sábado, 15 de octubre de 2016

今日のひとこと(オハイオ州立大学の学内展示説明文)

The Andes and Amazonia have a long history of oral traditions. Even as native inhabitants engaged with Western writing, becoming more "lettered" since the time of contact, indigenous communities retained the art of story-telling and cultural production. Wisdom and meaning-making was and continues to be passed down from one generation to the next by way of practice, experience, and applied knowledge of the processes behind beautifully made things, rather than through conventional written texts. The absence of written documents has led some scholars and officials to characterize cultures in this region as a "people without history." This exhibit presents the perspective that indigenous communities are by no means deficient in historical and cultural texts; that narratives of their experiences are richly inscribed in tactile surfaces and performance traditions rather than on paper.
【私訳】
アンデスとアマゾニアには、口頭伝承の長い歴史が存在する。先住民の人々が、遭遇の時点を境にして西洋の文字を書き記すことに関与し、次第に「字を識って」いった一方で、先住民共同体は物語を語り、文化を生み出す態(わざ)を保持してきたのだ。知恵や意味の産出(物事の意味付け)は、以前も、そして現在も、伝統的な書かれたテクストを通してではなく、美しく作られた物の背後にある実践、経験、そして知識を応用する過程を通して、次の世代に対して伝承され続けている。文字で書かれた文書の不在は、学者と実務家の一部をして、この地域の文化を「歴史を持たない人々」として特徴づけさせることとなった。この展示では、先住民共同体が歴史や文化に関するテクストを欠いているわけでは決してなく、経験の語りが、紙ではなく、物質の蝕知できる表面や実演の伝統に刻み込まれているのだ、という見方を提示する。

これは、いま国際学会で訪れているオハイオ州立大学で、学生が主導権を取って、様々な教員の協力を取りつけながら開催したインタラクティヴな展示の説明文の、最初の段落。QRコードを読み込むと、様々な関連画像、映像、音声などで自分を取り囲むことができて、一つ一つの展示を文脈の中に戻して理解できるように、というのが目指されているのだそうだ。学生主導の企画があることもすごいし、国際学会の中に「実習」の時間があるのだが(様々なラテンアメリカの先住民言語の初歩をコミュニカティブに学んだり、オンライン教材の実演を見ることができる)、その時間の中に学生たちによる展示の説明が組み込まれているのも刺激的であった。

学会というものの難しさ

ラテンアメリカ先住民言語に関する国際学会に参加しに、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学(コロンバス市)に来ている。大学の教員をしていると、国際学会に出向くこと自体が日常的な仕事に多大な負担を強いる。でも、やはり沢山に得るものがあり、その無理をした甲斐はあったと思う。

言語人類学は、ディシプリンとしては言語学と文学の両方に足を突っ込んでいるところがあり、また危機言語・少数化された言語をめぐるアクティビズムと切り離すことができない。その独特な難しさにも直面する学会だった。

先住民言語で書かれる文学、特に詩の盛り上がりには目を見張るものがある。少数言語における詩人の多さに、かつて多和田葉子さんが言及していたことがあったが(確か『エクソフォニー』)、ラテンアメリカの先住民言語でも確実にそうだ。

先住民言語による文学の盛り上がりは、それ自体が喜ばしい目標である。それは確実にそうで、ただしだからといって、研究として何でもいいというわけにはいかない。自然との関係が扱われている、その中での「よき生活(buen vivir)」が謳われている、それを言うだけで終わったら(たとえそうだとしても)研究としては駄目だろう。位置づけを与える(≒ラベルを貼る)だけに終わったり、批評理論の切り貼りに終始して、肝心のテクストはどこにあるのだろうと思ってしまう発表は、やはり多い。結局、我々は、あくまでも具体的にテクストを読み深める技術によって、新しい境地を切り開くしか、本来はないはずだ。

先住民言語を研究することは、それをめぐる社会状況に否応なく巻き込まれる。その意味で、言語そのものの理解と社会実践を架橋しようとする研究者が多いのは、話をしていて面白いし、親近感を覚える。言語学者の中にも、社会学や人類学の古典に造詣の深い人たちがいる。

でも、やはり発表を聞いていると、そもそも説明のための仮説が当初の問題を説明したことになっていなかったり、仮説がどうみても無理筋で用例と照らしてまったく納得できないものも多かった。たぶん実際の用例を丹念に追っていく中での職人技、というところで、実は大御所の中にもそこをごまかしているんじゃないかと思う人がいる。そして、その言語を本当にこの人はどこまで話せるのだろうか、という人たちがいる。私もそういうところがあるというのは認めたうえで、それでも。もちろん、話せたからといって、研究者として優れているかどうかは全く関係がないのだけれど。
(この最後の点は、アンデスの先住民言語の世界では徐々に現地社会で問題視されるようになってきていて、これはいい傾向だと私は思っている。)

そして最後に、アクティビストも研究者も「国際学会回り」をしているだけなんじゃないかと思ってしまうこともある。その中には、面白いと思うし重要な仕事だと思うものが含まれているので、きれいに切り分けられる性格のものでもない。そして、どんな発表からも必ず何らかの学びは得られる。でも、本当に実のある仕事を進めようとして、それを研究としても倫理としても自分の満足のいく形で進めようとするにあたって、国際学会に出ていればいいというものではない。
(ただし、だからといって学会に全く出ないのがいいというものでもない。)

私自身は、ほぼ四年ぶりくらいに自分の正真正銘の専門分野の本格的な学会に出て、いいコメントがもらえたことと、この先の勉強の見取り図と方向感覚が更新されたという点で、やはり来てよかったのだと思う。

権力が作用する中での二言語使用

危機言語の活力を測る際に、その言語の単一言語話者の数のみが重視されることを問題視し、支配言語との間の二言語話者の重要性を指摘し、そこに新たな可能性が見いだせないかと模索することは、よい。しかし、権力が作用し、その権力に植民地性(colonialidad)が不可分に組み込まれている際に、先住民言語とスペイン語の二言語使用をただ礼賛することは、それ自体が抑圧として機能してしまう。先住民言語の方が得意な人々に対して、そして都市と農村を行ったり来たりする人々に対して。

同様に、均質化しつつあるように見える現実において、新たな差異を我々が見過ごしているのではないかと問い掛けることは、よい。でも私は、その現実に取り残されつつある人々の間で、そこにも新しい可能性があるんだ、と言いたい。そのような可能性を見出したいのだ。