lunes, 7 de octubre de 2019

自分が主人公ではなくなった後の物語へ

私はかつて、『3月のライオン』で二階堂の扱いが少年漫画みたいで、中途半端なわき役になってしまっている、と文句を書いたことがあった。しかし、昨年に出た第13巻では、そこから見事に別の「少年漫画」へと、主人公の桐山零を脅かす別の物語へと、少年の冒険がそのまま死を予感させる閃光へと、作り変えられたことに目を見張った。ああこれは、描いてしまったら、物語が終わりへと向かってしまう、でもまだ終わらない、そのような一瞬が捉えられていたことが、とても印象に残った。

自分が物語の主役ではないことに気づいた主人公にとって、他の人たちが同じように輝きだし自分の物語を生き始めたとき、将棋の「目指すべき場所」はどのように変わるのだろうか。かつて土橋九段が宗谷名人との対戦で登場したときに、『ハチミツとクローバー』の最後にある「箱を開ける」主題が再び取り上げられた。そこで私は、そうか、ここで辿りついて、そしてまだ先に行くつもりなんだな、と思ってみていた。

そして、よく考えてみたら、もうしばらく前から、わき役の一人一人の物語がよく目を凝らすと、もう十分によく読み取れていたことに気づく。

だとすると、『ハチミツとクローバー』の登場人物たちが、いま生きている物語がまた別にあって、また新しいコミュニティの物語が続いているのだな、と思わされた第14巻でもあった。

 



 

domingo, 15 de septiembre de 2019

空から光の筋で読み解くアンデスの街道

クスコ空港を離陸したリマ行きの飛行機は、しばらくして右旋回してアプリマック川の筋を見ながら進むのが定番だったが、いつの頃からか、左旋回することも出てきた。夜にこのルートを飛んだのだが、光の筋を見ているだけで結構面白い。


左に90度ほど旋回したところ、後ろにクスコの街が明るく見えていて、手前に薄い光の筋が見えているのが、おそらく、パナメリカーナ(Panamericana)からクスコ市に入らずサン・サルバドール(San Salvador)という町を通ってインカの聖なる谷(El Valle Sagrado de los Incas)に続く道筋だ。


180度の旋回が終わってクスコ市と同じあたりに戻ってくると、そこから薄い筋がこちらに向けて伸びているのが見える。これが、クスコ市からインカの聖なる谷のピサック(Pisac)という遺跡の町に向かって伸びる街道と、それに沿った村々の灯りだと思う。私はこの道をもう何度となくこの20年間通ってきた。


今度は手前側に少し大きめの光の集積が見える。これはおそらくインカの聖なる谷の中心となる町のカルカ(Calca)やウルバンバ(Urubamba)ではないかな。
 

さらに進んでクスコ市を離れようとする辺りで、クスコから2本の光の筋が分岐していることに気づく。手前に来るのは、チンチェーロ(Chinchero)からマラス(Maras)を通ってウルバンバに至る、もう一つのインカの聖なる谷に向かう街道だ。向こう側はアンタ平原(Pampa de Anta)でイスクチャカ(Izcuchaca)などの町を経て、次の大きな街アバンカイへと向かうアンデス縦断街道だ。

自分が何度も通っている道筋を空から確認しながら、そこを通ってきた年月を振り返る。

アンデスを離れないといけないとき本当にまた戻ってこれるって思う?本当に確信をもって人々にそう言っている?と聞かれたことがある。そういえば、私の先生もそれに似たことをどこかに書いていた。私はそれを戻ってくると言うことで、次に進めることを具体的に考えながら別れてきた。それが私なりの倫理であったり、けじめなのだと思う。ほとんど狂気のように分裂した世界を、それでもまだ私は生き延びなければならない。

sábado, 14 de septiembre de 2019

アンデスの街と谷筋

アンデス高地にいると、山と谷の筋がどう走っているかに自然と気が向くようになるのだが、これはアンデスの街の中でもそうだ。

流れ下る水は街の中にも起伏を作り出す。街中では暗渠化されているようなこれらの水路は、その直前では地上に出ていて、そこで人々が集まって洗濯をしていたりもする。そういう場所に遭遇すると、「ここもそうだったのか!」と思い、起伏にとんだ街の成り立ちが目に入ってくる。このような谷筋が、街の地区の間の境界線になっていることも多い。

新しい街区が展開していく山の筋によっては、湧水が豊富にあり、街中なので既に飲料水には適さないらしいが、多くの家が水道水とは違う水源を自分の家に引いていたりするらしい。 下の写真のサルスエラ(Zarzuela)地区もそうだが、うちの家族の真ん中の娘が住み始めたアラワイ(Arahuay)地区(ここ10年くらいで、土地が占拠され、少しずつ街の姿をするようになり、数年前からバスの路線がそこまで延びるようになった)でもそうなのだそうだ。

かつて2000年にはボリビアのコチャバンバ市で水をめぐる外国企業との大きな紛争が展開したが、その一因には各家庭が水道水以外の水の使用を禁止されたことがあった。その背景には、アンデス高地独特の水の流れとその利用があることを、これらの街の地形はまた教えてもくれる。
クスコ市サルスエラ地区の脇を削っていく谷

ケチュア語モノリンガルの子どもたちと最先端の子ども向けアニメ

 
スペイン語との二言語化が進むアンデス高地の農村でも、いまだに子どもたちはケチュア語のモノリンガルとして育ち、後から学校などの場でスペイン語を身につけていくということが、指摘されている。私がなじみがある村もそうだ。

そこで先日、ちょっとおもしろい場面に遭遇した。幼稚園の授業自体はすべてケチュア語で行われるのだが、授業前の時間にスペイン語の子ども用番組を見せている。最初は何を言っているか分からないから、子どもたちもほとんど関心を示さないのだそうだが、だんだんと身振りと言葉が対応していることが分かってきて、それを通じてスペイン語を覚えてしまう。ほとんどの家にテレビは存在しない中で(皆が携帯は持っているのに!)、学校につい最近導入されたテレビとDVDプレーヤーは、子どもたちにとって、新しいスペイン語習得の場になっている。

この場合の『ドーラ』もそうだし、他には『ペッパー・ピッグ』もそうなのだが、子ども向けの教育アニメには最先端の教育技術が凝らされていて、これが多言語展開されていく。新しい時代の影響は、アンデス高地の村でもひしひしと感じられつつ、でも人々はケチュア語を使い続けるから、私は早くできるようになりたいと思って、努力をし続けている。




(注)一番上の写真で、私はこの間ずっと村の中を小川が流れているだけだと思っていたのだが、これはインカによって周到に流路が作り変えられているのだそうで、要所要所で向きを変え、くぼみができるようにし、そこを石で囲って、モラーヤ(ジャガイモの保存食、最後に水にさらす)を各家がそこで作れるようにしているのだそうだ。クスコ市内でカルメン・エスカランテ氏に教えていただきました。

jueves, 12 de septiembre de 2019

現場に足を運ぶことで

実際に他の現場に足を運ぶことで、それまでは読む中でしか知らなかった現実が、はるかな複雑さを帯びて感じられるようになってくる。そして本の叙述がいかに複雑なものであったかを、身に染みるように捉えなおす。街の小ささ、村との距離、近代化を経た後での「村」の具体的な姿、街中でどれだけ先住民の言葉が聞こえてくるか、村の人たちにとってのスペイン語との距離、人々の語りのたどたどしさと切実さ。もし先にこの地域になじんでいたら、こちらにむしろ通い続けていたであろうか。一つ一つの出来事が、いま現在の人々の暮らしぶりの中で、それぞれの重みを取って眼前に立ち現れてくる。私のではない、その人の場所としか言いようのない関わりの中で、その人のものでしかない不器用さと狡猾さの組み合わせの中で、それを見せてくれて、どうもありがとうございました。

メキシコ・チアパス州サン・クリストーバル・デ・ラス・カサス市の郊外

クスコの街を裏側から見る

ペルーのクスコというのは、観光に強く規定された文脈をもちつつも、それを超えて魅力的な街だ。でも、植民地から独立後共和制を通じての有力者たちの家のあり方や、街の中心部に残るインカの建築の跡からは、威圧的な印象を受けることも確かだ。これは、西洋とアンデスの対立という図式からは、また少し異なる感覚なのだろうと思う。

そういった中心部の抑圧的な場の中で、うちの家族は角から角を、陰から陰を結ぶようにして、温かい飲み物やサンドイッチを売り歩いて回る。観光客たちにではない。観光客や街の人に物を売る側にいる人たちにである。観光客たちが作り出す物価の高くなった経済ではなく、それを下支えする人たちの経済に、そのさらに背後から回り込み、潜り込んでいく。

市役所の人間や警察に見つかると排除される。その排除をかいくぐるようにして、しぶとく動き回る。これを長い期間やってきた人たちは、自分たちのところを通り過ぎていく人々の、誰が泥棒で、誰が何を売っているかなど、そういうことをよく知っている。街を裏側から知り尽くした人たちだ。

クスコの街は、観光客を重視する流れの中で、2000年代の初頭に「きれいに」なっていった。サンペドロの市場や列車の駅の前を所狭しと埋め尽くしていた露店はすべて排除され、その名も「コントラバンド(密輸)」と呼ばれていたもう一つの露店街Avenida del Ejércitoは高速道路という元々の意図されていた姿へと戻っていき、街の複数の場所に新たに建設された市場へとそれらの商人たち(インフォーマル・セクターの働き手たち)は再配置されていった。
(これはボリビアのラパスの街では考えにくいことで、クスコの街の息苦しさについての私の印象に、大きな影響を与えた。)

何がうまくいっているわけでもなく、生活はいつだって苦しく、生きていくのは本当にたいへんだ。でも、私は、この家族を通して、このように街を下から、そして後ろから見るような見方を獲得してきた。


jueves, 5 de septiembre de 2019

アンデスのススト(怖れ)への様々な対処

アンデスにはススト(susto、怖れ)という病理診断がある。子どもが夜寝ていて布団をはいでしまう、あるいは、何かにつけてビクビクしているようでセンシティブになるなど、こういうことがあるとスストではないかと疑われる。魂が本人の身体から抜け出してしまっているのだ。この症状が進むと、子どもが土を食べだすらしい。

ボリビアのラパス市の近郊では魂呼びのようなことをするのだが、ペルーのクスコ市ではそれをやらず、むしろ卵を使って身体の各部位を撫でていく(スペイン語では、身体に卵を通す(pasar el huevo)という言い方をする)。スストがあると、その悪い部分が吸収されるのだそうで、卵を割ってみて、白い部分がたくさん出てくると、やはりスストだったのだと判断できるのだそうだ。(下の写真を参照)

これは本来は呪術師の仕事なのだが、大体のやり方を覚えておいて自分でやってしまうということもある。そして面白いことに、卵で身体を撫でている間には(キリスト教の)主への祈りを唱えるのだという。

私は常々、アンデスにおいて人々は常にキリスト教とアンデス宗教の間で揺れ動いていると思っている。しかし、このスストのような場合は、あまりにも日常に根付いてしまっていて、キリスト教を信仰していても、ほとんど当たり前のように考え方を受け入れて対処していることが多く、祈りの言葉から見てもここでは両者は混淆している。

この具体的な場合は、心理学的には(?)、子どもが一時的に親から離れてしまったことで不安になって調子を崩しているとも言えてしまうが(家族の中にそういう考え方をする者もいる)、それはそれとして、やっぱり枠組みは複数あった方が良いのではないかな、と私は思っている。事実、次の日からその子は、少しすっきりしたような顔をしている。大家族で子育てを共同でするのだって、いいじゃんね。


domingo, 1 de septiembre de 2019

ボリビア国家の視線が貫くテレフェリコ

今年(2019年)の3月に銀色線(línea plateada)が開通して、ボリビアのラ・パス市の新しい公共交通システムであるテレフェリコ(ロープ―ウェイ)の路線網の整備が完了した。
エル・アルト市のラ・パス市とのへりを通っていく銀色線は、鉄道中央駅から中央墓地を通り7月16日市場をつなぐ赤色線、ラ・パス市の中心に近いオベリスコからファロ・ムリーリョをつなぐ紫色線、オブラヘスからソポカチを通ってシウダ・サテリテをつなぐ黄色線と、ラ・パス市とエル・アルト市の高低差をつなぐ3つの路線同士をエル・アルト市側で結んでいる。

エル・アルト市とラ・パス市のへりを通る路線なので、上からラ・パス市を一望する素晴らしい眺めが続く。
(注)写真は拡大してみたほうが、おそらくきれいに見えます。

反対側を見ると、エル・アルト市からラ・パス市への断崖絶壁に貼りつくようにある建物も見える。上の写真で崖っぷちにあるのは、エル・アルト市のセハ地区の呪術師の市場である。私は最初にここを通った時は、これが呪術師の市場の後ろ側であることを認識しておらず、知り合いに指摘されて初めて気づいた。これは、境界領域に展開する呪術師の知の、地形として極限的な形での現れなのではないかと、深く感じ入った。
(注)アイマラ語では、呪術師は「知っている人(yatiri)」という言葉が当てられます。すなわち、呪術師の知はアイマラの知識人の知だ、ということになります。

今日は、ファロ・ムリーリョで紫色線に乗り換えて、オベリスコに下りて行ったのだが、このテレフェリコは、エル・アルトとラ・パスの街を立体的かつ全体的に感じ取ることを可能にするという意味で、これまで地上をバスで移動していたのとは全く異なる、新たな空間の感覚をもたらしてくれる。周囲の山々や市内の起伏を含めた全体の地形と繋がっている感覚、と言えばよいだろうか。繋がっていると言ってもよいし、自分がそこに包まれていると言ってもよいが、自分がそれを包み支配している感覚とも言えそうだ。

ただし、私が一番注目しているのは、それとはまた少し違う点だ。写真は掲げないが、このテレフェリコは、住宅や建物の真上を突っ切っていく。この街の住宅は、全体を閉ざしてしまうわけではないので、中の部屋の構成や中庭の様子、さらには洗濯をしている様子や女性が髪を洗っている様子などが、上から見えてしまうのだ。その意味で、エル・アルト市やラ・パス市周縁部の住宅は、アンデスの農村の住宅構成をそのまま都市に持ち込んだようなところがある。

アンデスでは、知り合いなどであれば家の中に入って、中庭にある何かしらのベンチのようなものに敷物を敷いて座って話をしてということもあるし、家屋の中に招き入れられることもある。でもここでは、知らない人の私的な生活の空間を、このテレフェリコはあからさまに視線の対象にしてしまう。このテレフェリコは現エボ・モラレス政権の肝いりのプロジェクトであり、すなわち、有無を言わさずに人々の生活空間に侵入していくこの視線は、ボリビア国家の視線でもあるだろう。

新しい観光名所として次第に知られていっているこのテレフェリコは、同時に、ボリビア国家が人々の生活に接触し、浸透していくという、エボ・モラレス政権におけるボリビア社会の変化を最先端で担っている装置でもあるのだ、と私はいま考えている。
(注)このようなボリビアの現状認識については、少し前のエントリーで書いた、ボリビア研究学会での国際大会におけるカルロス・クレスポの発言から、示唆を得ています。

一番早く開通した赤色線では、その下にある住宅が一つの地区で連携して鮮やかな色々に塗って、上空を楽しませようとする試みも行われている。新しい時代の国家の視線に対して、人々はどのようにそれを受け止め、それに対抗していくであろうか。

アンデスの村の光が柔らかくなるとき

アンデス高地の日の光は強烈だ。「アンデスの太陽はただ焼くだけで暖めない(El sol andino solo quema y no calienta)」と言われたりもする。その強い日差しは、光と影の差を際立たせる。

その日の光が、少し和らいで感じられる時間がある。ひとつは、日中に家屋の中から外を眺めているとき。土レンガ(アドベ、adobe)で出来た家は、窓があっても室内は日中なお暗い。戸口から外の強い光を眺めると、外の世界の強烈さを静かに受け止められるような気になってくる。

もうひとつは、午後から夕暮れ時にかけて。午後3時を回ったころから、急に日の光が柔らかくなってくる。柔らかな午後の日差しの中で、様々なものが許されて、人々が優しくなってくるような気がする。
日が暮れ始めると、少しずつ灯がともり始める。アンデスの街の灯りは、現代でもなお黄色く薄暗い。その薄暗がりに包まれていく身体が、心地よい。一日が終わった後を家族で共有するこの時間帯の優しさが、私のアンデスの原風景/原感覚のようなものかもしれない。

viernes, 30 de agosto de 2019

アンデス先住民言語アイマラ語の継承の課題

よく誤解されていることだが、先住民言語だからといって話者数が減少しているとは限らない。南米アンデス高地のケチュア語やアイマラ語は、少なくとも国勢調査で確認できるようになってからは、つまり20世紀末から21世紀にかけて、一貫して話者の絶対数は増加している。

そして、これは言語人類学者のブルース・マンハイムが指摘していることだが、国勢調査の結果だけを見ると、先住民言語の単言語話者が減少し、先住民言語とスペイン語の二言語話者と、スペイン語の単言語話者化が増えているが、現実の村の生活自体はケチュア語(やアイマラ語)で営まれ、子どもたちはまずもって先住民言語の単言語話者として育っていく。スペイン語を学ぶのは、学校に入り、外の世界に接するようになってからなのだ。

ただし、先住民言語が置かれた状況は楽観視できるものではない。話者の絶対数は増えているが、それは人口増加が続いていることによるもので、都市に出てくると、その次の世代にはケチュア語もアイマラ語もなかなか継承されないのだ。

こういう状況で、先日仕事を一緒に進めている人たちと3人でご飯を食べている際に、面白い話になった(残りの2人はいずれもアイマラ語の母語話者の人である)。

街から遠い村では、生活は家庭の場面でも共同体の場面でも、アイマラ語で営まれている。ただし、街にだいぶ近い村になると、家庭生活はスペイン語で営まれることが多くなってきたという。ただし、それでも子どもたちはアイマラ語がかなり話せる。これは、家庭以外での公共の場面で大人たちがアイマラ語を頻用し、子どもたちがそれに触れて育つのだからだそうだ。

これはちょっと興味深い話で、確かめてみたいなとも思う。スペインのバスクでは、フランコ時代に弾圧され、家庭での継承が途絶えかかったバスク語が、民主化以降に、学校教育での標準語教育を通じて話者数を再び増加させてきたことが知られている。この場合に学校教育が果たした言語継承の役割が、もっと広い意味での公共の場面でアンデスでは機能していると考えられるとしたら、ちょっとおもしろい。

かつて、20世紀後半に入ったころから、アンデスでは「バイリンガルの国づくりが可能か?」という問いが立てられてきた。今でも様々な政策は二言語話者を想定していることが多いと思うが、ここしばらく周りの人たちと話している中で、英語とスペイン語とアンデス先住民言語の三言語話者(トリリンガル)は十分に可能なのではないか、という話題が何回か出てきていることに私は注目している。複数の言語が混ざり合い、学び合う空間を生み出していけるなら、ラテンアメリカの先住民言語の未来は、ずっとおもしろくなってくる。

大地とのつながりの中で(アンデスの捧げ物)

ボリビアのラパスの街の8月は、大地の母神(パチャママ)に対して捧げ物をする月だ。南アンデスの8月は乾季の終わりに当たり、パチャママがお腹を空かせている。この時期に捧げ物をすることで、われわれ人間がパチャママを忘れていないことを示し、来たる季節に向け豊穣を祈る。この捧げ物はアイマラ語でwaxt'a(ワフタ)と呼ばれ、ラパス市ではスペイン語でもこの単語が普通に使われる。

ラパスやエルアルトの街の各地にある呪術師の市場は大忙しで、街の色々なところで夕方から夜にかけて、供物を燃やしている様子を目にする。

捧げ物をすることで、パチャママが怒って人間や自然を食べてしまわないようにする。例えば、交通事故が多くなるのは、人間からの感謝の気持ちが不足して、パチャママが怒っているということになる。


供物はメサと呼ばれ、紙の上に配置されている。砂糖を使った甘い物と酒(ワインとアルコール)とが、メサを構成する基本の軸を構成しているようだ。コカの葉の形の良いものを選び、3枚ずつを重ねてメサの四隅に反時計回りに置いていく。アルコールも同じ向きで振りかけていく(このお酒を振りかける行為はch'allaña(チャヤニャ:アイマラ語)またはch'allar(チャヤール:スペイン語)と言う)。シナモンと砂糖を混ぜたものを、また振りかけていく。

ちなみに、このメサの構成の仕方にも流行があるように思う。 今回はリンゴを置いているが、これを見るのは私は初めてであった。でも、これはメサを準備する呪術師ごとに考え方が違うし、その後をどのように準備していくかもその人の出身地によって流儀が異なる。



そして、このメサを燃やす。燃やすことで、供物がパチャママに届くと考えられている。高原都市では、標高が高く酸素が薄く、火が付きにくいので、アルコールを何度も振りかけながら、土台に重ねた木に火を移していく。ワインをメサの外側に反時計回りに振りかける。燃えている間は、パチャママが供物を食べているのだと考えられている。

私もメンバーである先住民団体の建物の屋上で、皆でメサを囲んで燃やす。傾斜の強いラパスで、上と下に見えている街の灯りの連なりの中で、もう15年以上見慣れてきた建物たちに囲まれて、炎が上がり、煙が空に昇っていくのを眺める。様々なことがうまく行っていない中でも、でもまた皆がこの場所に集まって、祈る気持ちを合わせる。この一連の儀式が終わると、皆が少し心がすっきりしたような顔をしている。


最後に、それぞれが持ち寄った食材を取り合わせるアプタピ(apthapi)を、皆で囲む。まだ先がある。まだやるべきことがある。もう一回、あともう一回、前に進もう。

martes, 27 de agosto de 2019

何度も立ち戻る思考の場所

私は日本で大学の教員をしているが、ボリビアのラパス市にある先住民団体のアクティブなメンバーでもある。アンデス口承史工房(Taller de Historia Oral Andina, THOA)という団体で、アイマラの人々が中心で、ケチュア語を話す人もいる。

最初に繋がりができたのが2003年だから、今年でもう17年目に入るだろうか。この団体の他の仲間たちも同じような感想を口にするが、私は私で、何よりもここでインディアニスモ(先住民主義)に基づく考え方を、議論し、考え、教わってきたのだと思っている。先住民の思考とは何かを丁寧に深く掘っていき、そうすることで他の文化や社会に向かっても開いていくことができる、と私は強く思っているが、そう思えているのはこの場での議論によるところが、とても大きい。

なかなか長い時間をかけてボリビアに滞在することが難しくなってきた中で、でも今年も定例の会議に参加する。時間をかけて全員で議論をしていくと、あるところから、とても深く難しい問題に突き当たっていく。アイマラ語の手触りを確かめるようにして、 スペイン語の使わざるをえなさや、スペイン語とアイマラ語の間の距離を認めながら。同じ面子で、少しずつ新しい人を加えながら、何度も何度も議論を重ねてきた。

ああ、この場所だ、帰ってきた、と思う。ここを私は自分の思考の拠点にしようと、ずっと取り組んできたんだ。ここから言葉を発しようとして、ここに向かって言葉を発しているんだ。

domingo, 18 de agosto de 2019

スペインの植民地主義の多層的な理解に向けて

学生たちが参加しているスペイン語海外研修の視察と調整の仕事で、長期休暇の入り口にスペインを回る出張に出るようになった。今年の2月に続き、この8月もスペインに来ていて、これで2回目になる。スペイン語教育の中心地でもあるサラマンカと、バスクのサン・セバスティアンを回る。サン・セバスティアンは宿泊がなかなか高価なので、バスクの中心都市のビルバオに泊まることが多い。

これをやることで、新しく見えてきたことがある。

一つは、バスク地方とのかかわりができたことだ。バスク語をめぐる様々な状況は、アンデスの先住民言語やアイヌ語に関わっている私にも興味深いことが多く、公共空間におけるバスク語の存在感や、世代間で異なる継承のされ方、長期間をかけて作成された標準語と方言の関係など、考えるべき問題がたくさんあることが分かってきた。世界同時代性の下で、それぞれの文脈の中で同じ問題を共有しているという感覚は、私に大きな示唆を与えてくれる。また、たまたまお祭りの期間にビルバオにいることが多いが、祭りに加わる一つ一つの団体(コンパルサ)が、女性への暴力的攻撃の禁止や、政治犯の釈放要求など、政治的な要求を明確に打ち出していることも印象深い(このこのまつり(祭)とまつり(政)の一致ともいうべき特徴は、既に様々に指摘されている)。今年のビルバオの祭の開会宣言(8月17日)は、トランスジェンダーの子どもをもつ親の会の代表が務め、「我々は世界を変えていっているんだ」と高らかに宣言し、集まっている大群衆から万雷の喝さいを浴びた場にいたことは、私に深い感銘を残した。

もう一つは、ラテンアメリカを専門にしていると、スペインとラテンアメリカの関係で考えることがある意味普通になっていく。そしてそこからは、アメリカ大陸としての広い意味での植民地経験へと考察を広げていくことが、近年試みられていくことになる。しかし、スペインの多言語主義に目を配るようになると、バスクをめぐるスペイン国内の力学や、より現代に近い時代でのスペインとアフリカの関わりなどに目が向いていくようになる。スペインによる植民地主義の経験はラテンアメリカで終わるわけではなく、国内にも向きつつ、その先にアフリカでも続いていくのだ。このスペインの植民地主義の歴史の多層性に目が向くようになってきた。

アンデス高地先住民は、差別される側にも差別する側にも回る。日本人も、差別される側にも差別する側にも回る。そしてバスク人も、差別される側にも差別する側にも回る。この3点をつないで考えられることは、やはり新しい視野の広がりを私にもたらしてくれている。

sábado, 27 de julio de 2019

フィクションと現実が交錯する中でのボリビア文学

とんぼ返りの強行軍で、ボリビア研究学会の第10回国際大会で発表をするために、スクレの町に来ていた。

今回の発表では、スぺディングの『鉄の寝台(Catre de fierro)』という小説を取り上げて、これがどのように1952年革命以降のボリビアの歴史に対し、批判的な視座の構築に取り組んでいるかを、分析しようとした。


この野心的な小説には、冒頭から要所要所にマティアス・マリュク(Matías Mallku)というアイマラの呪術師(ヤティリ)が登場する。この呪術師が何をするかというと、ラパス市での建物を建設するなどの近代化の取り組みに対して、人柱が必要かどうかを判断し、酒場で酔い潰れている者たちの中から、適当に選び出し、きれいな衣装に着替えさせて埋めるという、きわめて怪しげな人身供儀に関わっているのだ。

このような人身供儀(sacrificio humano)の慣行は、著者のスぺディング本人も、インタビューに答える形で、話としては様々に存在してはいるが、実際に確かめられたものはないと述べている。人類学ではなく小説だからこそ、このような点に光を当て、最大限に展開することが できたとも言えるだろう。

しかし、私は今日ラパスの街の行きつけの古本屋で、そこの親父さんとこの作品について話をしていたのだが、彼は「俺は実際のモデルのやつを知っているよ」とぼそっと言い、実は私も知っている名前をその後につぶやいたのだ。

それが本当かどうかも、これまた確かめようのない話なのだが(ただし著者にこの話は聞いてみようかなと思っている)、 そのような話が出てくることで、いま私たちが生きているこのラパスの街の空間の虚実の境目が、また揺らぎ始める。

そして、ボリビアの特にラパスには、死とアルコールのかおりが濃厚に漂う文学の系譜があるのだが、古本屋の親父さんの話は、このスぺディングの最新作が、その系譜を私が想定していたよりも遥かに意識して書かれている、という可能性を指し示していた。

何かについてずっと考えているときに、ある一言に打たれるような思いがするということが、確実にある。



domingo, 9 de junio de 2019

「風景が見えること」

清水透先生は、研究者としてのキャリアの後ろのほうになって、叙述において「風景が見えるということ」を大事にするようになっていった。これは、『エル・チチョンの怒り』(東京大学出版会、1988年)の冒頭のように、情景描写を置いた上で、語りに入るというふうに捉えられることがあり、ひょっとすると本人もそう思っているふしがある。


この「風景が見えること」は、近年の<声を発することのなかった死者たちの声が聞こえる>というモチーフへとつながる、清水先生の中の重要な概念であるのだが、私自身はこれについて、単に情景描写をするということではないのだと思っている。

それは、おそらく単語一つ一つのレベルで、そこから風景が匂い立つように書くということであって、叙述の全てにわたって言えることなのだろうと思う。すると、風景は、歴史叙述を取り巻く文脈でも環境でもなく、叙述そのものと相互浸透し、叙述から匂い立つような「風景」、なのだと思う。

だとすると、清水先生のオーラルヒストリーは、翻訳であることに大きな意味があることになる。翻訳の過程で、風景が匂い立つように訳語を工夫することができるからだ。そうすると、そんなに簡単にスペイン語で出せと言えなくなってしまう、か。先生は、翻訳をそれほど頻繁に手がけてこられたわけではないが、翻訳がご自身の方法のやはり根幹にあると考えたほうがよいのか。

あまり、そのように考えてこなかったのだが、ふとこの前の研究会でそのような思いに取りつかれた。記録のために、ここに書き留めておく。

domingo, 2 de junio de 2019

ペルー社会を考えるときの難しさ

下のエントリーでは、重要な問題提起を受け継ごうとする希望について書いたが、同時に頭を抱え込むような思いもした。

ペルーというのは、社会として非常に難しいところを持っている。社会がバラバラ過ぎて、民族という面でも階級という面でも複雑な、この社会全体を視野に入れることが困難なのだ。20世紀に革命に向かう動きがついに生まれなかったペルーが、必然的に発達させることのなかった視座だと言ってもよいだろう。

これは、批判的に考えることが、そのままペルーというまとまりを考えられるかという課題に収まってしまう、ということでもある。言い換えれば、ナショナリズム自体が「批判的思考(pensamiento crítico)」だと位置づけられてしまうのだ。これは例えばアルゼンチンにあるラテンアメリカ社会科学評議会(CLACSO)が出している批判思想集成シリーズのペルー版の序文で、マルティン・タナカが、まさにそのような趣旨のことを述べている。
(Tanaka, Martín coord. 2016. Antología del pensamiento crítico peruano contemporáneo. Buenos Aires. CLACSO. ←CLACSOのホームページからPDFを無料でダウンロードできる)


すぐ南にあるボリビアと関わっている限りは、そのようなことがない。1952年の革命の前後でナショナリズムが発達してきたボリビアでは、ナショナリズムを批判するような思考も同時に発達してきたからだ。ペルーの全国紙を見ていると、時折起きる大規模な抗議運動を除いては、先住民社会の動きが全く見えてこない。その意味で、ボリビアとは全く異なるリテラシーが、ペルー社会の分析においては要求される。

そのような状況下で何が起こるか。ペルー社会全体を見ようとする動きは、すなわちアンデス高地社会に目を向けるべきで、そこにあるケチュア語世界を見るべきだということになる。そこでは、南部高原部のアイマラ語世界はもとより、東部低地の先住民社会は後景に退き、付け足しのような形でしか現れない。すなわち、リマ中心主義を抜け出そうとしたときに、我々はすぐにそのままアンデス高地ケチュア語世界中心主義に絡め取られてしまいそうになるのだ。これを乗り越えるペルー社会の基本ビジョンは、いまだに明確に提示されていないように、私は思う。
(ただし私の不勉強で、その萌芽がどこかに現れ始めている可能性はある。少なくとも、その問題意識を共有している人たちはいることは分かっている。)

そうすると、それぞれがそれぞれの主題を追求しているが、そこに連関を見出すことがしづらくなる。日本ラテンアメリカ学会でもボリビアだとギリギリ様々の分野の中に共通の論点を見出すことができるのだが、ペルーではそのようなことが難しい、と私は思う。

さて、今回日本ラテンアメリカ学会の大会の中で見ることのできた劇団ユヤチカニの演劇作品の上映で、『遍歴の音楽家たち(Los músicos ambulantes)』は、1982年の作品で長い上演暦を誇っているが、まさに上に述べたようなパターンに典型的にはまってしまっている。ペルーの多様性を知るというのは、ロバと犬のケチュア語世界が中心になって、そこにアマゾニアのニワトリがスペイン語を話しながら加わるのだ。しかもこれらの動物は、全てヨーロッパ起源のものだ。ああ、やはりそうなるんだなあ、と私は思いながら作品の上映を見ていた。

ただし、上のエントリーにも書いたが、私はまだこの劇団の作品をあまり見ているわけではない。より最近になるにしたがって、どのような問題系を取り上げるようになっていくか、そこまでを踏まえたうえで考え続けたいと思う。

ペルー社会を考えるときの希望

日本ラテンアメリカ学会の定期大会が6月の第一週末にあったが、それと関連して、ペルーの劇団ユヤチカニ(Yuyachkani)の演出家の人が来日していて、上智大学で講演があり、学会の当日にも様々な催し物が組まれていた。学会では我々はボリビアに関する2つ続きのパネルを組んでいたので、ほとんど時間がかぶってしまったが(そもそもこの学会で個別のスロットが3つしかないということに今回初めて気が付いた)、それでも上映されていた作品を二つほど見ることができた。

演出家の人とは大変気が合う感触を受けた。一貫して社会の問題を考えながら、政治暴力の時代を踏まえた記憶の問題に取り組んできたその姿勢には、確実にラテンアメリカの民衆演劇の伝統が、より広くは民衆とつながろうとする1970年代以降の様々な潮流とつながる「感じ」がある。このような演劇の存在が目に入るだけで、ペルーの首都のリマの町が全く違った様相で見えてくる。

それとは別に、私自身が考えさせられた点が幾つかある。まずは勇気づけられた点。劇団ユヤチカニは、ペルー社会を考えるにあたって作家・民族学者のホセ・マリア・アルゲダス(José María Arguedas)から大きなインスピレーションを得て、アルゲダスが着目したインカ王(Inkarri)の伝説に着目して作品を構成したりもしてきた。これは、より広くは、アルベルト・フローレス・ガリンドが指摘した、アンデス先住民における天変地異を通じたユートピアの実現を希求する心性にもつながる。
(Alberto Flores Galindo (1986) Buscando un Inca: Identidad y utopía en los Andes)。

ペルーの真実和解委員会を主導した人類学者カルロス・イバン・デグレゴリは、フローレス・ガリンドに対し、アンデス・ユートピアを求める動きは、実は20世紀にはそれほど事例が見られないという指摘をし、アルゲダスをもとに、それをセンデロ・ルミノソへとつなげようとした死去直前のフローレス・ガリンドの議論運びに異議を唱えている。すなわち、あくまでも土台になるのは国家と市民社会の関係という枠組みであるという見解だと、私は理解している。
(この議論については、Libros y Artes, no.11, agosto 2015を参照)

劇団ユヤチカニの実践は、この意見の対立を乗り越えようとする試みに見える。ペルー社会を考え、真実と記憶の問題に取り組むためにこそ、アルゲダスに立ち帰り、インカリの神話を解釈し直さなければならないという姿勢は、デグレゴリとフローレス・ガリンドを再度つなごうとする試みであると受け取れるであろう。その課題が現代に引き継がれている。それだけで、ペルーを考える際に一つの希望が確実にそこにあるのだと、私は思う。

ユヤチカニの劇団の作品については、まだその全体を見れているわけではないので、特に近年の記憶をめぐる作品で、社会がどのように描かれているかに、引き続き着目していきたい。

sábado, 13 de abril de 2019

東京大学の式辞について幾つか

近年はツイッター上で、この時期の幾つかの式辞が話題になることが増えてきたように思う。

古くは、2016年の東京大学教養学部学位伝達式での、石井洋二郎教養学部長による式辞。「善意のコピペや無自覚なリツイート」に言及しつつ、情報への誠実さを説き、オチまでついていると話題になった。
平成26年度教養学部学位伝達式式辞」(リンク)
ちなみに、『教養学部報』第588号における「駒場をあとに」も話題になった。
駒場をあとに――さよならコンサート」(リンク)

2019年度も入学式の式辞が話題になっている。一つは、上野千鶴子WAN(ウィメンズ・アクション・ネットワーク)理事長/東京大学名誉教授による学部入学式の祝辞。批評と祝辞を両立させる見事な試みとして話題になっている。
平成31年度東京大学学部入学式祝辞」(リンク)

もう一つ注目したいのは、大学院入学式での大西克也人文社会研究科長による式辞。私はこの式辞にも非常に大きな感銘を受けた。
平成31年度東京大学大学院入学式人文社会系研究科長式辞」(リンク)
特に感銘を受けた二つの段落を、以下に引用したい(下線による強調は藤田による)。
(第三段落)
 史記』は優れた歴史書であり文学です。揺れ動く時代に自らの生死と命運をかけて生き抜き、あるいは翻弄され滅んでいった人々の生きざまが、作者の冷徹な視線と、時に矛盾を孕んだ複雑な感情を通してドラマティックに描き出されます。私は高校生の時に翻訳で読んだ『史記』にたちまち魅了されました。優れた作品は原文で読みたいと思うのが世の常です。しかしいわゆる「漢文」ではなく、古代中国語としての原文に向き合った私が直面したのは、何も分からないという現実でした。なぜ、どのような必然性があって、どのような感情をもって、司馬遷はこのように表現したのか、作者にはどのような世界が目に映っていたのか、言葉と言葉が表現する世界認識との対応関係が全く分かっていないことに気づいたのです。私だけではなく、敢えて誤解を恐れずに言えば、誰にも分かっていない。これに気づいたことが、私が自らの研究を進めていく上での大きな力になりました。

(第五段落)
今にして思えば、私にとって一つの節目となったのは、2001年にカナダのブリティッシュ・コロンビア大学で開かれた第4回古代中国語文法国際シンポジウムでの発表でした。私が取り上げたのは上古中国語のいわゆる「無標の受動文」です。日本語でも英語でも現代中国語でも、受動文は通常特別な文法形式を使って表現されます。しかし上古中国語には何も文法形式を伴わない奇妙な受動文が存在すると考えられていました。私は、この奇妙ないわゆる受動形式が、能格動詞と呼ばれる動詞にのみ見られるもので、受動とは無関係であるという趣旨の発表を行いました。実はこのような考え方は、今から40年ほど前にアメリカのシコスキーという研究者が発表していたのですが、論証方法に問題を抱えていたために厳しい批判を受け、その後ほとんど注目されていなかったのです。私の発表はシコスキーを参照しつつもゼロベースで論証を積み上げたものでしたが、動詞分類の基本的枠組みに関する当時の常識に反するものであり、その場で学界の権威と目されている研究者から面罵に近い批判を浴せられました。私にとって堪えたのは、権威からの批判よりも、直後に別の研究者から便乗するような形で批判を受けたことです。嵩に懸かって攻め立てるような口調に何とも言えない気分になり、反論しようにも言葉が出なくなりました。しかし数年が経ち、当時その場に居合わせた指導教授から勧められて、私の論文を暗唱するほど読み込んだという中国の若い研究者に出会いました。上古中国語における「能格動詞」というカテゴリも、今ではごく普通に議論されるようになりました。

この「我々は実は何も分かっていない」という感覚は、研究をする上で非常に大事だと私は思っている。これは、学部生の頃に二人の先生の授業を受けていて、じーっとこの人たちが何をやっているのかを考えているうちに、気づかされたことだ。一人は、法政大学経済学部(当時)の柳原透先生による開発経済学の授業、もう一人は、清泉大学文学部の杉山晃先生によるラテンアメリカ文学の講読の授業であった。

その思考の価値はそれを目にしたその一回で判断しないといけない、というのは、私は自分のゼミでも学生たちに先学期言ったことがあるが、おそらくこれは、東大の大学院での博士課程で徹頭徹尾お世話になり続けた小森陽一先生が、結局文学研究者の実力はテクストのその一点にどれだけの反応ができるかであり、その最前線に身を置けということを、言っておられたことに端を発しているように思う。

いま私は、何か違うことをやらないといけないという強迫観念に取り憑かれたような職場で仕事をしているが、そこで新しいとされていることのどれだけが本当に新しいと言えるだろうか。地に足の着いた、そして大学の枠を越えた繋がりの中で、真の新しさを目指したい。