sábado, 1 de septiembre de 2018

植民地主義に抗して……(?)

わたしはボリビアでも、ペルーでも家族の中でポジションをもらってきた。本来はカトリックの枠内での疑似親族関係として始まったものが、どの人の息子なのかというそれぞれの家族で少し違う位置づけをもらい、家族の中で起きる色々なことに深く関わらせてもらい、話を聞かせてもらい、一緒に笑ったり泣いたりしながら、それぞれの社会の現実の感覚を育ててきた。

ボリビアではアイマラ先住民団体の中で、ほとんど組織の一員のようなポジションをもらっている。何をもって正式な構成員とするかという規約の問題は、議論に決着がついていないのだが、でも大体の人は私がその団体の一員だと言ってくれるだろう。先住民主義とは、先住民としての物の考え方は何か、という問いを第一に置く議論の中から、私はそれこそ研究者としての自己形成を含めて、多くのことを学んできた。

それは、私がそのようなスタイルが自分に合っていたということでもあれば、地域研究や人類学が批判されてきた植民地主義に自分も何かで抗いたいという思いがあったのだろう。植民地主義から自分が脱却できているとは思わない。それは研究費をもらって調査をしている研究者であり、日本という現代でもまだ経済的プレゼンスのある国を背景に持っていることからも、必然的に自分が置かれるポジションでもある。でも、少なくとも境界領域まで出ることはできたかもしれない、反対側から世界を見ようとすることができたかもしれない、とも思う。

しかし、それは研究者としてどのような研究をすべきなのか、という問いをさらに困難にしていくことになった。

また、私は本来、数年おきにフィールドを変えていくタイプの現地調査の研究を避けたいと思っていた。そもそも、国際開発協力や外交の実務ではなく、研究者になろうとしたのは、人事の意向で居場所を移っていかないといけないことを避けるためであった。しかし、日本の大学で仕事をするようになって、非常に不完全な形ではあれ、フィールドを二つ増やすことになっていった。 そういう中で、果たして私は「初志」へと何度も立ち返ることができているのだろうか。

それでも、まだ、この地点にいられることは、嬉しい。「ラ・クンブレ(La Cumbre)」と呼ばれるボリビアのラ・パス市と亜熱帯のユンガス地方を結ぶ道の、アンデスの東側山系を超える峠越えの高地で、8月のパチャママ(大地の母神)に対する捧げ物の儀式に参加しながら、改めてそう思った。この場所に戻ってこられて、嬉しい。



ボリビア・ラパスの「テレフェリコ」と文明のさらなる多層化

テレフェリコ(teleférico)というのは、要するにロープウェイのことで、ボリビア政府がラ・パス市に導入しつつある交通システムである。エル・アルト市の7月16日市場の入り口からラ・パス市の中央墓地と中央駅を結ぶ最初の「リネア・ロハ(línea roja、赤路線)」が開通したのが、2014年のことだから、まだ4年目のことでしかない。通常ロープウェイというと登山地などのように一箇所にあるものを思い描くが、そうではなくて、市内各所を広域にロープ―ウェイで結ぶ仕組みである。全体が完成すると、全ての路線がネットワークとして互いに結ばれることになる。このような仕組みは、世界でも例がないようだ。

街自体が大きな標高差を内包し、道路での移動が複雑を極め、幹線道路が渋滞しやすい、このラ・パスの街において、テレフェリコは直線的な移動を可能にし、また空中から街を眺めることを可能にする。値段は、従来からの交通手段であるバスに乗る場合に比べて若干高いが、かかる時間は大体の場合にバスよりも速いことが多い。したがって、従来からのバスの乗客が、テレフェリコとバスに二極化していくということが起きている。(もちろん、路線が遥かに多いバスがテレフェリコを補完するという側面も、確実にある。)

ラ・パス市の新たな顔となり、観光客にも大人気のこのテレフェリコ、しかしこれは実にシュールな形態である。

テレフェリコの駅は実に近代的な様式を備えていて、設備が充実していて、バリアフリーが実現されている。設備として例えば、この街にほとんど存在しないエスカレーターがたまにあり、私はこれまでに(バランスを崩すのではないかと思って)怖くてエスカレーターに乗れなくなっている人に、後ろから支えて乗るのを手伝ってあげたことが、何回かある。しかしこれが、それまでと変わらないラ・パスとエル・アルトの街の中に突然出現するわけである。

エル・アルト市では、商人の露店が並ぶある種の1980年代以降のインフォーマル・セクターが急拡大した後のボリビアの典型的な街の情景の上を、高速ロープウェイが通り過ぎていく。横のビルの部屋のなかや、家の上を通るときは、屋上や中庭の様子や干してある洗濯物が丸見えだ。よくこんなところを通せたなと思うようなところを、テレフェリコは進んでいく。


すなわち、このテレフェリコは社会が全体として変わっていく象徴としてあるのでは必ずしもなく、むしろそれまで営まれていた社会に対し、いきなり上乗せされるようにして導入されているのだ。これは、不安定な上乗せによる文化の変容、あるいは文明の多層性ということになるか。ラテンアメリカの文化を議論する際には、異なる時代の要素が折り合いのつくことなく積み重なっている、という考え方をすることが頻繁にあるが、このテレフェリコもまさにこの文明の多層化の典型事例なのではないだろうか、と思いながら、高所恐怖症を何年かかけて克服した私は、今では積極的にテレフェリコに乗ってみるようにしている。

viernes, 31 de agosto de 2018

墓地の柔らかな光の中で

アンデス高地の強烈な日差しも、ボリビアのラ・パス市の中央墓地に夕方差し込んでくる光は、それとなく柔らかいような気がする。

この社会には、赤ちゃんが死にかかっていると、「イエス様がその子を側に置きたがっているのだ」と考える習慣が存在する。 私は敬愛する人類学者のナンシー・シェパー・ヒューズと同様に、その考え方に抗って、その子どもの命を助けようと介入した。子どもの周りの家族は、皆が助けようとしていた。彼女が書いているのと違うのは、彼女の場合は子どもは助かり、私の場合は助からなかったということだ。

まがりなりにも、この家族のなかに私は位置をもらっているから、私は未だに、あの時にこうすれば違ったのではないかと、頭の中で何度も思い返している。何年も、何十年も、私とこの家族との間でずっと時間を一緒に過ごせるはずだったのに。でも、この墓地に来ると、数多くの死の現実の前で、心が静まり返り、穏やかになる。

この子が、本当にイエス様のそばに置いてもらえているといい。
苦しませてごめん。ほんの一瞬だけでも、私と一緒にいてくれて、ありがとう。



miércoles, 29 de agosto de 2018

アンデス研究における私の原点

私はアンデス世界に関わるときに、ある種の原点のようなものがある。それは、アンデスの村の小さく昼なお暗い家屋の中で、日常的に、あるいは一日の仕事が終わって人々が帰ってきたあとで、皆がアイマラ語で、あるいはケチュア語でよもやま話をしている、その先住民言語が話される、語りの世界に、私は惹かれたのだった。

もともとアカデミックな部分での出発点としては、ある種のレベルの違う関心を私は抱えていて、よりマクロな社会科学や国際開発協力政策に関心をもっていたために、いまだにそこの断絶がうまく架橋できていない面があるが、でもアンデスの人々の日常に関わる際の私の原風景は確実にそこにあるのだ。

昨年から試行錯誤をしながらアイマラ語の日常会話の調査と記録をし始めている。そして、ケチュア語でも、元々20代を通じて通い、そして論文を一本も書くことがなかった、ペルーのクスコの山の高い村々の世界へと戻る準備をし始めている(昨年一度行き、今年から徐々に通えるようにしようと思っている)。私は確実に原点へと戻ろうとしている。だから、こんなところで、諦めてはいけないんだ。

先住民言語を「教わる」ことの難しさ

つい最近、研究仲間の佐藤正樹さんからアイマラ語を教えてくれる人を紹介してくれないかと相談を受け、これにどうにもうまく答えあぐねてから、それがなぜなのかを考え続けていた。

同じ話者数の多い広域言語ということで、まずは隣のケチュア語の南部方言と比較してみよう(注意:南部方言とはペルーのアヤクーチョ以南を指す)。ケチュア語の場合、ペルーにおいてもボリビアにおいても、「教育」の担い手に多く見られるのは、かつての農村での地主階層であった人(特に女性)で、農地改革などで都市に出てきて自分の知識を生かした職として従事していることが多いように思う。そして、リマの大学や、アメリカ合衆国やイギリスなどの先進国の大学と、そしてかつては解放の神学を担うカトリック教会と、広く結びつきをもちながら、専門的な教育の形成がなされてきたように思う。教材としても、文法重視の初期の形態から、プラグマティクスの重視からコミュニケーションとアクティビティの重視へと変遷し、そして実際の人々のインタビューをもとにした教材なども既に世に出回っている。

(私がクスコでケチュア語を教わったのは、Instituto Pastoral Andinaという解放の神学系のNGO・研究所で、 そこでケチュア語を教わった日本人は何人もいるが、私がおそらく最後の世代に属しているはずだと思う。その後のカトリック教会の右傾化で、この研究所の活動は衰退してしまった。)

これがアイマラ語においては、どうも見られない。本来元々の社会状況(農村のアシエンダ領主を含めたエリート層がアイマラ語を理解し、用いていたこと)は変らないはずなのだが、アイマラ語の教育を含めた専門的な仕事を担ってきたのは、アイマラの人々自身なのだ。これは、とても興味深い現象で、おそらくアイマラ先住民運動の強さが背景としてあって、私は基本的にこの状況を高く評価している。ボリビアのアンデス高地は、アイマラ語自体をよくしゃべることができないまま、研究をして偉そうにしようとする言語学者に対する拒絶反応があからさまに示される社会でもあり、私は基本的にこの状況も高く評価している。

しかし、これはこれで様々な困難を生む。まず基本のターゲットが、既にアイマラ語が分らなくなったアイマラの人々自身に向いている(そしてこれ自体は全く悪いことではない)。しかし、本当の基礎の基礎の部分を超えたところで、どう教えればよいかを、実は誰もよく分かっていないのだ。 1960年代にフロリダ大学がアイマラ語の母語話者とともに開発したプログラムも基礎的な形のパターン練習と、より自由な会話教材との間のレベルの断絶という問題を抱え(後者にはほとんど説明がついていない)、それ以降は中級の部分にまともに向き合おうとした教材自体が開発されていない。私の先生であったフアン・デ・ディオス・ヤピータは、教育方法と教材開発において先駆的な仕事をしてきたが、でもそれも基礎のパターン練習という段階にとどまっている。そして、アイマラ語の教育に従事する人の世代交代が進行中だが、なかなかアイマラ語教育だけで食べていくことは難しい業界事情から、教育者としての専門性を高める方向にはなかなか向かっていかない。

(私がアイマラ語を教わった頃も、教師として外で推薦されているのは、私の先生だったフアン・デ・ディオス・ヤピータ一択で、私はイギリス人の人類学者のオリビア・ハリスという人と話しているときに、この人のことを教えてもらった。しかし、もう先生はご高齢で表立っては教える場面に顔を出していないようだ。)

でもしかし、人々自身は、自らが話す言語についていろいろと振り返って考えていて、実はよく分かっているし、よく分からないことを考えたりもしているのだ。

つまり、すぐ出だしのところから、学習者にはかなりの心構えが必要だ。それは相手に説明を求めるのではなく、教わる相手とともに言葉の世界を探っていこうとする姿勢だ。これが実に難しい。
(これは実はフィールドワークとよく似ていて、フィールドワークで相手に学術的な質問をそのままぶつけても、まともな答えが返ってくるはずがない。そうではなくて、自分で学びながら折に触れて相手が発してくる言葉をどう受け止めるかが問題になる。でもこれも、相当な訓練を積まないと、本当に難しい。この二つのことは、実によく似ている。)

さて、ここまで見てくると、実はケチュア語も似たような問題を抱えていることが分かってくる。教材の世界は発達してきたが、それはスペイン語との二言語話者(バイリンガル)の人の世界において開発されたもので、ここでの言葉とケチュア語の単一言語話者(ものリンガル)の人々の言葉との間に断絶が存在することが、研究の世界ではとみに指摘されるようになってきた。すなわち、広い意味でケチュア語を学ぶ場合にも、全く同じ問題が存在するのだ。私はアンデス先住民言語について大学で授業をする際に、これを「ケチュア語は誰のものなのか」問題として解説を展開するが、ケチュア語は現代でも複数の社会階層に形を変えて共有されていて、その中に権力と支配の構造が存在しているのだ。

つまり、一見するとケチュア語の方が教わりやすいと答えてしまいそうになるのだが、そういうことでもない、ということになる。さらには、これは実際に日常の活動を通じて人々と関わる先住民言語の場合には、顕著に問題として現れるが、実はよく学ばれている世界の強力な言語群を学習する際にも、同じ問題が存在しているのかもしれない。

ちなみに、そのように考えてくると、アイヌ語における田村すず子さんや、私の先生の中川裕さんの仕事というのは、本当にすごい。中級のところまで、文法の解説と練習でカバーしようと試みる教材を残すというのは、やはり日本社会での言語の学習の仕方と受け止め方の蓄積がもとになっているということになるだろうか。だとすると、私はもっともっとがんばらないといけないことになるのだが、現代の大学の内部の仕事の煩雑化は、本当にこういうことへの取り組みへの阻害要因になる。それでも、それでも……。

参考情報
アイマラ語を学ぶためのオンライン教材で信頼できるものとしては、以下の2つがある
(1)フロリダ大学のアイマラ語教材開発プロジェクト(Aymara Language Materials Project)がオンライン化されたもの
http://aymara.ufl.edu/
(2)カリフォルニア大学サンディエゴ校からの資金援助を受けて、現地のアイマラ言語文化研究所(Instituto de Lengua y Cultura Aymara, ILCA)が開発した教材。米国の大学生の夏季プログラムの受け入れの際に用いられている。
http://www.ilcanet.org/ciberaymara/
その他、長期滞在する人は国立サンアンドレス大学(Universidad Mayor de San Andrés)の授業や、アイマラ語放送局ラジオ・サン・ガブリエル(Radio San Gabriel)のアイマラの若者向けのアイマラ語集中講習を受講したりなどしている。

jueves, 14 de junio de 2018

言語習得とAI

わたしは言語習得と技術の関係があまり得意ではないのだが、でも将棋の世界が人工知能(AI)にどのように対応しようとしているかは興味深く見ていて(羽生善治さんが書籍も含めて積極的に発言されている)、これは言語の習得や異言語間のやり取りの未来についても、いろいろと示唆してくれるところが大きいと思う。

人間がAIと対峙する未来の方が、AIが人間の必要を全て適えてくれる未来よりもリアルに思える。つまり、自動翻訳の技術が進めば他の言語を学ばなくても良いよねという未来は、ビジネスの定型化されたやり取りのごく薄い層を除けば、人間としてはあまり想像できない。

それは比較的一対一の置き換えが楽なものばかりではなく、どう説明するかを皆で議論し合うような単語もあるからで(大学のスペイン語教員の間でよく話題になるのは例えば「部活の合宿」をスペイン語でどう説明するか)、唯一の正解がないとすると言語と翻訳のリテラシーがないと判断できないからだ。

AIが人間の思考回路を外れた予想外の「こう言えばいいんじゃない?」を提案してきて、それを前にした人間がああだこうだ議論する未来は、既に英語だとたまに散見されるようになってきているが、とても楽しみだと思う。 羽生さんが着目している、人間をうまくアシストできるAIというのも面白いし、それが最もハードルが高いというのも興味深い。でも、それはAIが人間に取って替わる未来ではなく、人間がAIに対峙し、どういう関係を築くかを考える未来で、たぶん残念ながら

ビジネスに役立つからという意味で英語を学ばなければ、みたいな学習動機は少し減って、全体で言語の学習者が少し減るかもしれない。
でもたぶん外交での翻訳がAIに取って替わられることは考えにくい。アシストされるにしても、最後は人間が責任をもって決める必要があるからだ。
重要な交渉と決定事は、自動翻訳がつなぐ会議ではなく、その前後で行われる皆で同じ言語で話す会議で決められる、というのは様々な分野で残るのではないか。

でも、AIが言語を学習できるようになると、既に日常生活で使われなくなった言語、すなわちネイティブスピーカーに確認できなくなった言語についても、実際に使おうとしたときに出てくる細かい「こう言っちゃっていいのかな?」という疑問を、人間と一緒に考えてくれるようになったりしないかな。それが実現する未来があるとすれば、それはラディカルに言語間の平等性が実現する未来でもあるよね。

sábado, 12 de mayo de 2018

一文一文を……

ケチュア語で、アイヌ語で、スペイン語で、一文一文を読んで、丁寧に言葉を、思考の運動を、議論して、辿っていける場をもつことの幸せ。そこで(言葉がそれほどできなくても笑)、自分にとって当たり前ではない現実を前に、何でこんなことになるんだろうと面白がって、いろいろと聞こうと考えてくれる学生がいることの幸せ。それは、そんなに人数がいなくたって、全然いいのだ。

そのことを忘れそうになる。私立大学は元々教員一人当たりの学生数が多いので、気づかないうちに学生数が多いことが当たり前になってしまうのだ。そうではない。丁寧に学生には接したいが、人気取り合戦をしているわけでは、全くないのだ。

jueves, 8 de febrero de 2018

誰に向けて書くのか?

研究論文を書いている際に、私はしばしば、ある特定の人に向かって書いている。それは、論文の中の一つの断片であることもあるが、論文全体であることもある。脚本家の人でも特定の役者さんを想定した「宛て書き」をすることがあるというが、それと少し似ているだろうか。その人に読ませたい。元々その人がそういう風に考えていないような立論であったとしても、それは面白いね、と思ってもらいたい。

それは、学問的にある一点を突破しようとする際に、併せて読者としてその時の特定の対話相手を想定して書いている、ということなのだろう。

でもそれには短所がある。私は、より広い読者を想定していないことがある。そこに元々関心がない人も取り込んで、引き寄せて議論を展開しているか、と問われれば、そういうことを多分私は考えていない。

論文にはある種の文体があるので、それに乗っかっている限りはすぐに表面化してくる問題ではないのだが、そういうことに寄りかからないで書こうと思うと、同時に複数の人を想定して、多様な人たちに宛てることが必要になる。これは、それなりに難しい課題だ。でもそれが課題だと気づくに至ったということは、それ自体が一歩前進でもあるだろうね。