていた地域はリャマしかいないと言われていたのだが、確かにそうで、そしてそれはこの場所は雨がほとんど降らないからなのだった。雨は1月と2月だけに集中的に降り、その期間は川が渡れなくなって、村が孤絶し、電気も来ない、若者が殆どいなくなってしまった地域なのだ。この境い目になっているのはペルーとの国境から流れてくるデサグアデロ(Desaguadero)川で、この川を越すと途端に雨が降らなくなるのだそうだ。アンデスではちょっとの距離差で気候が全然変わってくる、いわゆるミクロクリマ(microclima)というのが大事だというのはよく言われるのだが、高原部(アルティプラノ、altiplano)でもここまで違うというのは、新たな驚きだった。
 しかしそうであればそれなりの楽しみはあって、リャマを解体してワティヤ(wathiya)という地中で石で焼く料理をご馳走になった。もう石と土で焼かれた肉や芋の美味しさは格別だ。次の日にはリャマ・スープを作る。リャマの骨からでる出汁の旨味は、羊ともだいぶ違って、またなんともいえない美味しさだった。


viernes, 2 de noviembre de 2012

ボリビアのTodos Santos 2012

(下の記事の続き)
今年目にした色々な物を記録しておこう。

まずはメサ(供壇)を構成する様々なもの。下の写真中央にあるのはビスコチュエロ(biscochuelo)と言う。

この下がっているのはティラ(tira)と呼ばれる。
問題はこの上の二つが、それぞれ何の意味を持っているのかが正確には分からないことだ。この場合に限らず、供え物の構図は面白く不思議だなあ。

そしてこれがキヌア(キスピーニャ)で出来たリャマ。このリャマもパンや果物を死者が持って帰るときに担いでいくそうだ。ちなみにこのリャマは段々レア物になりつつあるようで、すごい探したと見つけて来た人は話していた。

町の墓地では、それぞれの家族が陣取って、人びとにお祈りに来てもらう。「誰々のために祈ってくれ」とお願いして、祈りが終わると、果物とパンをセットにしてお礼に渡す。

jueves, 1 de noviembre de 2012

ボリビアのTodos Santos


11月の頭は日本のお盆に当たるトドス・サントス(Todos Santos)という死者の魂が帰ってくる日々だ。

ふと思ったが、戻ってくる死者がつく杖になるというサトウキビは低地から、そしてパンと共に死者が持って帰れるようにという果物は、オレンジ、バナナ、パイナップルと亜熱帯地方産だ。Todos Santosのメサ(mesa、供壇)も、高度差のある様々な地方の物の出会いの場なのだなあ。

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(以下は2009年の同じ家族のトドス・サントスについて、レコムの『そんりさ』という会報に書いた原稿を一部転載します(2009年11月号)。)


 ラパス市内のサンペドロとロドリゲスの間の辺りに、ミニブス(minibus)(日本で言うマイクロバスをバスとして使っているもの)[1]とトルフィ(trufi)(いわゆる乗合タクシー、ミニブスよりほんの少しだけ高い)の乗り場(parada)がある。乗客が埋まるたびごとに出発するのだが、日曜日は客が多くて一台着くたびごとに人が殺到する。ラパス市内を南に向かって高速を下りていくと、高級住宅街であるソナ・スール(Zona Sur)に向かって左に大きく曲がるカーブがある。そこを逆に右に曲がると、月の谷と呼ばれる観光スポットに向かって岩山を再び少し上ってから、また下り始めて動物園やバーベキュー場やカートや乗馬のできるマリャッサ(Mallasa)という所に着く。ここは市内よりもだいぶ暖かく、ラパスの人々が週末に遊びに来るところ。そこも通り過ぎると、ラパス市内から一緒に下りて来た川をわたる大きめの橋があって、その先はリオ・アバホ(Río Abajoと呼ばれる地域に入る。
 リオ・アバホは高度が3000mを切るので、空気がむっとするほど濃くなって、暖かさがラパス市内と全然違う(注:僕が普段いるエル・アルトは高度が4000mを越えています)。ワフチーリャ(Huajchilla)、バレンシア(Valencia)と比較的小さめの町が続き、川の左側はメカパカ(Mecapaca)という町で終点になる。ラパス市内からは1時間と少しで着く。ラパス市内で僕が仲良くしている家族のおばあちゃんがバレンシアに住んでいるので、ほぼ毎週日曜日にここに通って、アイマラ語のお話を学ばせてもらったりもしている(注:これは僕の現在の調査の一つの小さな柱になっていて、多分どこかで発表する機会があると思います)。ここは果物の生産が盛んで、10月終りになると果樹の葉は青々と茂り、花の季節はもう終ってプラムや梨やイチジクやルフマと呼ばれる果実が青く育ち始めているのが見える。12月の後半から徐々に収穫の季節に入る。ラズベリーは既に赤くなっていて、つまみ食いができる。かつてはアシエンダが労働者たちに分配されたという経緯があったようだが、最近ではこの辺りもラパスの高所得層の別荘地としての開発が進み、広い敷地を仕切って大きい住宅の建設が進んでいるのが毎年増えているようだ。
 日差しの質が違って、バレンシアは土壁が濃密な太陽にあてられて焼けているような感じのするひなびた町だ。メカパカは今年12月の総選挙の大統領候補にもなっていて、セメント会社の社長でもある大企業家サムエル・ドリア・メディナの大邸宅があることで有名であり、街の中心部は壁が全て濃い目のオレンジ色で統一されて塗られているのだが、これは彼が資金を提供しているらしい。
 111日は、(メキシコなどと同様に)ボリビアでもトドス・サントスと呼ばれる日本のお盆のような行事がある。この日一日死者の魂が戻ってきて、翌2日に戻っていくのだ[2]。うちのおじいちゃんは2004年に亡くなっていて、そのためにお供え物をするメサ(mesa)というものを設える。おじいちゃんが生きていた頃はバレンシアのうちでメサを設えていたらしいが、亡くなった後はその先のメカパカのおじいちゃんの弟が持っている家で共同にメサを出している。
 うちのメサはこのような感じである(写真)。上から見ていくと、サトウキビと花でアーチ(アルコ)が作られ、その奥には一番上にビクトル・パス・エステンソロ元大統領の写真が(おじいちゃんが大ファンだったそうだ)、その下には右側におじいちゃんの名前が、真中には若くして死んだおじいちゃんの兄弟の一人の写真が、残りの二つは彼らのさらに父親と母親の名前になっている。目を引くのは、果物とともに人をかたどったパン(タンタ・ワワ(t’ant’a wawaと呼ばれる、t’の音はglotalizaciónと呼ばれる破裂させる音)と馬をかたどったパンがその下に大量に積まれていることだ。両方ともお面がついていて、このお面(カリータス(caritas)と呼ばれる)はトドス・サントス前になると市内の露店の至るところで見える。トドス・サントス前の一週間は市内のパンを焼くことのできるオーブン(オルノ、horno)のある場所は大忙しだ。これは戻ってくるはずの死者をかたどったものであり(戻ってくるのは老人だから少しふざけてタンタ・アチャチラ(t’ant’a achachila)だと言っているのを聞いたこともある)、馬は死者が一年分のパンと果物を積んで戻っていくためにあるということだ。この馬はリャマだったりすることもあるらしい(うちにはなかった)。少し段になるように積まれているのは、段を上るようにして天に戻っていくかららしい。少し分かりにくいが左側三分の二ほどはおじいちゃんの弟夫婦が用意したもの、右側三分の一くらいがおばあちゃんが用意したものだ。正面には、酒をよく飲む人だった場合は酒と、故人が好きだった食べ物が備えられて、また列席する人たちにもふるまわれる。花の中で目を引くのは、とう(tuquru)の立ったタマネギが必ず供えられることで、これは僕が聞いた話では故人が飲む水を含んでいるということらしい。
 お祈りをしに来る人がいる。僕は子供たちと途中からサッカーをしていたので全貌は見ていないのだが、家族の人たちはその人に例えば「Chachajataki. 私の(死んだ)夫のために(祈ってほしい)」と依頼する。そうするとその人はお祈りをした後に、「urasyun katuspan 魂までが祈りを受けとりますように」と言って、家族の人たちも同じ言葉を返している(スペイン語で言うときはque se reciba la oración)それを死んだ家族の分、そしてメサを出している両方のそれぞれに対して繰り返すと、それぞれからパンや果物が分け与えられる。僕が目撃したのは、近所の人のようで、あまり豊かでない人がこうしてお祈りをして回ってパンと果物をもらっているとの話だった。
 月曜日は僕も含めてラパスに住んでいる家族は行かなかったのだけど、メカパカの墓地にメサを移動して食べ物を振る舞うらしい。月曜日に魂が天に戻っていくということなのだが、農村の方では火曜日まで続いて、火曜日に魂が戻っていくらしい。エル・アルトで僕が今いさせてもらっているラディオ・サン・ガブリエル(Radio San Gabriel)でも火曜日はまだ仕事に来ない人がいて、「村に戻っているからね」と周りの人たちがしゃべっていた。




[1] ちなみに、ラパス市内にはミニブスと共に、アメリカのスクールバスの中古を中心とした大型バスで運行される路線があり、それはミクロ(micro)と呼ばれる。名前だけだとミニブスとミクロのどちらが大きいのだかよく分からない。タクシーなんかに乗るとお金がかかってしょうがないと思う人は、もっぱらミニブスとミクロとトルフィを愛用することになる。慣れてくると意外に路線の構図が分かってくるもの。

[2] よく考えてみると、前に仕事をしていたとき、僕は決まってこの時機に休暇をとっていたので、実はトドス・サントスを見るのは初めてなのだった。面白いことにここの日系人の人たちは、8月ではなくてこのトドス・サントスを目安にしているようだ。1日に僕が泊まっている家の家族を中心とした人たちで大がかりな夕食会があった。

martes, 16 de octubre de 2012

やわらかく過激な抵抗

私が2002年にイギリスのサセックス大学の開発研究所(Institute of Development Studies, University of Sussex)に提出した修士論文の一部分が、2005年に一度本の一章として指導教官との共著で出版されていたのですが、もう一度刊行されることになりました。

Cornwall, Andrea and Mamoru Fujita. 2012. "Ventriloquising the 'Poor'? Of Voices, Choices, and the Politics of 'Participatory' Knowledge Production." Third World Quarterly, Vol.33, No.9: pp.1751-1765.

開発の人類学(anthropology of development)という分野の中の、開発の言説(discourse of development)に関する論文と位置付けられるだろうと思います。
(元々の修士論文には、開発における「参加」の議論のレビューを行った章と、フーコー(『性の歴史』)とスピヴァク(『サバルタンは語ることができるか』)を基にした知の生産のあり方についての批判的な章がありました。具体的な検討の部分も公刊論文化されるにあたってだいぶ削っています。)

指導教官も独自の検討を基に色々と書いてくれていて、全体の見取りとしては、現場とグローバル報告書の間の齟齬を検討しているのが私で、中間レベルのナショナル・レポートも実は抵抗をしていると指摘しているのが私の指導教官の部分になります。

やはり今回参考になったのは、私の指導教官の文体です。本文は全部彼女に書いてもらうというおんぶにだっこ状態で、しかしだからこそ非常に勉強になりました。(私の修士論文は、「自分自身の英語で丁寧に書かれているのは好感が持てるが、やはり読み難いことも否めない」という非常にビミョーな評価を得ていたのです。)

彼女は、私の修士論文の論旨を一度もねじまげなかった。私の元々の書き方はもう少し曲がりくねっているのだけど、彼女独自のスタイルにうまく取り込んでもらった感じがする。やわらかく、気配りがきいていて、しかも強硬かつ過激に批判を展開する言葉づかいだ。

私が本来それほど自分が得意ではないことに何とか挑戦して書いた修士論文だった。ほとんど指導を引き受けない彼女が、これは私が見るから私の所に来なさいとわざわざ直接言いに来てくれて、もう私はギリギリの一杯一杯で、何とか仕上がった論文だった。これをどう受け止めて、次をどうするのか、私は10年経った今もまだ試行錯誤を続けている。

lunes, 15 de octubre de 2012

死の匂い

「うちのおばあちゃんはね、自分とこで食べられないものが好きなんだよ」と娘が言うので、サバロ(sábalo)という低地から運んでくる魚を買って、小麦粉とほんのちょっとのトウガラシ粉で揚げて、皆が大喜びだ。お裾分けをもらった猫と犬も大喜びだ。このおばあちゃんは、「死んだら何も持って行けないが、食った物だけは自分と一緒にあるだろ」というのが口癖で、その通り、日曜日に美味しい昼ご飯を皆が揃って食べると、何もにも替え難い満足感がそこに生まれる。

もうすぐボリビアも死者の日(Todos santos)が近付いてくる。

死の匂いというのが、濃くなったり薄くなったりしながら、そこにある。濃くなってくると、いたたまれないような気持ちになる。いつまで続くのかもわからない今がまだそこにはあって、そして本当のその瞬間にはそこにいられないかもしれないという思いが追い打ちをかける。生きていくこと自体が本当に本当に大変で、そして全ては取り返しがつかない。

domingo, 2 de septiembre de 2012

振り返って、先を見て、自分の道を歩く

私も編集に協力した雑誌Historia oral: Boletín del Taller de Historia Oral Andinaの第2号がボリビアのラパス市で刊行されました。

この組織のメンバーと知り合ってからは既に約10年近くになっているのですが、これだけの時間を経てやっと一緒に何か仕事をするという所まで来れたという感慨があります。私は途中にある論考一つと、実は巻末にあるアイマラ語原文とスペイン語翻訳の二言語対照テクストの校訂と翻訳を共同で行っています。

私の論文自体は、昨年のTHOAの創立記念日の記念イベントで話すよう依頼されて、そのために作った原稿が基になっています。現在作業中のアイマラ語のオーラルヒストリー文書の分析の取っ掛かりと、THOAとアイマラ語の未来を展望せよという依頼の、二つの目的の合体技の文章です。分析自体はまだ継続中で、いずれ進展したバージョンを発表することになりますが、長丁場の作業になるので、まずはこの2011年時点で考えていたこととして貴重な記録になっていると思います。
(ただし、アイマラ語からの分析も、もう一段言説分析に踏み込んだ部分も、まだまだ未熟です。)

論文は、(私の場合)そこで扱っている具体的なテーマとは別に、誰かに対峙しながら書いている。私はこの10年間、師匠のシルビア・リベラ・クシカンキという社会学者の思考に、魅了され、圧倒され、そしてどうしていいのか分からなくなった。そういうことと離れて自分だけの研究をするということが、私にはどうしてもできない。

<新しい領域を切り開く>というのは独特の才能だ。その際には、軋轢が生まれ、自分は矛盾を抱え込み、何かが現実とずれて、そして周りの人々とずれて、それでも感じよう生きようとする力強さで、周りを引き込み引っ張り、時代全体を動かしていく。私の師匠は、そういう強い個性を発する人だ。

私は、どうもそれができない。でも、私の師匠の思考は長い年月を通じて彼女の声とともに私の身体に染みついた。時代を引きずらなくても、一人でも、もっと違う形で、周りの空気を独特に震わせ続けることはできそうな気がする。

とても不思議なところにやって来た。呪術師の知を含めたアイマラの先住民主義(インディアニスモ)が色濃く漂う集団の中で、なぜかアイマラ語が出来る方に自分が位置付けられるようになり、気が付いたら越えたいと思っていた線を越えて、そして遥か彼方へと途方もない領域に入り込んだ。

師匠と同じ所に論文を載せることができたのは幸せだし、アイマラ語で仕事ができる現状が嬉しい。私はこれを何とかして守り抜かなければいけない。



Historia oral: Boletín del Taller de Historia Oral Andina, no.2

Índice


Presentación

HISTORIA ORAL
Entre el pasado y el presente: La memoria oral como estrategia metodológica en la reconstrucción histórica (Pedro Velasco Rojas)
Historia oral y testimonio: Un análisis comparativo (Lucila Criales Burgos)
Historia oral: La oposición a la historia tradicional (Álvaro Linares Salinas)
Historia oral: Forjando y definiendo identidades (Filomena Nina Huarcacho)
Retomando la historia oral de Santos Marka T'ula y de los caciques apoderados (Mamoru Fujita)

MEMORIA
La "amxasiña" como la memoria cíclica: La importancia de los iconos, tejidos, y los audiovisuales en la historia oral (Cristóbal Condoreno Cano)
MITO E HISTORIA
Mito, olvido y trauma colonial: Formas elementales de resistencia cultural en la región andina de Bolivia (Silvia Rivera Cusicanqui)
El mito de "Chuqil Qamir Wirnita" como la retoma del territorio indígena (Rodolfo Quisbert Quisbert)
El mito de Chuqil Qamir Wirnita y Santos Marka T'ula (Manuscrito compilado por Tomás Huanca)
Chuqil Qamir Wirnita contada por la doña Catalina Cuyabre (Entrevista realizada por Filomena Nina Huarcacho)

下の写真が今では希少品となってどこにも見つからない第1号です。

jueves, 30 de agosto de 2012

「在野の思考」と関わる

ボリビアで歴史学や人類学に関わっていると(注:ここで歴史学というのは先住民の入っていない伝統的な歴史学ではありません)、日本で「在野」と呼ばれるような世界とどのように関わるかに、頭を悩ませるようになる。

今進行中の民族学年次大会(Reunión Anual de Etnología)というボリビアの人類学で最大の学会は、近年発表のレベルが落ちていると言われていて、確かにそういうところはあるように思う。ボリビアの「卒論」というのが日本の卒論よりも遥かに厳しい要求の下で執筆されるという違いを十分に考慮した上でも、やはり卒論がまだ通っていない大学生の発表には首を傾げるものがあるのも事実だ。

しかし、人類学や歴史学が少数の外国人研究者とそれとつながったボリビア人研究者だけで行われていた「少数精鋭」の時代がかつてあったとすれば、現在は学問の「大衆化」が起こった時代だ。ラパス市だけではなく、エルアルト市にも大学が出来て(エルアルト公立大学UPEA、タワンティンスーユ先住民大学Ajlla Uta)、多くの問題を抱えつつも、歴史学を、人類学、社会学をしようとする人の裾野が大幅に広がったのが今の時代だ。

そうすると、方法論的には極めて怪しい思考も跋扈するようになる。怪しい語源解釈、怪しい類推(アナロジー)などに満ちた議論。しかし同時にそれは、その社会を、その文化を生きようとしている人の実感が込められた議論であることも確かなのだ。学問の最先端とは離れて別の領域で蠢く猥雑で純粋な思考。それは呪術師たちと結びついた思考であったり、しぶとく生きる民間伝説の破片がそこに見えたり。

そういう思考たちは、学会の聴衆の中に、そして発表者の中に、そして何とかなり名の通った研究者の中にも姿を現す。

ボリビアでは研究者の発表に対してなかなかまともな質問・コメントが出ないと言われる。しかし、これは見方を変えると、我々は「在野の思考」とどのように対峙するかという厄介な課題に直面しているのだ。これを忌避して拒絶することも出来るが、そうではないとするとどうすればいいのだろうか。

かつて人類学(や他の学問)が「インフォーマント」と呼んでいれば、よかった時代があった。「土着の知識(indigenous knowledge)」として括っていれば、よかった時代があった。でもそのような時代が崩れ去った今、私たちの知識の紡ぎ方はどう変わっていけばよいのだろうか。

保苅実さんが遺著の『ラディカル・オーラル・ヒストリー』で提起した問題は、こんな形でも、研究する私たちを撃ってくるよ。

domingo, 26 de agosto de 2012

「本当のこと」を話さなければならない

今日の午後ずっと話をしてもらっていたおじいさんが、ふとした合間に、「嘘をついたらだめだ、本当のことをいつも話さないといけない」と(アイマラ語で)言った。私たちは小さな町の教会の前の広場のベンチに座っていて、ミサの直後で教会の扉が開いていたので、そういう発想になったのかもしれない。

でもこのおじいさんと私は、大昔は動物がしゃべったんだよとか、すぐそこの魔物が出るとされる場所で変な存在に遭遇した話を、それまで色々としていたのだ。つまり、これらのことは、全て「本当のこと」なのだ。

これを聞きながら私は、大江健三郎だ!と思っていた(注)。

(注)大江健三郎の最近の作品では、小説家である主人公が周りの人に「本当のことを書いてくれ」と迫られる場面が出てくるのです。

このおじいさんは「ちゃんとな、あたまに刻んで、よ~く思い出して話さないといけないんだよ」と僕に言う。「本当のこと」として、現実のこの世界に裏腹のように存在する世界が、作られて、語られていく。創られて、騙られていく。それが起こる場所に、その境い目に、自分を置こうとし続けられるであろうか。

口承の文学と書かれた文学をつなぐ、「本当のこと」と、「刻む」こと。このような経験は、いつも自分を不意打ちにして、何かを強引に開きに来る。

lunes, 20 de agosto de 2012

千速振る独楽の回転

『ちはやふる』の第17巻を読んで、どうやったのか知りたくなった。先に用意できていたのか?描いているうちに見えて来たのか?(それは多分ほぼ確実に後者なのだろう。)千早とつながっている中の、遥か先にある、途方もない新の世界を。

幾つもの読みが交錯して、絡み合って、そして先に進む。自分をゼロに戻しながら、しかしどうしようもなく自分のままで、先に進む。

まだその先があるということに、自分自身が励まされ、途方に暮れ、猛烈に嫉妬する。何にかと言うと、その欲に、そのイメージに、その世界に近づこうとする技術に。

domingo, 12 de agosto de 2012

フリをしないことのまっすぐさ

私のアイマラ語の先生のフアン・デ・ディオス・ヤピータ(Juan de Dios Yapita)に、私がしたアイマラ語のインタビューの書き起こしをずっと見てもらっている。

つたない私のアイマラ語の理解力のせいではなはだしい迷惑をかけているのだが、本人は喜んでいるよう。日頃、本当に言葉を大事に考える人というのは、案外少ないのだなあということを私自身が実感している中で、そういうことなのかもしれないなと思う。正確に書き起こすとか、丁寧に翻訳するという仕事を通じて、言語の一番大事なところに触れている。

それにしても、私には文化的な知識がもっともっと必要だ。元々のおじいちゃんの話を聞いていて、どこでつまづいたかというと、一つはチャマカニ(ch'amakani、「チャ」は破裂音)と呼ばれる文字通り暗闇で何かに憑依されるタイプの呪術師が出てきたところで、もう一つはコンドル人間(頭がコンドルで、鼻が鉤鼻で、翼をもっていて飛べる)が出て来て火をボワーッと吹いたところだった。一つ目は、僕自身がヤティリ(yatiri)という呪術師にしか会ったことがないという経験の狭さから、二つ目は、エンカント(encanto)と呼ばれる呪いにかかるパターンの僕の中での少なさが影響しているわけだ。

(ちなみに私のアイヌ語の先生の中川裕さんという言語学者は、文化的というか民俗的な知識にとても詳しいことに最初の頃びっくりしたのだけれど、そういうことなのだなあと自分で追体験している感じだ。)

今日、僕のアイマラ語の先生は、アイマラ出身の知識人の勉強不足をひとしきに嘆いた後に、「こういう言い方があってな」と教えてくれた―
(1)yatir yatir tukuña(知ったかぶりをする)
(2)qullqin qullqin tukuña(金持ちのふりをする)
tukuñaは「終わる、変身する」という意味の動詞なのだが、前の名詞を重ねることで「実体とは違うもののふりをする」という意味になるのだなあ。アイマラ語における繰り返しは、アンデスのスペイン語にもそのままの形がないので、いつもちょっと面白い。翻訳不可能性が顔を出すポイント。

「ふり」をしない謙虚さ、一番大事なところで言語と付き合う誠実さ。先生のありがたいところは、そういう態度から直に影響を受けられること。

sábado, 11 de agosto de 2012

沈黙を読む

コチャバンバから新作(注1)のプレゼンに出て来ている歳の離れた友人と夜遅くにカフェにいて、同席していたもう一人の人が、「次はね、詩の朗読を入れるべきだと思うんだよね」と自分の意見を言った。

友人はちょっと考えて、おもむろにペーパーナプキンに次の詩を書いて「はい」と渡した。「これ朗読できる?」

SILENCIO SILENCIO SILENCIO
SILENCIO SILENCIO SILENCIO
SILENCIO                 SILENCIO
SILENCIO SILENCIO SILENCIO
SILENCIO SILENCIO SILENCIO

私たちは二人で「ははあ~」と感心しながら、黙読の大事さを力説する友人に聞き入っていた。(注2)

家に帰って調べてみたら、これはボリビア生れのスイス人詩人Eugen Gomringerという人の作品なのだった。よく知ってるなあ。なんて書くと実は相手に失礼かもしれない。

友情の不思議さ、感情のしょうもなさ、熱をもってあふれ出てくる考え。アイマラの人たちと一緒にいる世界とはまた違う、もう一つの私にとっての大事な世界。文学、料理、演劇、古い都市の生活、小さく濃い自分の周りの範囲。


(注)Luis H. Antezana y Virginia Ayllón (guión y dirección). 2012. La ausencia de Adela Zamudio (CD-libro). La Paz y Cochabamba: Nuevo Milenio Editorial, CESU-UMSS y Revolver Publicidad.

(注2)原文は全て小文字で書かれているようだが、ここはそのまま友人が書いた通りに書き留めておく。

viernes, 10 de agosto de 2012

アンデスの織物と学術の遥かな高みと


私のアイマラ語の先生のグループの新刊が出て、今日はそのプレゼンだった。
Denise Y. Arnold y Elvira Espejo. 2012. Ciencia de tejer en los Andes: Estructuras y técnicas de faz de urdimbre. La Paz: Instituto de Lengua y Cultura Aymara.

アンデス諸国の、そしてアンデスの織物を扱う外国の博物館における、説明や陳列方法に大きな影響を与えるのではないかという前評判が高かったこの本。今日買ったばっかりなので、あくまでもプレゼン自体の感想として書き留めておきたいことがあった。
(わたしは実は織物のことは殆ど分かりません。その上でということでの考えたことです。)

アンデスの織物を芸術(arte)ではなく科学(ciencia)としてみるところには、おそらくテレサ・ヒスベルト(Teresa Gisbert)に対抗した自分たちの方法の位置づけがあるだろう(メイン・タイトル)。しかしながら、それ以上に衝撃的だったのは、副題の「構造(estructura)」と「技術(técnica)」について、Deniseが、アンデスの用語に基づいてその理解の中身を完全に塗り替えたと発言したことだ。それはもちろん、ケチュア語とアイマラ語の理解に基づくということだ。それは人類学の仕事の本流であるが、目指すというのを越えてそれをやったというのは、そう簡単に言ってのけられることではない。背筋に戦慄が走るような感覚を味わう瞬間だった。

安易な全体化に対して強い警戒がなされるこの時代に、それでもアンデスの織物文化全体を体現してしまうような、そういうことがある。私と同世代のElviraは、自身の出身地域であるオルーロ県とポトシ県の境界地域の織物にとても詳しくかつ上手で、絵も描き、歌も歌い、詩も書く多彩・多才な人なのだが、文献上現代のものとされていても実はとうの昔に存在しなくなっていた幾つもの織物の技法を、説明や考古学的資料だけを頼りに、三年間にわたって自ら再現しようと格闘を続けたという。

織物の人類学的研究が、ケチュア語とアイマラ語が使えるだけでなく、自分でやってみるということを含めてはじめて成り立つようになった、非常に重要な瞬間に私は立ち会っているのかもしれない。

研究者の知り合いの中で、同時代を生きていても実際に会って会話することよりも時折発表される仕事を通じて大きな影響を受けることがあって、この人たちの仕事は私にとってそういう意味合いが強い。私のもう一方での師匠のシルビア・リベラ・クシカンキが、この社会をどう自分が生きていくかという批判的実践精神に貫かれているとするならば、Deniseのグループの仕事は学術の遥かな高みを踏破し続けていて、逆説的にそれによって極めて現実に役立つ仕事になっている。

外から見ているのではなくて、自分がこの遥か先を進む人たちと同じ集団の中にいるようになって嬉しいと思う、そういうある日の夜の催しであった。

martes, 7 de agosto de 2012

聖人(聖子)の下で踊り続ける悪魔の群れ?

El ñiñito San Salvador de Mecapaca

毎年8月6日は、メカパカ市のサント(守護聖人)サンサルバドールのお祭りだ。この日は同時にボリビアの独立記念日でもあるのだが、メカパカ市は独立記念日の市民パレード(desfile cívico)を前倒しして、6日はお祭りという日程をとっている。

小さな町の狭い路地に、バンダ(金管楽隊)の短調の不協和音がこだますると、地中の世界(manqha pacha)から悪魔(diawlu)が湧き上がってくるような感覚に襲われる。町の広場を取り囲む空間がその性格を変えて、取り囲むアンデスの山々を、そして真っ青な空を、自分の身に感じる。気合いを入れて(con ganas)、何かに取り憑かれたように、私たちは踊り始める。

教会の高台に聖人が陣取り、その下を異形の者たちが踊りながらうごめいている。これはまるで私たちが悪魔の群れではないか。

うごめく悪魔の遥か上に聖人が位置を取っているとするならば、我々人間から見ると、カトリックの聖人も、アンデスの雪を抱いた山々(achachilas)も、そして大空を飛ぶコンドル(kunturmamani)も、全てが並列に並んでいいような気が、私もしてくる。

アンデスの人間の存在を悪魔の位置に見立て、そこから全てを発想していく。かつてはカトリック教会が先住民を下に見るために導入した考え方を、下に陣取って下から逆転させていくような、わたしの師匠(Silvia Rivera Cusicanqui)が提唱しようとしているそういう考え方を、踊ってきたお祭りであったことだよ。


追記(8月8日):友人に教えてもらったのだが、6月から聖人(サント)が連なって、8月のこの先から聖母(サンタビルヘン)の連なる季節になる。その間の丁度今くらいの時期に子ども(ニーニョ)が来るのだそうだ。なるほど。この場合は「聖子サンサルバドール」となるのかな。

domingo, 5 de agosto de 2012

挨拶をする街

ボリビアのラパスの街は、強引にまとめてしまうと、人当たりが荒く、ぶっきらぼうで、ゴツゴツしている気質がある。口が早く、どんどん文句を言って、人々の間の諍いも頻繁に起きる。

しかし。

この街でミニバス(minibus)や乗り合いタクシー(trufi)に乗る時には、運転手と乗客の人たちに向って挨拶をしながら中に入るという習慣がある。(¡Buenos días!)
(ここではミクロ(micro)と言えば大型バスを指し、ミニバス(minibus)と言うとハイエースのような小型の車を使ったバスを指すという、なんとも紛らわしいネーミングがある。)

食堂に自分が入っていったときには、周りのテーブルに座っている人たちに対して声をかけ、自分が出ていく場合も、同様に声をかける。(Provecho, o Buen provecho.)

アイマラの色が強い人たちとご飯を食べているときは、食べ終わったときに単にGracias.と言うのではなくて、片手を軽く上げながら一人一人の名前を呼びながらGracias mama Asunta, gracias Beatriz, gracias Yamile, gracias Santos, gracias Gabi, gracias Dani.と順々に挨拶を回していく。皆はその度ごとにProvecho.と返す。

こういう一つ一つの要素を天秤にかけて評価をするのは難しいけれど、これらの習慣があることが、この必ずしも楽ではない街で生きていくことに、ちょっとしたクッションになっていることは確かだと思うのだ。

PS ちなみに私は、口調が乱暴ですぐに文句を口に出すことは、ボリビアが、そしてラパスの街が経て来た革命と反乱の歴史をよく反映しているように思えて、必ずしも嫌いではない。疲れている時に直面すると更に疲弊することもあるけれど。

miércoles, 1 de agosto de 2012

ボリビア料理とリャマの肉

ボリビアとペルーの大きな違いとして、ペルーではアルパカの肉をよく見かけるが、ボリビアではリャマの肉がよく出てくるということがある。

もちろんペルーでもアルパカの比率が大きいがリャマも飼われていて、ボリビアでもリャマの比率が大きいがアルパカも飼われている。この比率は、よくペルーではアルパカ:リャマ=7:3、ボリビアではその数字が逆というのを聞く。ただおそらく、食肉として流通するという意味で、ボリビアで見かける肉はリャマの方が圧倒的だ。逆にペルーでリャマ肉の料理を見たことがない。

オルーロ地方の名物のチャルケカン(charquekan)という干し肉を炒めた料理は、牛肉でもよくあるけど、やっぱり本物はリャマかなという感じがする。

ラパス市からパカヘス郡など西のさらに高度の高い方に向かっていって、途中の小さな町で定期市などがあると、そこにはリャマのチチャロン(chicharron)というから揚げの屋台が出ているのを見かける。あの地方からのバスが着くエルアルト市の地区にも屋台が出るよと友人が最近教えてくれた。これもボリビアだとリャマのチチャロンだ。(全国的に広まっているのは豚のチチャロンです。)

もう一段進んだ食肉化の試みもあって、ラパス市の健康に気を使った食品を売るような店だと、リャマのソーセージを売っているのをよく見かける。

たまに臭みがかなり残っていることもあるみたいで、嫌いな人はとことん嫌いだけれど、私は実はかなり好き。ボリビア料理万歳!

lunes, 30 de julio de 2012

底の方の湖のほとり

自分がやっていることを維持しようとするだけで、疲労困憊してしまうことは、どんなに歳を重ねたとしても結局はあり続けることなのかもしれない。周りに人がいるのかいないのかすら、段々と分らなくなってくる。

このままではこの先に進めないことは分かっているし、「この先」というのが大体どっちの方角なのかも見当はついている。

だから、静かに、静かに、切り詰めて、整理をして、スリムにして、研ぎ澄まして、その向こうの遥かなものに向って自分を投げていくことくらいしかできない。

そうすると、もう一人の自分が「お前を待っていたよ」と言う。この場所はずいぶんと久しぶりだ。

sábado, 28 de julio de 2012

出会いものの料理

ラパスで一番好きな料理はと聞かれたら、私は迷わずワヤケ(ワリャケ、wallaqi)と答える。酒を飲んだ後に食べるにはフリカセ(fricasé)という豚スープなどもあるが(5月のエントリーを参照)、このワヤケも二日酔いに効く栄養満点だ。もちろん二日酔いじゃなくて普通の日でも。

この料理は、元々はボリビア西部の高原(アルティプラノ)のチチカカ湖の湖畔の村々の習慣だったはずで、カラチという骨っぽい魚とタマネギ、黄色トウガラシ、そしてコワ(quwa)と呼ばれるアルティプラノに生えている香草でとるスープなのだけれど、ラパスで食べる時にちょっと面白い発見があった。

私は自分でも市場で買ってきて作ったりするのだが、最初の頃、魚のフライを食べるウルグアイ市場(Mercado Uruguay)でおばちゃんと話しているときに、サバロ(sábalo)という魚の頭を一つか二つ買って入れるといいよ、と助言をもらったのだ。なかったら鱒(trucha)の頭でもいいと。

そういえば、私がよく行くロドリゲス市場(Mercado Rodríguez)のwallaqiの屋台でも、オプションとしてkawisa(頭)というのがあって、それはサバロの頭がついてくるのだ(上記写真、両側にいる小さい魚がカラチ)。他にもトルゥチャやペヘレイなどのオプションがあるのだが、このサバロの頭は人気が高く、これを目当てに来るお客さんたちもいる。

ははあと思ったのは、このサバロはボリビアの東部低地から届く、ちょっと泥臭い、でも脂身の多い魚で、確かにこれを入れるとスープに深みが出てくるのだ。これは国内の流通網の発達が可能にした、ラパスという都市での出会いものの料理だ。カラチとサバロが出会うことで、ワヤケという料理が一段また別の高みに到達するということなのだろう。レストランで食べるとかではない、日常の庶民の料理の中にこういう理屈を発見すると、ちょっと嬉しくなってしまう。

それにしても、私のよく行くこの屋台、ここは量を作るから、カラチやサバロに加えてトルゥチャやペヘレイも入れるから、スープの味がそれだけでとても美味しくなって、なかなか自分で作ってもこれに勝てない。すっかり常連さんになってしまった。

miércoles, 25 de julio de 2012

『アイヌ民族』副読本 修正問題(資料)

ここしばらく問題になり続けていた『アイヌ民族』副読本の修正をアイヌ文化振興・研究推進機構が決定し、執筆者らを含めた強い反対が表明された結果これが撤回された問題で、そもそもの修正箇所の一覧がインターネット上に見つからなかったのですが、ツイッター上で成田英敏@asirsoさんから丁寧な情報提供を頂きました。他の方々の役に立つかもしれないので、以下に転載します。
参考資料:
北海道新聞「アイヌ副読本 全面見直し撤回へ 推進機構」(7月25日)
北海道新聞「(社説)アイヌ副読本 混乱招いた定見のなさ」(7月19日)
北海道新聞「書き換え部分を復活へ アイヌ民族副読本 推進機構が陳謝」(7月17日)
アイヌ民族情報センター活動誌ホームページ

********************
副読本『アイヌ民族:歴史と現在-未来を共に生きるために-』修正表


〈中学生用〉
1.P14 [現行] アイヌの少年が注文したマキリ(小刀)のことで和人の鍛冶屋と言い争いになり、鍛冶屋がアイヌの少年を殺してしまったことである。
[修正案] アイヌの男性が注文したマキリ(小刀)のことで和人の鍛冶屋と言い争いになり、鍛冶屋がアイヌの男性を殺してしまったことである。


2.P22 [現行] 政府は蝦夷地を北海道と改称し、一方的に日本の一部として本格的な統治と開拓に乗り出した。 
[修正案] 政府は蝦夷地を北海道と改称し、本格的な統治と開拓に乗り出した。


3.P26囲み [現行] しかし、アイヌの人たちが北海道だけではなく日本各地に住むようになっているにも関わらず、この政策は国ではなく、北海道が行うため、これらの制度は北海道内だけで実施されるという矛盾を生んでいる。
[修正案] しかし、アイヌの人たちは北海道だけではなく日本各地に住んでいるが、これらの制度は北海道内だけで実施されている。


4.P28 [現行] 現在、日本国民には、和人、アイヌ民族、ウイルタ、在日韓国、朝鮮人、さらには世界の各地に出自を持つさまざまな民族が含まれている。 
[修正案] 現在の日本国民には、先住民族であるアイヌ民族や世界の各地に出自を持つさまざまな人たちが含まれているからである。


5.P42年表 [現行] 1854(安政元)年 日露和親条約締結 
[修正案] 1855年(安政元)年 日露通好条約締結


〈小学生用〉
6.P14 [現行] カムイは、日本語の神や仏のように、人間の上に立つ「えらい者」として、ただ「おがむ」というものではなく、いろいろな役わりを果たすために自然や物にすがたを変えて人間の世界にいるものだと考えていたのです。
[修正案] アイヌの人たちは、カムイは人間の役に立つために自然や動植物、物にすがたを変えて人間の世界にいると考えたのです。


7.P27 [現行] アイヌの少年 
[修正案] アイヌの男性


8.P34 [現行] 1850年ころ、北海道のほとんどの場所に、アイヌの人たちが住んでいました。しかし、1869年に日本政府は、この島を「北海道」と呼ぶように決め、アイヌの人たちにことわりなく、一方的に日本の一部としました。そして、アイヌ民族を日本国民だとしたのです。しかし、日本の国はアイヌ民族を「旧土人」と呼び、差別し続けました。
[修正案] 1869年に政府は、それまで蝦夷地と呼んでいた島を「北海道」と呼ぶように決めました。この時、北海道には多くのアイヌの人たちが住んでいましたが、政府はアイヌの人たちを「平民」として戸籍を作り日本国民としました。しかし、アイヌの人たちを「旧土人」と呼び差別的な扱いをしました。


9.P40囲み [現行] こぼれ話 
[修正案] 削除


10.P41 [現行] ・・・抗議してきました。アイヌ民族のうったえによって1997年に②だけは「アイヌ文化振興法」とよばれる法律になりました。 
[修正案] ・・・抗議してきました。1997年に②だけは「アイヌ文化振興法」とよばれる法律になりました。


11.P47写真 [現行] 写真3-14: 国連「世界の先住民の国際年」・・・ ・・・世界中の人が集まって話し合う場で、毎年多くの先住民族と会議を開いたり、文化交流を深めてきました。そして、世界70カ国以上・・・
[修正案]  写真3-14: 国連「世界の先住民の国際年」・・・ ・・・世界の国々の代表の人たちが集まって話し合う場で、毎年多くの先住民族が集まって開かれる会議に参加したり、文化交流を深めてきました。世界70カ国以上・・・

lunes, 23 de julio de 2012

「貧しさ」とお祭りで踊ること

実際に「途上国」と呼ばれる場所で人々と時間を共にする生活を始めると、まずは「貧しい」「貧困」というのが実はよく分からないのだということに気付いて、「途上国」とか「貧困」という考え方にとても慎重になる。人々はそれぞれの生活を生きているのであって、社会はそれぞれの理屈で動いている。これはフィールドワークに近いことをやる人々が通る通過儀礼のようなものだ。(そしてその過程で段々と他の人たちと話も意見も合わなくなってくる。)ただそれでも…。

うちの家族の長女は、去年からエルアルト市で、北部パンド県のコビハ市やベニ県のリベラルタ市を中心とする低地との間の長距離トラック輸送の世界で仕事をし始めた。最初働いていた会社があまりにきつくて、若い人たちだけで独立して、仲間割れして喧嘩別れをして、ほぼ一人で色々と調整をしたりして、そのうち最初の会社のライバル会社に雇われて今に至る。長距離トラックの運転手たちは勿論一筋縄ではなく、喧嘩腰で荷物と出発の調整をしなくてはならない。たまに顔を見に行くと、ご飯を一緒に食べていてもひっきりなしで携帯が鳴り続けて、この子は怒鳴り続けている。

元々喧嘩っ早い、性格の強い子だったのだけれど、家族のうまく行かなかった、自分の人生のうまく行かなかったあれこれとその割り切れなさを、そういう世界に対してぶつけているのかなと思うことがある。

今日はその子の誕生日。元々子どもたちの誕生日を忘れることで評判の悪い私が、今年だけはちゃんと全員お祝いしようと思って、ケーキは自分が用意をして、帰れたら帰っておいでと伝えておいた。直前になって「仕事でちょっと困ったことになっていて、一時間遅れるけど必ず帰るから」と連絡が来て、そしてその後に電話がまったくつながらなくなった。この家族の家はラパス市内でも治安のよくない地域なので、「あとで楽しむんだよ」と言い残して先に帰って来た。

一番下の子はひどい風邪を引いていて、お母さんは過労も響いて慢性的な体調の悪さだ。

そんな中で、私は週末に友人の村の祭りに行って、モレナダ(morenada)と呼ばれる踊りを踊ってきたのであった。

うちの家族は祭りで踊ったことのある人がまったくいない。それはもちろん衣装代や参加代が払えないからだが、それだけではなくて、下に見られるから社交とか親戚づきあいとかに積極的にならないという面もある。私がお祭りとか踊りとかにあまり研究者としても積極的になれないのは、やはりそこから排除されている側にいることが多いことと、強くつながっている。そんなこと言っている場合じゃないよという感じが、やはり自分の根本にある。

(これは広い意味で、貧困を「社会資本(social capital)」の欠如としてとらえる考え方を、実地でいっていることになる。)

それでも、今年僕が踊ることを家族の皆が楽しみにしてくれているから、もう一度踊るけどね。見に来てくれるならば、それは嬉しいよ。


お話の遠くこちら側で

週末に友人が住む村のお祭りに行っていて、そこに料理の手伝いに来ていたおばあちゃんとの間のやり取りに、印象的なものがあった。

私はもともと口承文学(お話)に興味を持っているので、「ここではどんな話が話されるの?(Kuna kuñtunakas utji akanx.)」と聞いてみたら、要は「知っているけどお前には話さないよ」と言われたのだけれど、その時に実際には
Janiw intintsmati, janiw kuntistsmati.
と言われたのだ。

制度的なものをバックにせずに、訥々としたアイマラ語で、日常生活の中でお話を聞くのは、実は非常に難しい(はず)なので、断られたこと自体はとてもよく分かるのだけれど、このおばあちゃんの答えは実に深い言葉であるように私には思えた。

これ実はアイマラ語の動詞は両方ともスペイン語起源で、intintiñaはentenderから、kuntistañaはcontestarから来ているのだけれど、大体「お前には分らないだろうし、言葉を返すこともできないよ」と言っているのだ。ちなみに末尾の-tiが否定で(この場合途中で-k(a)が省略されている…全部ちゃんと言うと例えばintintksmatiとなる)、-smaはdesiderativoと呼ばれる推量の意味と可能の意味を両方持つ接尾辞の2人称の形だ。

(-smaは実は現在/過去形の1→2相互行為人称(私があなたに)でもあって、このおばあちゃんはスペイン語を話すときにほぼすべて3人称で通すので、その直前にこのスペイン語の話は誰のことなのだろうとしばらく悩んでいた私は、ここでもこれは私のことを言っているのだとちゃんと気付くまでにしばらく考え込んでいた。)

ちなみにあまりに考え込んでしまって、その後に直接「どういう風に言葉を返せばいいのかな(Kunjams kuntistañaxa)」と無粋なことを聞いてしまったら、ちゃんと答えてくれて
Aymarat parlaña, janiw kastillanuta.
と言ってくれた。これは「アイマラ語で話さないといけなくて、スペイン語ではダメだ」ということ。

ここまでお互いに一応アイマラ語で話しているのだが、もちろんそういうことではない。私のアイマラ語の水準と、よそ者のステータスと振る舞い方が組み合わさって、これはアイマラ語で話していることになっていないのだ。

(1)そんなに簡単に人に話すものではない。
(2)お話は対話の中で聞いていくものであって、うまく受け答えができないといけない
(この二番目の点は専門的にはMannheim and van FleetによるAmerican Ethnologistの論文で指摘されています。)

だからお話のアイマラ語は、言語の技術と本人の思いとが合わさった、大事な大事なアイマラ語なのだ。私がいつも教わったりしている渓谷部よりも高原部の方がハードルが高いような気がするけれど、私は何かから遠くとおく離れた所で何かをかすっているだけなのだ。話をしてもらっていると、話をしてもらえないことを忘れ始めるが、話をしてもらえないことの方が本当は大元にないといけない。そうしないと「いま」を見失ってしまうような気がする。

別々の山が司る領域

ペルー南部からボリビア西部にかけて形成されているアルティプラノは、文字通り(alto y plano)には「高原」なのだけれど、実はそれほど平らなわけではない。エルアルト(El Alto)市(高度4,100m)からビアチャ(Viacha)市を通り抜けて、SOBOCEのセメント工場を右側から回り込むように入っていく街道に入ると、しばらくしたところからぐんぐん高度を上げていく。ティワナクの遺跡からペルー国境のデスアグアデロ(Desaguadero)市に向かう街道も、エルアルトを出た所で切り通しのような場所を通るので、そういうことかと思ったら、さらにぐんぐんと上っていく。

天井に荷物満載かつ人も満員の何十年前に造られたかというようなメルセデス・ベンツのバスは、喘いで喘いで走る。同行している友人は道端の湧水の場所を正確に知っていて、そこでとまってボンネットを開けてモーターを冷やす。

そのうち、"Apachitankasktanwa"(我々はアパチェタを通っているよ)と友人が回って来て耳打ちをしてくれる。小高い所が聖なる場所(アパチェタ)になっていて、これ自体ぼくはそれほどよく分からないのだが、十字架が立っていて小さな祠のような場所が作られている。前後を見渡してみてハッとする。後ろにはイリマニ(Illimani)とムルラタ(Mururata)の山々が遥かにエルアルトの向こう側にあり、前方にはサハマ(Sajama)の山がその特徴的な形で遠くに雪を頂いて見えている。ここからパカヘス(Pacajes)郡に入っていくのだけれど、そうか、ここは別々の山が司る領域の境い目なのかと気付いて、しかもその峠だけは両方が見える特権的な場所だけに、その重要さは身に染みて感じられる。
(後ろ側にはワイナ・ポトシ(Huayna Potosí)の山もあるのだが、たまたまそれは見えなかった。)

地形が複雑なアンデス地域では、新しい場所を知ると、そしてそれをそこに住み続けている人とともに知ると、ハッとするような地形の感覚が身体で獲得されることがあって、これはまたその一つであった。

miércoles, 20 de junio de 2012

ペルーのクスコ市の交通整理

横断歩道を渡らないとしばかれます。

"Respete el crucero peatonal."
横断歩道を尊重しましょう。

"Utilicemos el crucero peatonal."
横断歩道を使いましょう。

PS 私は本当に通行人が鞭で威嚇されているのを見ました。

domingo, 17 de junio de 2012

日曜日のご馳走昼ご飯

1.ワティヤの季節

家の外で下の写真のように火が焚かれています。これはワティヤ(wathiya、huatia)の準備をしているところです。ワティヤというのは、「石焼き芋」ならぬ「土焼き芋」で、南アンデスでは乾期に入ったこの時期からがワティヤの季節になります。サクサイワマンの遺跡にインティライミの踊りの練習に行ったうちの家族の娘は、遺跡の周りがこのワティヤをする人たちで一杯だったと言っていました。

 
これは家の使わなくなった柱のアドベ(土レンガ)を少しずつ崩しながら、それを積み上げてワティヤに使っているのです。「ちゃんとした家に住んでいると、こういう料理が自分の家でできなくなるからねえ」と、みんなであばら家住まいを称えながらの料理。

横ではジャガイモが待機中。これはマフティーリョ(maqt'illo、「フ」の音は喉の後ろの方で発音)という種類。だいたい一時間は火をがんがん焚き続けて、土と石を熱し続けます。

十分に熱せられたら、このかまくらのような構造の上を崩しながらジャガイモを入れていきます。土かけを崩しつつ、ジャガイモを入れつつの繰り返しです。

ジャガイモを入れたら、上の土レンガを崩して細かくしていって、万遍なくジャガイモがおおわれるようにします。その次に、周りの土を掘って、上にかけていきます。熱が逃げないようにということなのでしょう。

一時間ちょっと経つと、だいたい出来上がりです。本当はもうちょっと時間をかけてもいいくらいかな。ほくほくと美味しい、アンデスの土の中で育まれたジャガイモをもう一度アンデスの土に戻して焼いたジャガイモの出来上がりです。


2.その横で鉄板焼き

ワティヤを作っている横で、廃材バーベキュー(私の造語)の準備が進んでいます。その辺にある木片を割って重ねて、鉄板を熱します。

 
そして何軒か隣の店からチチャ(chicha、トウモロコシを発酵させて作るお酒)を買ってきてあります。肉を焼くときは、これが風味付けになります。

お肉には、トウガラシペーストとニンニクと醤油を混ぜたものと塩で下味をつけておいて、焼いている途中に、こうやってチチャとトウガラシを混ぜたものをふりかけてジューッと味を付けていくことになります。

3.まだまだもう一品

さらにもう一つの作業が同時進行中です。大好物のロコト・レイェーノ(rocoto rellno、トウガラシの肉詰めのようなもの)を作っているのです。

左側はニンジンとグリーンピースを茹でたもの。右側はブドウとオリーブを刻んだものです。

ひき肉とトマトとタマネギとニンニクを炒めて、圧力鍋の蓋をしてしばらく火を通しています。

これを全部混ぜ合わせて、ピーナッツを砕いてつぶしたものを入れると、詰め物の出来上がりになります。

ロコト(ペルーのはボリビアのよりも大きい)の中のすじと種を取り除いて、茹でたものに、詰め物を詰めていきます。

タマゴの黄身を除いて、白身を泡立てたものに、黄身を戻して小麦粉を混ぜたもので「蓋」をします。

これをフライパンで焼いていきます。
多分事前にすべてに火が通っていて、全体をタマゴと小麦粉ので包むようにするので、半分蒸し焼きのようになるのがポイントなのではないかと思われます。色が付いたら出来上がり。

4.そして出来上がり

全部を組み合わせて、日曜日のお昼ご飯の出来上がり。