miércoles, 22 de diciembre de 2021

旧道から見える風景

辻堂駅の方から勤務先の大学のキャンパスに向かう際に、旧道を通ると天気が良い日に富士山が見える場所が、何か所かある。しかし、本数が多くキャンパスの中に入るバスの路線は、3年ほど前から広くまっすぐ進む新道を通るようになり、旧道に入らなくなってしまった。

だから私はキャンパスの外側を回っていく、昔からのバスの路線に乗って通勤することが多い。この路線は一日に6本くらいしかなく、街中でも郊外の農地でもいろいろと細い道を縫うように通っていくので、運転が上手な人が運転手に配置されることも多く、景色を眺めているのも楽しい。新道を直進する路線よりも少し時間がかかるが、中学生や高校生はこの路線の存在自体に気づいていないので、常に座れるのもありがたい。

今日も富士山がきれいに見える。高圧線がちょっと邪魔だけど。




 

 

sábado, 18 de diciembre de 2021

【アイヌ語口承文学の名言その3】悲しさと悔しさにジタバタする

 (出典――四宅ヤエ「兄と夫を風の女神からとりもどしたある女性の話」藤村久和・若槻亨訳注『四宅ヤエ媼伝承――アイヌの神々の物語』藤田印刷エクセレントブックス、2018年。)

感情と行為のとても具体的な描写が強く印象に刻まれる、そのような語りもある。

この白糠の四宅ヤエさんが語った神謡(オイナ)では、主人公の女性が夫と兄と暮らしていて、この夫と兄は、狩猟で蓄えた鹿と熊の毛皮をもって交易(ウイマㇺ)に出かけていく。しかしこの二人はずっと帰って来ないので、主人公が心配して待っていると、ある日――

V [ay] pirka cip / V [ay] nisor_ ta / V [u] yan h_ike / V an=sikkote / V inkar=an h_ine
立派な舟が 空中を 陸に向かってやって来るのを 私は目をすえて じっと見ていると
(pp.180-181:Vはこのオイナの折り返し句でrera rera suy suy、[ ]内は音節数を合わせるための虚辞、表記と日本語訳を若干変更している)

そこには夫と兄が乗っていて、さらに「神なる淑女(カムイ カッケマッ)」がいる。このカムイの正体は物語の中でアイヌ語で示されてはいないが、この神なる淑女が風のカムイであることが、折り返し句や藤村さんの解説から分かる。このカムイが、立派な首飾り(カムイ イムタッ:四宅ヤエさんによれば「タマサイ」ではなくこのように物語では言うのだそうだ)と引き換えにこの二人を自分にくれるように、主人公の女性に言う。そして、女性がこれを拒否して、首飾りをバラバラにして投げ返すと、その舟は消えてしまう。続いて、この主人公は悲しさと悔しさにジタバタする――

V yup utari / V oya ipor / V an=ciskoterke / V an=tekporapora / V an=teksuyesuye / V ta sirki wa / V [u] mun kaske peka / V karkarse=an kane / V otappa aine
兄たちの 別人のような顔色に 私は泣き転がり 私は両手をばたつかせ 両手を空で振りまわし そのようにして 外庭の草原を 転げまわり 砂塵を巻きあげたあげくに
(pp.184-185)

情景が絵として目に浮かぶような表現だ。同時にここは、アイヌ語では、iporが兄たちの顔色なのに所属形ではなく概念形になっていたり、ciskoterke、tekporapora、teksuyesuyeのそれぞれの動詞が、自動詞でありそうなのに他動詞の人称接辞がついている(つまり直前のyup utari oya iporを目的語にとっていることになっている)のが、アイヌ語のかたちとしても気になる箇所である。

考えてみると、主人公が家を出て何かの冒険に巻き込まれ、かなりの期間家を空けてしまうという、家の外の目線から語られる物語の方が多く、家に残された側から語られる物語の方が少なくて、それで印象に残るのかもしれない。そして残された側から語られる物語の場合、夫や兄がカムイに連れて行かれてしまうことも多いのだが、さいわいこの物語では、夫と兄が無事に家に帰ってきて、主人公は元のくらしを取り戻し、夫とのあいだに子どもができ、兄も結婚して子どもができ、ということになる。