lunes, 30 de julio de 2012

底の方の湖のほとり

自分がやっていることを維持しようとするだけで、疲労困憊してしまうことは、どんなに歳を重ねたとしても結局はあり続けることなのかもしれない。周りに人がいるのかいないのかすら、段々と分らなくなってくる。

このままではこの先に進めないことは分かっているし、「この先」というのが大体どっちの方角なのかも見当はついている。

だから、静かに、静かに、切り詰めて、整理をして、スリムにして、研ぎ澄まして、その向こうの遥かなものに向って自分を投げていくことくらいしかできない。

そうすると、もう一人の自分が「お前を待っていたよ」と言う。この場所はずいぶんと久しぶりだ。

sábado, 28 de julio de 2012

出会いものの料理

ラパスで一番好きな料理はと聞かれたら、私は迷わずワヤケ(ワリャケ、wallaqi)と答える。酒を飲んだ後に食べるにはフリカセ(fricasé)という豚スープなどもあるが(5月のエントリーを参照)、このワヤケも二日酔いに効く栄養満点だ。もちろん二日酔いじゃなくて普通の日でも。

この料理は、元々はボリビア西部の高原(アルティプラノ)のチチカカ湖の湖畔の村々の習慣だったはずで、カラチという骨っぽい魚とタマネギ、黄色トウガラシ、そしてコワ(quwa)と呼ばれるアルティプラノに生えている香草でとるスープなのだけれど、ラパスで食べる時にちょっと面白い発見があった。

私は自分でも市場で買ってきて作ったりするのだが、最初の頃、魚のフライを食べるウルグアイ市場(Mercado Uruguay)でおばちゃんと話しているときに、サバロ(sábalo)という魚の頭を一つか二つ買って入れるといいよ、と助言をもらったのだ。なかったら鱒(trucha)の頭でもいいと。

そういえば、私がよく行くロドリゲス市場(Mercado Rodríguez)のwallaqiの屋台でも、オプションとしてkawisa(頭)というのがあって、それはサバロの頭がついてくるのだ(上記写真、両側にいる小さい魚がカラチ)。他にもトルゥチャやペヘレイなどのオプションがあるのだが、このサバロの頭は人気が高く、これを目当てに来るお客さんたちもいる。

ははあと思ったのは、このサバロはボリビアの東部低地から届く、ちょっと泥臭い、でも脂身の多い魚で、確かにこれを入れるとスープに深みが出てくるのだ。これは国内の流通網の発達が可能にした、ラパスという都市での出会いものの料理だ。カラチとサバロが出会うことで、ワヤケという料理が一段また別の高みに到達するということなのだろう。レストランで食べるとかではない、日常の庶民の料理の中にこういう理屈を発見すると、ちょっと嬉しくなってしまう。

それにしても、私のよく行くこの屋台、ここは量を作るから、カラチやサバロに加えてトルゥチャやペヘレイも入れるから、スープの味がそれだけでとても美味しくなって、なかなか自分で作ってもこれに勝てない。すっかり常連さんになってしまった。

miércoles, 25 de julio de 2012

『アイヌ民族』副読本 修正問題(資料)

ここしばらく問題になり続けていた『アイヌ民族』副読本の修正をアイヌ文化振興・研究推進機構が決定し、執筆者らを含めた強い反対が表明された結果これが撤回された問題で、そもそもの修正箇所の一覧がインターネット上に見つからなかったのですが、ツイッター上で成田英敏@asirsoさんから丁寧な情報提供を頂きました。他の方々の役に立つかもしれないので、以下に転載します。
参考資料:
北海道新聞「アイヌ副読本 全面見直し撤回へ 推進機構」(7月25日)
北海道新聞「(社説)アイヌ副読本 混乱招いた定見のなさ」(7月19日)
北海道新聞「書き換え部分を復活へ アイヌ民族副読本 推進機構が陳謝」(7月17日)
アイヌ民族情報センター活動誌ホームページ

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副読本『アイヌ民族:歴史と現在-未来を共に生きるために-』修正表


〈中学生用〉
1.P14 [現行] アイヌの少年が注文したマキリ(小刀)のことで和人の鍛冶屋と言い争いになり、鍛冶屋がアイヌの少年を殺してしまったことである。
[修正案] アイヌの男性が注文したマキリ(小刀)のことで和人の鍛冶屋と言い争いになり、鍛冶屋がアイヌの男性を殺してしまったことである。


2.P22 [現行] 政府は蝦夷地を北海道と改称し、一方的に日本の一部として本格的な統治と開拓に乗り出した。 
[修正案] 政府は蝦夷地を北海道と改称し、本格的な統治と開拓に乗り出した。


3.P26囲み [現行] しかし、アイヌの人たちが北海道だけではなく日本各地に住むようになっているにも関わらず、この政策は国ではなく、北海道が行うため、これらの制度は北海道内だけで実施されるという矛盾を生んでいる。
[修正案] しかし、アイヌの人たちは北海道だけではなく日本各地に住んでいるが、これらの制度は北海道内だけで実施されている。


4.P28 [現行] 現在、日本国民には、和人、アイヌ民族、ウイルタ、在日韓国、朝鮮人、さらには世界の各地に出自を持つさまざまな民族が含まれている。 
[修正案] 現在の日本国民には、先住民族であるアイヌ民族や世界の各地に出自を持つさまざまな人たちが含まれているからである。


5.P42年表 [現行] 1854(安政元)年 日露和親条約締結 
[修正案] 1855年(安政元)年 日露通好条約締結


〈小学生用〉
6.P14 [現行] カムイは、日本語の神や仏のように、人間の上に立つ「えらい者」として、ただ「おがむ」というものではなく、いろいろな役わりを果たすために自然や物にすがたを変えて人間の世界にいるものだと考えていたのです。
[修正案] アイヌの人たちは、カムイは人間の役に立つために自然や動植物、物にすがたを変えて人間の世界にいると考えたのです。


7.P27 [現行] アイヌの少年 
[修正案] アイヌの男性


8.P34 [現行] 1850年ころ、北海道のほとんどの場所に、アイヌの人たちが住んでいました。しかし、1869年に日本政府は、この島を「北海道」と呼ぶように決め、アイヌの人たちにことわりなく、一方的に日本の一部としました。そして、アイヌ民族を日本国民だとしたのです。しかし、日本の国はアイヌ民族を「旧土人」と呼び、差別し続けました。
[修正案] 1869年に政府は、それまで蝦夷地と呼んでいた島を「北海道」と呼ぶように決めました。この時、北海道には多くのアイヌの人たちが住んでいましたが、政府はアイヌの人たちを「平民」として戸籍を作り日本国民としました。しかし、アイヌの人たちを「旧土人」と呼び差別的な扱いをしました。


9.P40囲み [現行] こぼれ話 
[修正案] 削除


10.P41 [現行] ・・・抗議してきました。アイヌ民族のうったえによって1997年に②だけは「アイヌ文化振興法」とよばれる法律になりました。 
[修正案] ・・・抗議してきました。1997年に②だけは「アイヌ文化振興法」とよばれる法律になりました。


11.P47写真 [現行] 写真3-14: 国連「世界の先住民の国際年」・・・ ・・・世界中の人が集まって話し合う場で、毎年多くの先住民族と会議を開いたり、文化交流を深めてきました。そして、世界70カ国以上・・・
[修正案]  写真3-14: 国連「世界の先住民の国際年」・・・ ・・・世界の国々の代表の人たちが集まって話し合う場で、毎年多くの先住民族が集まって開かれる会議に参加したり、文化交流を深めてきました。世界70カ国以上・・・

lunes, 23 de julio de 2012

「貧しさ」とお祭りで踊ること

実際に「途上国」と呼ばれる場所で人々と時間を共にする生活を始めると、まずは「貧しい」「貧困」というのが実はよく分からないのだということに気付いて、「途上国」とか「貧困」という考え方にとても慎重になる。人々はそれぞれの生活を生きているのであって、社会はそれぞれの理屈で動いている。これはフィールドワークに近いことをやる人々が通る通過儀礼のようなものだ。(そしてその過程で段々と他の人たちと話も意見も合わなくなってくる。)ただそれでも…。

うちの家族の長女は、去年からエルアルト市で、北部パンド県のコビハ市やベニ県のリベラルタ市を中心とする低地との間の長距離トラック輸送の世界で仕事をし始めた。最初働いていた会社があまりにきつくて、若い人たちだけで独立して、仲間割れして喧嘩別れをして、ほぼ一人で色々と調整をしたりして、そのうち最初の会社のライバル会社に雇われて今に至る。長距離トラックの運転手たちは勿論一筋縄ではなく、喧嘩腰で荷物と出発の調整をしなくてはならない。たまに顔を見に行くと、ご飯を一緒に食べていてもひっきりなしで携帯が鳴り続けて、この子は怒鳴り続けている。

元々喧嘩っ早い、性格の強い子だったのだけれど、家族のうまく行かなかった、自分の人生のうまく行かなかったあれこれとその割り切れなさを、そういう世界に対してぶつけているのかなと思うことがある。

今日はその子の誕生日。元々子どもたちの誕生日を忘れることで評判の悪い私が、今年だけはちゃんと全員お祝いしようと思って、ケーキは自分が用意をして、帰れたら帰っておいでと伝えておいた。直前になって「仕事でちょっと困ったことになっていて、一時間遅れるけど必ず帰るから」と連絡が来て、そしてその後に電話がまったくつながらなくなった。この家族の家はラパス市内でも治安のよくない地域なので、「あとで楽しむんだよ」と言い残して先に帰って来た。

一番下の子はひどい風邪を引いていて、お母さんは過労も響いて慢性的な体調の悪さだ。

そんな中で、私は週末に友人の村の祭りに行って、モレナダ(morenada)と呼ばれる踊りを踊ってきたのであった。

うちの家族は祭りで踊ったことのある人がまったくいない。それはもちろん衣装代や参加代が払えないからだが、それだけではなくて、下に見られるから社交とか親戚づきあいとかに積極的にならないという面もある。私がお祭りとか踊りとかにあまり研究者としても積極的になれないのは、やはりそこから排除されている側にいることが多いことと、強くつながっている。そんなこと言っている場合じゃないよという感じが、やはり自分の根本にある。

(これは広い意味で、貧困を「社会資本(social capital)」の欠如としてとらえる考え方を、実地でいっていることになる。)

それでも、今年僕が踊ることを家族の皆が楽しみにしてくれているから、もう一度踊るけどね。見に来てくれるならば、それは嬉しいよ。


お話の遠くこちら側で

週末に友人が住む村のお祭りに行っていて、そこに料理の手伝いに来ていたおばあちゃんとの間のやり取りに、印象的なものがあった。

私はもともと口承文学(お話)に興味を持っているので、「ここではどんな話が話されるの?(Kuna kuñtunakas utji akanx.)」と聞いてみたら、要は「知っているけどお前には話さないよ」と言われたのだけれど、その時に実際には
Janiw intintsmati, janiw kuntistsmati.
と言われたのだ。

制度的なものをバックにせずに、訥々としたアイマラ語で、日常生活の中でお話を聞くのは、実は非常に難しい(はず)なので、断られたこと自体はとてもよく分かるのだけれど、このおばあちゃんの答えは実に深い言葉であるように私には思えた。

これ実はアイマラ語の動詞は両方ともスペイン語起源で、intintiñaはentenderから、kuntistañaはcontestarから来ているのだけれど、大体「お前には分らないだろうし、言葉を返すこともできないよ」と言っているのだ。ちなみに末尾の-tiが否定で(この場合途中で-k(a)が省略されている…全部ちゃんと言うと例えばintintksmatiとなる)、-smaはdesiderativoと呼ばれる推量の意味と可能の意味を両方持つ接尾辞の2人称の形だ。

(-smaは実は現在/過去形の1→2相互行為人称(私があなたに)でもあって、このおばあちゃんはスペイン語を話すときにほぼすべて3人称で通すので、その直前にこのスペイン語の話は誰のことなのだろうとしばらく悩んでいた私は、ここでもこれは私のことを言っているのだとちゃんと気付くまでにしばらく考え込んでいた。)

ちなみにあまりに考え込んでしまって、その後に直接「どういう風に言葉を返せばいいのかな(Kunjams kuntistañaxa)」と無粋なことを聞いてしまったら、ちゃんと答えてくれて
Aymarat parlaña, janiw kastillanuta.
と言ってくれた。これは「アイマラ語で話さないといけなくて、スペイン語ではダメだ」ということ。

ここまでお互いに一応アイマラ語で話しているのだが、もちろんそういうことではない。私のアイマラ語の水準と、よそ者のステータスと振る舞い方が組み合わさって、これはアイマラ語で話していることになっていないのだ。

(1)そんなに簡単に人に話すものではない。
(2)お話は対話の中で聞いていくものであって、うまく受け答えができないといけない
(この二番目の点は専門的にはMannheim and van FleetによるAmerican Ethnologistの論文で指摘されています。)

だからお話のアイマラ語は、言語の技術と本人の思いとが合わさった、大事な大事なアイマラ語なのだ。私がいつも教わったりしている渓谷部よりも高原部の方がハードルが高いような気がするけれど、私は何かから遠くとおく離れた所で何かをかすっているだけなのだ。話をしてもらっていると、話をしてもらえないことを忘れ始めるが、話をしてもらえないことの方が本当は大元にないといけない。そうしないと「いま」を見失ってしまうような気がする。

別々の山が司る領域

ペルー南部からボリビア西部にかけて形成されているアルティプラノは、文字通り(alto y plano)には「高原」なのだけれど、実はそれほど平らなわけではない。エルアルト(El Alto)市(高度4,100m)からビアチャ(Viacha)市を通り抜けて、SOBOCEのセメント工場を右側から回り込むように入っていく街道に入ると、しばらくしたところからぐんぐん高度を上げていく。ティワナクの遺跡からペルー国境のデスアグアデロ(Desaguadero)市に向かう街道も、エルアルトを出た所で切り通しのような場所を通るので、そういうことかと思ったら、さらにぐんぐんと上っていく。

天井に荷物満載かつ人も満員の何十年前に造られたかというようなメルセデス・ベンツのバスは、喘いで喘いで走る。同行している友人は道端の湧水の場所を正確に知っていて、そこでとまってボンネットを開けてモーターを冷やす。

そのうち、"Apachitankasktanwa"(我々はアパチェタを通っているよ)と友人が回って来て耳打ちをしてくれる。小高い所が聖なる場所(アパチェタ)になっていて、これ自体ぼくはそれほどよく分からないのだが、十字架が立っていて小さな祠のような場所が作られている。前後を見渡してみてハッとする。後ろにはイリマニ(Illimani)とムルラタ(Mururata)の山々が遥かにエルアルトの向こう側にあり、前方にはサハマ(Sajama)の山がその特徴的な形で遠くに雪を頂いて見えている。ここからパカヘス(Pacajes)郡に入っていくのだけれど、そうか、ここは別々の山が司る領域の境い目なのかと気付いて、しかもその峠だけは両方が見える特権的な場所だけに、その重要さは身に染みて感じられる。
(後ろ側にはワイナ・ポトシ(Huayna Potosí)の山もあるのだが、たまたまそれは見えなかった。)

地形が複雑なアンデス地域では、新しい場所を知ると、そしてそれをそこに住み続けている人とともに知ると、ハッとするような地形の感覚が身体で獲得されることがあって、これはまたその一つであった。