lunes, 28 de mayo de 2012

菖蒲の二花三株生け


珍しいことに二週連続で菖蒲をできたので、二度目はほぼ自分一人で葉組みをすることができた。等々力の花屋さん、がんばってくれてありがとう。

今回、二つ他の会の社中展を見に行くことができた。宇田川先生の所(理恩会)は、小品がとても品がよく、また南天を生けていた名前を忘れてしまったどなたかの作品が素晴らしかった。千羽先生の所(松應会)は、伝承花の厚みが刺激的で、足や枝先の細かいところまで心配りの行き届いた展示だった。ただ、なんか全部の花が家元が生けたような形をしていた。

lunes, 14 de mayo de 2012

雲の中で

白にはさまざまな色があって、雷も走れば、うすくうすく青が見えてきたりもする。

viernes, 11 de mayo de 2012

アンデス諸国の左派政治とボリビア

ここ二日間、ボリビアでは、FES-ILDIS(Friedrich Ebert Stiftung - Instituto Latinoamericano de Investigaciones Sociales)の新刊を記念したイベントが続き、それを聞きながら、色々と自分の中での着想をメモしていた。

ちなみにプレゼンがあったのは、一つはNueva Sociedadの最新号(¿Qué nos cuenta América Latina?)。(リンクはその時点での最新号のページに飛びます、過去の号も含めて全論文がPDFで入手可能。)

もう一つは、以下のベネズエラ、エクアドル、ボリビアの三カ国の民主体制の情勢推移を検討する文献。(リンクからPDFがダウンロード可能)
Anja Dargatz y Moira Zuazo editoras. 2012. Democracias en Transformación: ¿Qué hay de nuevo en los nuevos Estados andinos? La Paz, Quito, y Caracas: FES.

(1)我々は「ポスト新自由主義(pos-neoliberalismo)」の「ポスト」が依然として何なのかが分からない時代を生き続けているというPablo Estefanoniの指摘は、ある所までその通りだと思う。彼は現在のアジェンダを再分配とある種の社会的連帯の組み合わせとして表現していたが、それを聞かずに後で到着したRebeca Delgado上院議長(MAS)が再分配と社会的包摂と表現したのは印象的だった。

これは言い換えると、1990年代以降の左派アジェンダと変わるところがなく、MASが政権に就く際に提示したビジョン(多民族国家、アンデス・アマゾン流資本主義、よき生活(suma qamaña)、脱植民地化など)が、結局それ以上展開されず、政権の要職に就く者たちにすら共有されていないということでもある。

(2)1952年の革命との連続性がより強く出るようになっているというFernando Mayorgaの指摘も、確かにその通りだ。左派というのは「ナショナリストの左派」であって、全体を支配しようとする欲望が強くにじみ出る中で、自治的なアジェンダが軽視され、そこにジレンマが生まれる。

Fernando Mayorgaは「ミニマリスト多民族国家(estado plurinacional minimalista)」と呼ぶが、(ア)多民族主義に向けた制度改革(先住民自治など)は極めて遅いペースで進んでいて、(イ)しかしながら全ての意思決定は、代表制民主主義と参加型民主主義(国民投票、社会サミットなど)と共同体的民主主義の三つのメカニズムの組み合わせとして行われるようになっていて、その複雑さを回避することはもうできない。ボリビアのTIPNISの件は確かにそういうことで、この見立てもとても参考になった。

最近の社会紛争から見て取れると私が思うのは、自治(autonomía、autogestión)を政権がアジェンダとして採用したときに、強行しようとするか、「放っておけ」と政権が手を引くかの、どちらかの姿勢しか目につかなくなったことだ。各社会勢力の担当範囲が全国レベルのアジェンダになってしまったときに、中央政府がどのような役割を果たすべきかが現政権には見えていない印象があって、放置プレイと誹謗中傷を通じた貶めと最後の場面での渋々の譲歩に終始している。これは国家と社会の関係という観点から、望ましいことではないだろう。

(3)Pablo Estefanoniは、多くの国で新たにlo nacional-popular(支配階層の一部が民衆層と組んだ形でのナショナリスト運動)が新しい政権をもたらしていることに着目するが、私にとって不思議なのは、ボリビアの場合にlo nacional-popularの発現としてエボ・モラレス政権が誕生したにもかかわらず、国家と社会の関係(例えば、弱い国家と強い社会)に結局変化が見られなかったというのが、2010年の途中から明らかになり始めているように見受けられることだ。現政権が変革の機会を逃して旧態回帰してしまったからそうなったのか、もう一段構造的な説明ができることなのだろうか。

フリカセ(fricasé)な日々

フリカセ(fricasé)という料理はラテンアメリカの他の場所でもそれぞれの形にあるようですが(キューバ料理にも確かあるような記憶があります)、ボリビアのフリカセは豚肉(ときには鶏肉)を黄色トウガラシで煮込み、ジャガイモ類と一緒に食べるスープです。最近の私のフリカセの周りの光景を綴ってみます。

1.おうちのフリカセ

二つ前のエントリーの犬が見ていたのは、実はこの光景です。まずは豚肉とトウガラシに十分に火を通します。皮の部分が柔らかくなるまでが目安。手前で乾燥ジャガイモであるチューニョ(ch'uñu、「チュ」は破裂音)を水で一晩戻したものが茹でられてもいます。

その横では、隣の家の敷地から子供たちが摘んできたイェルバ・ブエナ(hierba buena、私はこれとミントの違いが未だによく分からない)とムティ(mut'i、「ティ」は破裂音)と呼ばれる茹で白トウモロコシがスタンバイしています。(mut'iはスペイン語しか話さない人はmote(モテ)と呼びます。)

その間にバタンではニンニクをすりおろして、次に硬くなったパンを砕いてパン粉を作ります。
やっぱりアンデス料理は石の力を借りた料理です。自分でも欲しいなあと思っていたら、「ラパスのMax Paredes通りのあの辺で売っているよ」と教えてもらう。でも手頃な大きさのものがあるかな。探しに行ってみよう。

イェルバ・ブエナが投入されるともう出来上がり。後ろではムティを再度温めています。

これが豚肉のフリカセ。私はもうこれが大好物。都市では一晩中踊りに行ったり酒を飲んでたりした人たちが朝に食べるものでもありますが、週末のお昼ご飯に作って家族で食べるちょっとしたご馳走料理でもあります。

今回はちょっとみなで奮発して鶏肉のフリカセも別の鍋で作りました。たぶんトウガラシの配合比を少し変えたりして工夫できるのですが、うちはもう目分量で、豚肉と一緒です。


2.ちょっと新しいフリカセ

さて最後に今日食べたちょっと工夫されたフリカセを。
ここまでの一ヵ月間、ジャガイモの原種を色々と使った昼の定食を出してきた、『コカ(Coca)』といううちの近所にあるお店が、コカのフリカセ(fricasé de coca)というのを試みています。これは普段赤トウガラシで味を調えるところ(注:上のフリカセでは、うちのお母さんはそれを省略しています)を、コカの葉のペーストとシラントロ(cilantro、コリアンダー)やアルバカ(albahaca、バジル)を配合したものを使って、緑色のフリカセを作ったものです。これも豚肉か鶏肉を選べて、普段とちょっと気が変って、これまた美味しい。

日常の中でフリカセが活躍し続ける中で、こういう創意工夫で作ってみる場が少しずつ生まれてきているのは面白い。ペルーでは創作アンデス料理は一つのジャンルになっていますが(nova cocina andinaというんだったかな)、ボリビアではそのような試みはまだまだ少ない。オーナーシェフのミルコさんの意欲作。
(この人、従業員の扱いがもっと上手になるといいんだけどなあ。)

domingo, 6 de mayo de 2012

「自分たちの政府」とは何なのだろうか?

イシボロ・セクレ先住民領有地・国立公園(TIPNIS)を縦貫する道路建設反対を巡る二度目の低地先住民行進(第九回低地先住民行進)以外はあまり国際的に報道されていないが、ラパスだけではなく他の主要都市も含めて複数の社会紛争が強硬姿勢を強めていて、現在ボリビア政府はとても厄介な状況に直面している。

医療関係者らは、勤務時間を6時間から8時間に引き上げようとするボリビア政府の措置に反発し、ハンストを含めたストライキを続けている。ボリビア中央労連(Central Obrera Boliviana, COB)は政府の再三の賃上げ提案を拒否し続け、また医療関係者に連帯して、今週水曜日から72時間のゼネストを宣言している。ラパス県運転手組合は交通規制を強めようとするラパス市役所の措置に反発して、今週月曜日から48時間のストを宣言している。

この状況は二つの側面で不思議である。先住民出身としてだけでなく様々な社会勢力の代表として大統領に選出されたエボ・モラレスの下でも、2010年末から抗議行動は再度非常に活発になりつつある。さらには、2010年末のガソリン価格引き上げの試みと、2011年にTIPNIS縦貫道路の建設を強行しようとして、大幅に下落したモラレス大統領への支持率は2012年に入って実は回復傾向にあり、しかしながら社会紛争がむしろ過激化しつつある。これらの点が同時に成立することに、現在のモラレス政権特有の状況が見て取れる。つまり、モラレスの代わりがいるとは現時点ではまだあまり誰も思っていないが、それでいて強い不満が生まれつつあるのだ。

これらの社会紛争は、一方では既得権益を各セクターが守ろうとしているという見方をすることが可能だ。しかし同時に、ボリビアにおける国家と社会の関係を考察する重要な糸口になっているようにも思う。

現状の苦境をもたらしたのは、モラレス政権の対応の失敗にもある。当初、高い支持率を背景に様々な抗議運動を抑え込めるとたかをくくっていたモラレス政権は、何度も打ち出した政策を撤回することを余儀なくされた。しかし、うまくかわして、あとから裏口を通じてこっそりもう一度、というのをTIPNISの件でやってしまったため(第八回低地先住民行進の結果一旦道路建設を禁止する法律を議会を通過させておきながら、道路建設に賛成するデモ行進を政府自らが後押しし、その勢いで計画自体を復活させ住民協議へと持ち込もうとした)、政府の中途半端な譲歩を社会勢力が信用しなくなり始めているのだ。ちなみに、紛糾したときは「社会サミット(cumbre social)」を呼びかけて、その結果をもって政権の課題とするという手段も、どうせ政権党MASの支持勢力の意向が反映されるだけだろうと不信の目で見られ始めている。

また、これは各セクター内部に属する領域について、政府がそれほど容易に自らの意向を一方的に押し付けることができないことを示している。これはよく外部の人が安易に考えるように法律を無視しているということではない。TIPNISの件も、実は医療関係者の勤務時間増大の件も(この部分未確認情報)、政府の措置は憲法の条文に違反しているという主張が可能であり、また全ての紛争が政府の法的措置を巡る紛争なのだ。むしろ、たとえエボ・モラレス政権であったとしても、ボリビア国家が社会において占めている正当性は極めて限られたものであり、各セクター内部の意向を無視して上から全体を牛耳ろうとすることは元来できないのだ。

自分たちの代表として選出されたはずの大統領が傲慢になるにつれて、これは自分たちの政府ではないという感情が生まれつつある。先住民の代表として選出されたはずの大統領が、コカ栽培農民の利害のみを代弁し、先住民を重視した措置を一向に採らないことで、これは自分たちの政府ではないという感情が生まれつつある。そして、たとえ政府であろうとも自分たちの領域を侵害してきたら強く反発する自治の意識が改めて強く発現しつつある。

ごはん、まだかなあ。


sábado, 5 de mayo de 2012

「世にも美味しいコチャバンバ料理は、すなわち世界一」

短いコチャバンバ滞在の3日目(最終日)。

ビックリするほど美味しいお昼ご飯を食べた。一緒に食べた人(昨日午後にお茶をした人)はピカンテ・デ・レングア(picante de lengua)という牛タンのトウガラシ煮込みが大好物で、美味しいお店があるよと誘ってもらって連れて行ってもらったのだが、トウガラシのソース(ahogado)が、もうウソみたいに味が引き立っていて(辛いというのとは違います)、牛タンの柔らかい茹で具合が丁度良い加減で(está a la punta)、切り方(corte)も丁度良い分厚さで、この世の中にこんなに美味しいpicante de lenguaがあるものかと、思いっ切り感動した。(しかもご馳走になってしまった。ありがとうございました。)

コチャバンバのプラド(Prado)通りを進むと川を渡る橋に行き当たる。その橋を渡るとスタジアムがあるが、それを通り過ぎると右側にタリハ(Tarija)通りが斜めに始まる。その通りに入って少し行った右側にある、ミラフローレス(Miraflores)という店だった。もっと街の中心に近い所にあったのが、客が入りきらなくなって外側に移転したということらしい。月曜日と火曜日が休み。1960年代からコチャバンバにあるお店のようで、既に亡くなった店の創始者の女性はピケ・マチョ(pique macho)というこれまた有名なボリビア料理の考案者であるらしい。(pique machoは、お酒を飲む時のガッツリ系おつまみというイメージがある…が、コチャバンバでは屋台でも食べられるなあ。)

ここで一緒に食べていた人の名文句が。「コチャバンバでこの店が一番だと思う、ということは、他にこんな店はないから、すなわちこの店が世界一だということだ!」。なるほど~。

そしてあまりに美味しい美味しい言いながら食べていたら、コチャバンバ料理に関するエッセイがあるよと教えてもらった。その名もLa crítica a la sazón pura(『純粋味性批判』?、出版はEditorial El Paísというボリビアの会社から)。ラパスの本屋で探せるはずだとのことで、楽しみだ。

食べた後に、楽しい気分になって色々と話を聞かせてもらう。歴史に関するもので、文学としても価値があるものをもっと読むといいよと言われて、Arsanz(これは実は幻の三巻本というのがある)、Gabriel René Moreno(Biblioteca Ayacuchoに入ったのはこの人が編集をした)、Querejazu、Tambor Vargas(独立戦争のゲリラ軍の行軍日記、Plural社で解説本も出ているらしい)などがリストアップされた。自分の好きなことを、権威におもねらずにやってきた人なので、一つ一つの話が面白い。

自分の職業への熱意(amor al oficio)があれば、どんなに資金的に窮した状況であっても、すごいことができるということを、スクレ市にある国立文書館を設立した歴史学者Gunnar Mendozaを例にとって説明される。人の話を例にとってくれたけど、僕はあなたもそうなんですよね、と思いながら聞いていた。大事なのは万遍なくやることではなくて、これとこれとこれという位に決めて、それをひたすら深めていく方向に行くこと。そうすると、そこから世界の先端へと出て行くことができる。それはこのコチャバンバ料理のお店も同じこと。ふむふむ。

自分に欠けているものを嗅ぎ分ける感覚も大事で、分かったら後からでも大学の場で授業とかで教えてもらうといいよと言われる。興味深かったのは、彼が独学「だけ」を勧めなかったこと。授業というのは元々の素材がそのままあるのではなく、それがエラボレーションを施されてそこにあることが大事なんだと言われる。その人は、自分に言語哲学が欠けていることに気付いた時の話をしてくれたのだけど、僕はそれは学ぶ側だけでなく授業をする側にとっても重要な視点だよなあと思いながら、その話を聞いていた。

jueves, 3 de mayo de 2012

歩きながら考える(その2)

コチャバンバ日記二日目。

昨年一度このテーマでエントリーを書いたことがあるのだが、今回も同じ人と午後にお茶をした。その人の家まで訪ねて行って、昼なお暗い室内は、まさに20世紀ラパス最大の詩人・小説家ハイメ・サエンス(Jaime Saenz)の著作の中身のようだ。
(「歩く、立ち止まる、話す、考える」http://lapazankiritwa.blogspot.com/2011/06/blog-post_11.html

大通りまでコーヒーを飲みに行こうと言って外に出る。久しぶりなので最近僕ははこういう仕事をしていて…とボツボツと話していると、家を出て角を曲がって三軒めくらい、急停止して、その家の門の大きな柱のところで、「ほらアンティゴネ―の話があるだろ」と言って考えながら説明し始める。

その前にお昼ご飯を一緒に食べていた、その人の年下のお弟子さん兼友人のような人(ちなみにすごく有名な政治学者)から、「あれはな、止まるタイミングが予測しにくいんだよ」と、この<コチャバンバの街路の博士課程>について色々話を聞いていたのだけど、まさに何度もこの「おっとっと」を繰り返すことに私もなった。二年前よりブレーキの精度が上がってないかい、おじいちゃん。

この人はT.S.エリオットの『荒地』とボリビアの1952年4月9日の革命を結びつける、極めてアクロバティックな読解を展開する論文があって(この人はボリビア最大の文学研究者です)、私はそれを読んだ二年前に文字通り震撼したのだけど、今日、あの見知らぬ家の前で、アンティゴネ―と20世紀前半のアイマラの先住民運動をまたいで、「ほらこれを共和国の法とするだろ?」と門の柱に図解してくれたことを、なかなか忘れることはできないだろう。

人と歩くというのは、考えてみると不思議なことだ。誰と、どういうペースで、何を見て、どのルートを歩いて、誰に話しかけ話しかけられて、どこで立ち止まるか。それだけで街は、まったく違った色彩で自分の目の前に姿を現す。

私自身の博士論文の理論的な部分で、二年前くらいから少しずつ前に進んでいる着想も、それをもう一つ前に進めるヒントをもらった。自分の思考が、そのように他人の思考を前に進めるような力をいつか持つことができるだろうか。

ぎこちないんだかウマが合ってるんだか分からない、この授業。明日もお昼ご飯を食べながら続けることになった。嬉しいなあ。今日のお昼はクレープ(ご馳走していただいてありがとうございました)、明日のお昼は牛タンのトウガラシ煮込み(picante de lengua)だー。

miércoles, 2 de mayo de 2012

基本に戻る―あるアイマラ語の言語学者の軌跡―

1.図書館で資料を読み進める

ボリビア中部のコチャバンバという街に、私が所属するカトリカ大学のBiblioteca Etnológica Boliviana "Antonio de la Calancha"というアイマラ語やアイマラ文化を中心とする資料が所蔵されている図書館を調べに来ています。期待したほどには新しい資料はなかったのですが、それでも知らなかった資料を読みながら考えを巡らすことは、いろいろと役に立つことを実感します。

この図書館が所蔵する珍しめの資料は、カトリカ大学の紀要Ciencia y cultura, no.27(diciembre 2011)に幾つか紹介されています。また、電子化も進められており、進んだところまでは以下のホームページで公開されています。)
(Biblioteca aymara: http://www.ucb.edu.bo/BibliotecaAymara/php/index.php

2.アイマラ語研究者Lucy Therina Briggsの生涯とエピソード

その図書館の資料に目を通しながら、考えていたことを。

アイマラ語をやっている人なら知らない人はいない、Lucy Therina Briggsというアメリカ人の研究者がいました。アイマラ語の方言研究の先駆者であり(先駆者というかその後に誰も出ていない)、かつ口承文学の分析や、様々な資料の発掘と注釈を付した出版に関わった人でもありました。1994年5月23日に死去していて、もちろん直接知り合いようはなかったのですが、私のアイマラ語の先生のJuan de Dios Yapitaがこの人の軌跡を振り返るような記事を執筆していたことを初めて知りました。(Juan de Dios Yapita. 1994. "Lucy Therina Briggs: Primeras y últimas palabras." Presencia literaria, domingo 16 de octubre, pgs.8-9.)

キューバで二言語の環境で育ち、ポルトガル語とフランス語と少しの韓国語を話すに至ったこと、最初は外交官として働きはじめ後に言語学者に転身したことなど、Lucy Briggsの研究者としての背景に新しい発見を見る思いです。

彼女は博士論文をスペイン語に訳し終えて、出版を何とか見届けて、その後比較的すぐに亡くなったのですが、病状が悪化してボリビアを去らないといけなくなった後に彼女から届いた手紙が、このように紹介されています。
Nos escribió, una vez, que sentía que la parte de ella que estaba enferma era la parte americana que hablaba inglés, pero sentía que la parte que hablaba aymara -y castellano- estaba bien de salud todavía. (pg.9)
(ある時我々に届いた手紙にはこうあった。彼女の中で病に侵されている部分はアメリカ人として英語を話す部分で、アイマラ語―とスペイン語―を話す部分はまだ健康であり続けていると感じられる、と。)

そして、彼女の書庫からは墓碑銘にと書き残してあったアイマラ語の断片が発見されます。(1976年9月18日の日付)
Jiwasatakix intix jalsuniw / Mantasinkakim utasakipiniw...
Akax Aymara arut qillqt'ataw / Tuktura Lusi P''iriksaw qillqt'i /
(Inas walichini) sasa.
(我々のために太陽が昇った/入っておいで、これは私たちの家にほかならない……
これはアイマラ語で書かれている/ルーシー・ブリッグス女史が書きつけた
「ひょっとするとこれがいいということになるかもしれない」と言いながら。)

彼女は、植民地期のイエズス会の宣教師で、アイマラ語の文法と辞書を著したLudovico Bertonioに親近感を持っていて、晩年にはBertonioのArte y gramática muy copiosa de la lengua aymara (1603)の注釈つき英訳に取り組んでいたという話です。時代を超えた親近感とつながりのネットワークが生まれていく、その一翼に私も加わりたい。

3.言語学者としての誠実さ・厳密さ

でもそこに一つ重要な問題がある。実際にLucy Briggsが書いたものを読むと、Bertonioにおいてはスペイン語の理屈がアイマラ語に無理に翻訳されることが続いていて、現代から当時の(=本当の)アイマラ語を思考しようとすることなどできないと、Bertonioについてほどんど役立たず扱いがなされているのでもあって、逆に言うと何が役立つのかが実は分かり難かったりもする。

これは一方ではとてもよく分かる。ひたすら外部から導入され続けるアイマラ語の形に対して、アイマラ語の単一言語話者のしゃべり方が持っていた繊細な柔軟性を知っている自分が、それを守ろうと思うのだろう。

でも同時に、植民地期や、非単一言語話者の思考の在り方を、それ自体を様々な背景要因と結びつけながら、それも一つの形の創発であるとしてテクストを分析するようなことだってできるはずではないか。ただしそこを並列で、しかも植民地主義に取り込まれてしまって人々自身の話し方が分からなくならないように仕事を進めていくことは、とても難しい。

でも、いずれにしても、彼女の分析を読んでいて、アイマラ語の表記に関してちょっと自分が間違った方向に行きかけていたことに気付いたり(アイマラ語における母音の長音化の厄介さを認識し直させてもらいました)、彼女の各種の場面でのアイマラ語テクストの分析の全体像をとらえ返さないといけないと改めて思わされたり、ある意味何度目かの<基本に戻る>過程を意識し直すことになりました。少し新しい風に当たりながら、元々の土台を確認して組み立て直していくような。