viernes, 7 de enero de 2022

【アイヌ語口承文学の名言その5】こっちの水はあ~まい、かな?

鹿戸ヨシ(高橋規訳注)「新冠川を遡上しなくなったサケ神の物語」 『アイヌ民話』(アイヌ無形民俗文化財記録慣行シリーズ1、北海道教育委員会、1988年、pp.79-95。[新冠のアイヌ語] 

ふだんは人間とは異なるカムイのくに(カムイ モシㇼ)に住んでいるカムイたちにとって、人間のくに(アイヌ モシㇼ)はたいへん魅力的な場所であり、ぜひとも訪れたいと思っているのだという。この物語の主人公であるサケとその仲間たちも、そうして人間の村へと川を遡上しようとする。

サケヘ(リフレイン)V=ciw pererun pererun
V ci=utarihi / V ci=ruppakehe / ci=rupkesehe / V [o] tup terke / [o] rep terke / V arki=as ayne / V Pipok putuhu / V arki=as ruwe ne / V ci=utarihi / konkane pisakku / sirokane pisakku / V sapte ki wa / wakka sapte (p.87、[o]は音節数を埋めるための虚辞、また表記を一部変更した)
(私たちの仲間は 群れの先頭が 群れの末尾が 二つの跳ね 三つの跳ね(して) やって来たあげくに 新冠川の川口に やって来るのです。 私たちの仲間は 黄金の柄杓 白銀の柄杓を 取り出して 水を汲んで)

このサケの群れは、先に鵡川に行き、厚別川にも行き、水の味がまずい(ケラハ ウェン)と言いながら、新冠川へとやって来る。ここでは味が良い(ケラアン)と言って遡上していく。現実には鵡川も厚別川もサケが上るみたいなので、これはある意味「おくに自慢」の物語であって、語り手の人が新冠の人だから新冠川が選ばれることになるのではないかなと思う。

さて、サケの方で人間とその世界を選んでくれたとしても、人間の側の応対がまずくてはいけない。突き銛(マレㇰ)でとり、柳で作った魚打ち棒(スス イサパキㇰニ)で魚の頭を叩いていれば、自らのカムイとしての格が高まる(ヤイカムイネレ)と言って、魚たちはたいへん喜ぶ。しかし、 突き銛(マレㇰ)でとりつつも、その後で草刈り鎌(イヨㇰペ)で叩いてしまうと、これは本来は魔物(ウェンカムイ)を叩くのに使うものなので、泣きながら腹を立てて戻って行ってしまい、それ以降群れが遡上しなくなってしまうのだという。

こういう、ある種の二部構成の物語(サケが遡上する川を選ぶ部分と、人間によるサケの扱い方を比べる部分から成る)は、一つの話で二回おいしいということかなと、私は考えている。さらには、カムイから見てどの人間の生活世界(川筋)を選ぶかという部分と、人間から見てカムイをどう扱うかという、対称的・対照的な構成になっているとも言えよう。このような物語の組み立ての妙を味わいたい。



 

jueves, 6 de enero de 2022

雪によって正月休みを締めくくる

この1月初めの時期にここまで寒くなり、雪がこれだけ降るのも、かなり久しぶりなのではないかと思うくらいだ。私は勤務先のキャンパスの冬の景色が好きで、すべてが削ぎ落されて「しん」としている。 

新しい年が始まっても、自分自身はそんなに新しくはなれない。でも、この雪に便乗して削ぎ落して、もう一度、あともう一度。



 

martes, 4 de enero de 2022

【アイヌ語口承文学の名言その4】往来しているのは人間だけじゃなくて、背後を守るカムイも一緒に往来しているのだから

黒川トヨ(藤村久和訳注)「欠けた小鍋の教えで立身した少女の話」 『トゥイタㇰ(昔語り)3』北海道教育委員会、2000年、pp.143-186。[沙流のアイヌ語(貫気別)]

地域の有力者が亡くなった際には、周辺の村々からも弔問客が訪れる。その際には、貧富の差が露わになり、貧しい身なりの者たちが心無い言葉をかけられるということもあったのであろう。しかしながら、そのような人間の扱いに差をつけることを戒め、全員を迎え入れようとする言葉もあるのだ。次にとりあげるのは、そのような言葉である。

"nep ne wenkur hene nep hene yakka itupesnu wa i=koasuttasa sir ne wa aynu patek apkas sir ka somo ne. kamuy ka itura kane wa apkas ne kusu iteki neno hawasnu neno hawsakka ahun ahun"
(どんな貧乏人でも(どこの)誰であっても死者を悼んで我々の所に弔問に訪れているのであって、人間ばかりが往来しているのではない。憑神さまも人と一緒になって往来しているのだから、決してそんなことを言わずに、そんなことを言わないで、[家の中に]入った入った)(p.158)

この散文説話(ウエペケㇾ)の主人公の娘は貧しい暮らしの中で育っていたが、川下に住む長者の家の青年が、鹿の片足を分けてくれるなどして、彼女たちの生活を助けていた。その青年が急な病で亡くなったというので、主人公の娘が一族とともに弔問に訪れている場面である。それぞれの人に憑いているカムイがいて、カムイは力をもち、敬うべきものでもあるから、人を暮らしぶりや外見だけで判断してはいけない、というようにこの言葉を受け取ればよいだろうか。

ちなみにこの物語、主人公の娘がその弔問で訪れた家で困っているあいだに、戸口にたくさんある鍋の一つが動き出して、その鍋が娘に向かって話し出す。その鍋が教えてくれるには、実は長者が悪気があってではないが家の外にゴミの山を作っていて、そこに魔物(アㇻウェンカムイ アㇻカミアㇱ)が潜り込んでいて、その魔物(女性らしい)が青年の魂(ラマチ)を奪ってゴミの下に隠しているのであった。娘がこのことを述べ立て、村の若者たちがそのゴミの山を片づけると、実際に長者の青年の魂の玉(タマヌㇺ)が出てきて、それで彼を生き返らせることに成功し、娘はたいそう感謝をされ、この青年と結婚することになる。

このようにカムイとこの世界で直接会話をすることのできる娘は、ただものではない。通常は、人間はこの人間のくに(アイヌ モシㇼ)では、夢を通してしかカムイとコミュニケーションをとることはできないことになっているからだ。後から、この娘が幼い頃に水のカムイ(ワッカ ウㇱ カムイ)の遊び相手となっていたのであり、カムイの血筋を引く者として水のカムイに目をかけてもらっていたのであったことが明かされる。件の青年もカムイの血筋を引く者であった。娘は、水のカムイからカムイの肌着(カムイ モウㇽ)を授けられ、巫術(ウエインカㇻ)の能力をもって村で大事にされて生きていくことになる。

散文説話では、上に示したようなある種の社会生活の指針のような言葉が出てきておもしろいが、同時にこの物語はとても独特な展開を見せている。研究者のあいだでも話題になっているが、沙流川筋でもこの黒川家の一族には、とても不思議な物語が伝承されていたことが次第に明らかになってきており、まだまだアイヌ語の物語世界への興味は尽きない。