viernes, 17 de julio de 2015

2015年度前半の授業を終えて

 大学で教えるようになってから、授業をどうやるかが主要な関心事の一つになり、せっかくなので考えていることを折に触れて書き留めておこう。(あまり褒められた行為ではないのだが、回収した後で授業評価アンケートのコメントに簡単に目を通しています。そうじゃないと数カ月経った後にやっと結果が帰ってくるので……。もちろん誰が書いたのかは分からないし、改竄はしておりません。)

 駒場のスペイン語中級は、接続法と再帰動詞に的を絞った授業。私の授業は、常に試行錯誤を続けていて、最後まで何かに辿り着きそうで辿り着かないままで終わるが、 それ自体がスタイルだと言ってくれた学生がいたのも有り難かった。後期課程は担当するのか、次の学期は授業を持つのか、スペイン語を続けてみようと思う、学生たちのそういう言葉のそれぞれをとても嬉しく思う。駒場の授業時間が1コマ105分になったので、途中休憩を挟み前半後半に授業を分けた。それ自体はおそらくいいのだが、やり方があまりにも場当たりだった。そもそも90分の場合でも2部に分けて、それぞれをはっきりと設計できるくらいがいいだろう。また、学生の授業への参加の形態をもう少し事前に考えて設計できるといい。この中級の授業では目標・活動を複数系統立てていて、スペイン語史に関するリスニング読解の取り組みは途中で挫折したのだったが、むしろそれを続けて欲しかったという声が多かった。スペイン語史、面白いよね。わたしも勉強をつづけながら、これを組み込むのをまた模索してみよう。また今回は、文法と創作の作文とを合体させたが、将来的には具体的なテクストを検討しながら学生にも創作してもらうという形を取ってみても面白いか。

 駒場の2年生の必修スペイン語講読は、カリキュラム改正で今年度が最後の授業になる。ただし、私は今年度に担当するのが初めてであった。現状の最大の問題点は、1年目が終わったところで学生が(かなり極端に)二極分化していることが多く(これ自体が大問題だ)、それをそのまま引き継がないといけないことで、2年目の語学の授業を必修から外すのは正しい方向なのかもしれない。(あるいは慶應の湘南藤沢のように、取る前提として課題への取り組みと試験への合格を課すかだろう。)また、駒場は1年目の教科書と2年目の教科書の間に、あまりにも大きなギャップが存在することで悪評が高く、その間を何とか埋めることを試みたのだが、あまりうまくはいかなかった。(ただし、一部の学生たちからその部分を評価してもらえたのは、それはそれとして嬉しかった。)これは駒場の昔からの語学教育の伝統が、悪い形で残存しているのだと思うが、それはある意味一足飛びに大人になろうとしていた昔の日本社会の反映であって、現代の語学教育ではもう成り立たないのだと私は思う。そんなこんなではあったが、それでも楽しんで新たな可能性を見出した学生がいるのは、とても心強かった。下のエントリーの「楽しさ」発言が出たのは、このクラスからであった。

 神大の2年生のスペイン語演習(講読)、珍しく昨年度からの持ちあがりで、選択必修なのだがかなりの数の学生が去年からの継続だった。神奈川大は2年生に上がるときに学生の雰囲気がかなり変わるが、そこを越えて、そして様々な学生と話しながら今学期の授業ができて、今学期はとても楽しかった。何人かにはすごくできるようになってもらいたいし、できるだけ多くの人にはいてよかったと思ってもらいたいし、暗中模索している人が次の一歩を取りあえずやってみるという過程には寄り添っていたいと思う。

 駒場の1年生の初修の授業は、案の定というか、進みが速すぎるというブーイングの嵐だ。まあそうだよねえ。(私自身は、この点について、今回のカリキュラム改革でもう授業時間数が限界を越して少なくなってしまったので、インテンシブとそれ以外で進度を分ける仕組みをスペイン語も採用すべきだと思っている。)ただ、この教科書をどう使えば・補えばいいか私のアイディ ア(配布教材)を、1列と2列という系列を越えて活用してくれた人たちがいるというシグナルが今年も送られてきたのは、ここを担当する醍醐味だ。これから先も、この手のスペイン語の初級の授業を続けていくとすれば、例文を私自身が自分で探し、作る、そしてそれとつなげて「地域研究のスペイン語」をいかに(半分雑談と重ねるようにして)組み込んでいけるか、ということになりそうだ。ラテンアメリカについての雑談が面白く、もっとしてほしいという声も複数あった。現在、駒場で作成が進んでいるスペイン語の新しい教科書では、いかに従来のスペイン語教科書の「使い回し」例文から脱却するかが、執筆者の問題意識の重要な柱となっているのでもあるが、それは自分ひとりでもやり続けるべきだろう。また、学生の中から、文法(一列)や講読(二列)の授業だとしても、語彙を体系的に構築する取り組みをもっと積極的にやってもいいのではないかという意見が出てきたのは、ちょうど石橋純さんからもそういう話をされていたところで、本当にその通りだ。

 今年は、不思議な機会が次々と可能になった年でもあった。PARC自由学校からのお招きで、金曜の夜に隔週で南米アンデスのアイマラ語の講座を開講中で、太田昌国さんの基調講義に続いて、語学の講座を三回やって夏休みとなった。今年度後半からは、慶應大学の湘南藤沢キャンパスで、私が担当する研究会の一つをアイヌ語とアイヌ語の口承文学にして、皆で一緒に勉強しようという形で設定している。何かをやっていると思いもかけない新しい展開があるね。今年度後半から、全体の私が担当する授業の構成が一新して、また新たに苦しみ模索することになるが、それもまたありがたい新しい機会でもある。

miércoles, 15 de julio de 2015

愉しそうであること

学生に言われて自分の考えが少しずつ変わっていく、ということはあるもので。

私は以前、「研究の話をたのしそうにする」という評価をあまり気に入ってはいなかった。自分を研究へと突き動かす動機は、もっと暗いものであって、そういうことじゃなくない?と思っていたのだ。

しかし、ある学生さんが、スペイン語をしゃべっていたり、スペイン語について話しているときの私がたのしそうでいいなと思ったと言ってくれたのは、一瞬面喰らったのだが、後から嬉しくなった。そのように外から見えているとすれば、何か繋がって広がっていくことに向かっているだろう。そうであるといい、とはむしろ思う。

微かな希望へと手を伸ばそう

何かがあったときに身動きが取れないほど予定が詰まっているのは、やはり間違っているのかもしれないと思いつつ。

「教室」という小さな小さな空間で、私が取り組んでいることが、遥か彼方で何か、もう少しましな何かに繋がってほしいと、微かな願いをそっと先の方へ先の方へと差し出したい。