viernes, 31 de agosto de 2018

墓地の柔らかな光の中で

アンデス高地の強烈な日差しも、ボリビアのラ・パス市の中央墓地に夕方差し込んでくる光は、それとなく柔らかいような気がする。

この社会には、赤ちゃんが死にかかっていると、「イエス様がその子を側に置きたがっているのだ」と考える習慣が存在する。 私は敬愛する人類学者のナンシー・シェパー・ヒューズと同様に、その考え方に抗って、その子どもの命を助けようと介入した。子どもの周りの家族は、皆が助けようとしていた。彼女が書いているのと違うのは、彼女の場合は子どもは助かり、私の場合は助からなかったということだ。

まがりなりにも、この家族のなかに私は位置をもらっているから、私は未だに、あの時にこうすれば違ったのではないかと、頭の中で何度も思い返している。何年も、何十年も、私とこの家族との間でずっと時間を一緒に過ごせるはずだったのに。でも、この墓地に来ると、数多くの死の現実の前で、心が静まり返り、穏やかになる。

この子が、本当にイエス様のそばに置いてもらえているといい。
苦しませてごめん。ほんの一瞬だけでも、私と一緒にいてくれて、ありがとう。



miércoles, 29 de agosto de 2018

アンデス研究における私の原点

私はアンデス世界に関わるときに、ある種の原点のようなものがある。それは、アンデスの村の小さく昼なお暗い家屋の中で、日常的に、あるいは一日の仕事が終わって人々が帰ってきたあとで、皆がアイマラ語で、あるいはケチュア語でよもやま話をしている、その先住民言語が話される、語りの世界に、私は惹かれたのだった。

もともとアカデミックな部分での出発点としては、ある種のレベルの違う関心を私は抱えていて、よりマクロな社会科学や国際開発協力政策に関心をもっていたために、いまだにそこの断絶がうまく架橋できていない面があるが、でもアンデスの人々の日常に関わる際の私の原風景は確実にそこにあるのだ。

昨年から試行錯誤をしながらアイマラ語の日常会話の調査と記録をし始めている。そして、ケチュア語でも、元々20代を通じて通い、そして論文を一本も書くことがなかった、ペルーのクスコの山の高い村々の世界へと戻る準備をし始めている(昨年一度行き、今年から徐々に通えるようにしようと思っている)。私は確実に原点へと戻ろうとしている。だから、こんなところで、諦めてはいけないんだ。

先住民言語を「教わる」ことの難しさ

つい最近、研究仲間の佐藤正樹さんからアイマラ語を教えてくれる人を紹介してくれないかと相談を受け、これにどうにもうまく答えあぐねてから、それがなぜなのかを考え続けていた。

同じ話者数の多い広域言語ということで、まずは隣のケチュア語の南部方言と比較してみよう(注意:南部方言とはペルーのアヤクーチョ以南を指す)。ケチュア語の場合、ペルーにおいてもボリビアにおいても、「教育」の担い手に多く見られるのは、かつての農村での地主階層であった人(特に女性)で、農地改革などで都市に出てきて自分の知識を生かした職として従事していることが多いように思う。そして、リマの大学や、アメリカ合衆国やイギリスなどの先進国の大学と、そしてかつては解放の神学を担うカトリック教会と、広く結びつきをもちながら、専門的な教育の形成がなされてきたように思う。教材としても、文法重視の初期の形態から、プラグマティクスの重視からコミュニケーションとアクティビティの重視へと変遷し、そして実際の人々のインタビューをもとにした教材なども既に世に出回っている。

(私がクスコでケチュア語を教わったのは、Instituto Pastoral Andinaという解放の神学系のNGO・研究所で、 そこでケチュア語を教わった日本人は何人もいるが、私がおそらく最後の世代に属しているはずだと思う。その後のカトリック教会の右傾化で、この研究所の活動は衰退してしまった。)

これがアイマラ語においては、どうも見られない。本来元々の社会状況(農村のアシエンダ領主を含めたエリート層がアイマラ語を理解し、用いていたこと)は変らないはずなのだが、アイマラ語の教育を含めた専門的な仕事を担ってきたのは、アイマラの人々自身なのだ。これは、とても興味深い現象で、おそらくアイマラ先住民運動の強さが背景としてあって、私は基本的にこの状況を高く評価している。ボリビアのアンデス高地は、アイマラ語自体をよくしゃべることができないまま、研究をして偉そうにしようとする言語学者に対する拒絶反応があからさまに示される社会でもあり、私は基本的にこの状況も高く評価している。

しかし、これはこれで様々な困難を生む。まず基本のターゲットが、既にアイマラ語が分らなくなったアイマラの人々自身に向いている(そしてこれ自体は全く悪いことではない)。しかし、本当の基礎の基礎の部分を超えたところで、どう教えればよいかを、実は誰もよく分かっていないのだ。 1960年代にフロリダ大学がアイマラ語の母語話者とともに開発したプログラムも基礎的な形のパターン練習と、より自由な会話教材との間のレベルの断絶という問題を抱え(後者にはほとんど説明がついていない)、それ以降は中級の部分にまともに向き合おうとした教材自体が開発されていない。私の先生であったフアン・デ・ディオス・ヤピータは、教育方法と教材開発において先駆的な仕事をしてきたが、でもそれも基礎のパターン練習という段階にとどまっている。そして、アイマラ語の教育に従事する人の世代交代が進行中だが、なかなかアイマラ語教育だけで食べていくことは難しい業界事情から、教育者としての専門性を高める方向にはなかなか向かっていかない。

(私がアイマラ語を教わった頃も、教師として外で推薦されているのは、私の先生だったフアン・デ・ディオス・ヤピータ一択で、私はイギリス人の人類学者のオリビア・ハリスという人と話しているときに、この人のことを教えてもらった。しかし、もう先生はご高齢で表立っては教える場面に顔を出していないようだ。)

でもしかし、人々自身は、自らが話す言語についていろいろと振り返って考えていて、実はよく分かっているし、よく分からないことを考えたりもしているのだ。

つまり、すぐ出だしのところから、学習者にはかなりの心構えが必要だ。それは相手に説明を求めるのではなく、教わる相手とともに言葉の世界を探っていこうとする姿勢だ。これが実に難しい。
(これは実はフィールドワークとよく似ていて、フィールドワークで相手に学術的な質問をそのままぶつけても、まともな答えが返ってくるはずがない。そうではなくて、自分で学びながら折に触れて相手が発してくる言葉をどう受け止めるかが問題になる。でもこれも、相当な訓練を積まないと、本当に難しい。この二つのことは、実によく似ている。)

さて、ここまで見てくると、実はケチュア語も似たような問題を抱えていることが分かってくる。教材の世界は発達してきたが、それはスペイン語との二言語話者(バイリンガル)の人の世界において開発されたもので、ここでの言葉とケチュア語の単一言語話者(ものリンガル)の人々の言葉との間に断絶が存在することが、研究の世界ではとみに指摘されるようになってきた。すなわち、広い意味でケチュア語を学ぶ場合にも、全く同じ問題が存在するのだ。私はアンデス先住民言語について大学で授業をする際に、これを「ケチュア語は誰のものなのか」問題として解説を展開するが、ケチュア語は現代でも複数の社会階層に形を変えて共有されていて、その中に権力と支配の構造が存在しているのだ。

つまり、一見するとケチュア語の方が教わりやすいと答えてしまいそうになるのだが、そういうことでもない、ということになる。さらには、これは実際に日常の活動を通じて人々と関わる先住民言語の場合には、顕著に問題として現れるが、実はよく学ばれている世界の強力な言語群を学習する際にも、同じ問題が存在しているのかもしれない。

ちなみに、そのように考えてくると、アイヌ語における田村すず子さんや、私の先生の中川裕さんの仕事というのは、本当にすごい。中級のところまで、文法の解説と練習でカバーしようと試みる教材を残すというのは、やはり日本社会での言語の学習の仕方と受け止め方の蓄積がもとになっているということになるだろうか。だとすると、私はもっともっとがんばらないといけないことになるのだが、現代の大学の内部の仕事の煩雑化は、本当にこういうことへの取り組みへの阻害要因になる。それでも、それでも……。

参考情報
アイマラ語を学ぶためのオンライン教材で信頼できるものとしては、以下の2つがある
(1)フロリダ大学のアイマラ語教材開発プロジェクト(Aymara Language Materials Project)がオンライン化されたもの
http://aymara.ufl.edu/
(2)カリフォルニア大学サンディエゴ校からの資金援助を受けて、現地のアイマラ言語文化研究所(Instituto de Lengua y Cultura Aymara, ILCA)が開発した教材。米国の大学生の夏季プログラムの受け入れの際に用いられている。
http://www.ilcanet.org/ciberaymara/
その他、長期滞在する人は国立サンアンドレス大学(Universidad Mayor de San Andrés)の授業や、アイマラ語放送局ラジオ・サン・ガブリエル(Radio San Gabriel)のアイマラの若者向けのアイマラ語集中講習を受講したりなどしている。