sábado, 15 de octubre de 2016

今日のひとこと(オハイオ州立大学の学内展示説明文)

The Andes and Amazonia have a long history of oral traditions. Even as native inhabitants engaged with Western writing, becoming more "lettered" since the time of contact, indigenous communities retained the art of story-telling and cultural production. Wisdom and meaning-making was and continues to be passed down from one generation to the next by way of practice, experience, and applied knowledge of the processes behind beautifully made things, rather than through conventional written texts. The absence of written documents has led some scholars and officials to characterize cultures in this region as a "people without history." This exhibit presents the perspective that indigenous communities are by no means deficient in historical and cultural texts; that narratives of their experiences are richly inscribed in tactile surfaces and performance traditions rather than on paper.
【私訳】
アンデスとアマゾニアには、口頭伝承の長い歴史が存在する。先住民の人々が、遭遇の時点を境にして西洋の文字を書き記すことに関与し、次第に「字を識って」いった一方で、先住民共同体は物語を語り、文化を生み出す態(わざ)を保持してきたのだ。知恵や意味の産出(物事の意味付け)は、以前も、そして現在も、伝統的な書かれたテクストを通してではなく、美しく作られた物の背後にある実践、経験、そして知識を応用する過程を通して、次の世代に対して伝承され続けている。文字で書かれた文書の不在は、学者と実務家の一部をして、この地域の文化を「歴史を持たない人々」として特徴づけさせることとなった。この展示では、先住民共同体が歴史や文化に関するテクストを欠いているわけでは決してなく、経験の語りが、紙ではなく、物質の蝕知できる表面や実演の伝統に刻み込まれているのだ、という見方を提示する。

これは、いま国際学会で訪れているオハイオ州立大学で、学生が主導権を取って、様々な教員の協力を取りつけながら開催したインタラクティヴな展示の説明文の、最初の段落。QRコードを読み込むと、様々な関連画像、映像、音声などで自分を取り囲むことができて、一つ一つの展示を文脈の中に戻して理解できるように、というのが目指されているのだそうだ。学生主導の企画があることもすごいし、国際学会の中に「実習」の時間があるのだが(様々なラテンアメリカの先住民言語の初歩をコミュニカティブに学んだり、オンライン教材の実演を見ることができる)、その時間の中に学生たちによる展示の説明が組み込まれているのも刺激的であった。

学会というものの難しさ

ラテンアメリカ先住民言語に関する国際学会に参加しに、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学(コロンバス市)に来ている。大学の教員をしていると、国際学会に出向くこと自体が日常的な仕事に多大な負担を強いる。でも、やはり沢山に得るものがあり、その無理をした甲斐はあったと思う。

言語人類学は、ディシプリンとしては言語学と文学の両方に足を突っ込んでいるところがあり、また危機言語・少数化された言語をめぐるアクティビズムと切り離すことができない。その独特な難しさにも直面する学会だった。

先住民言語で書かれる文学、特に詩の盛り上がりには目を見張るものがある。少数言語における詩人の多さに、かつて多和田葉子さんが言及していたことがあったが(確か『エクソフォニー』)、ラテンアメリカの先住民言語でも確実にそうだ。

先住民言語による文学の盛り上がりは、それ自体が喜ばしい目標である。それは確実にそうで、ただしだからといって、研究として何でもいいというわけにはいかない。自然との関係が扱われている、その中での「よき生活(buen vivir)」が謳われている、それを言うだけで終わったら(たとえそうだとしても)研究としては駄目だろう。位置づけを与える(≒ラベルを貼る)だけに終わったり、批評理論の切り貼りに終始して、肝心のテクストはどこにあるのだろうと思ってしまう発表は、やはり多い。結局、我々は、あくまでも具体的にテクストを読み深める技術によって、新しい境地を切り開くしか、本来はないはずだ。

先住民言語を研究することは、それをめぐる社会状況に否応なく巻き込まれる。その意味で、言語そのものの理解と社会実践を架橋しようとする研究者が多いのは、話をしていて面白いし、親近感を覚える。言語学者の中にも、社会学や人類学の古典に造詣の深い人たちがいる。

でも、やはり発表を聞いていると、そもそも説明のための仮説が当初の問題を説明したことになっていなかったり、仮説がどうみても無理筋で用例と照らしてまったく納得できないものも多かった。たぶん実際の用例を丹念に追っていく中での職人技、というところで、実は大御所の中にもそこをごまかしているんじゃないかと思う人がいる。そして、その言語を本当にこの人はどこまで話せるのだろうか、という人たちがいる。私もそういうところがあるというのは認めたうえで、それでも。もちろん、話せたからといって、研究者として優れているかどうかは全く関係がないのだけれど。
(この最後の点は、アンデスの先住民言語の世界では徐々に現地社会で問題視されるようになってきていて、これはいい傾向だと私は思っている。)

そして最後に、アクティビストも研究者も「国際学会回り」をしているだけなんじゃないかと思ってしまうこともある。その中には、面白いと思うし重要な仕事だと思うものが含まれているので、きれいに切り分けられる性格のものでもない。そして、どんな発表からも必ず何らかの学びは得られる。でも、本当に実のある仕事を進めようとして、それを研究としても倫理としても自分の満足のいく形で進めようとするにあたって、国際学会に出ていればいいというものではない。
(ただし、だからといって学会に全く出ないのがいいというものでもない。)

私自身は、ほぼ四年ぶりくらいに自分の正真正銘の専門分野の本格的な学会に出て、いいコメントがもらえたことと、この先の勉強の見取り図と方向感覚が更新されたという点で、やはり来てよかったのだと思う。

権力が作用する中での二言語使用

危機言語の活力を測る際に、その言語の単一言語話者の数のみが重視されることを問題視し、支配言語との間の二言語話者の重要性を指摘し、そこに新たな可能性が見いだせないかと模索することは、よい。しかし、権力が作用し、その権力に植民地性(colonialidad)が不可分に組み込まれている際に、先住民言語とスペイン語の二言語使用をただ礼賛することは、それ自体が抑圧として機能してしまう。先住民言語の方が得意な人々に対して、そして都市と農村を行ったり来たりする人々に対して。

同様に、均質化しつつあるように見える現実において、新たな差異を我々が見過ごしているのではないかと問い掛けることは、よい。でも私は、その現実に取り残されつつある人々の間で、そこにも新しい可能性があるんだ、と言いたい。そのような可能性を見出したいのだ。

domingo, 4 de septiembre de 2016

いのちから人の目を背けさせる宗教

わたしは、もう10年以上前から、「お前は、よきカトリックか?」という問いに対して「はい」と答え(その場で他に選択肢などなかった)、洗礼に立ち会い、口から先に出た言葉が自分に連れてくる責任を引き受けるということを繰り返してきた。

(注:これは人類学者にとって当たり前のことではありません。あくまでも私個人の選択として、です。)

しかし、今回ほど気が進まない洗礼は初めてだ。宗教は、人のいのちから人の目を背けさせることがある。人は何かから手を放そうとするときにも宗教にすがる。そんな宗教は、わたしは認めない。認めることなど、断じてできない。

それでも、いま一度、わたしは「よきカトリック」になりに行こう。

(追記)後から考えると、人間は弱いのでいのちから目を背けたがるが、その中でいのちはしぶとく生き残ろうとするのだな、と思う。だから、いのちを信頼して洗礼を受けさせに行くので、それでよかったのだろう。

jueves, 25 de agosto de 2016

今日のひとこと(アンデス先住民言語:ケチュア語の社会言語学)

Sin embargo, una vez que uno sale de la burbuja que es la ciudad misma de Cusco, una vez que se cruza la línea imaginaria entre la parte urbana del distrito de Santiago, en donde se habla quechua y castellano, y se entra a las comunidades que existen en el mismo distrito, uno encuentra un país, no un país bilingüe, sino un país monolingüe en quechua, que está administrado desde afuera por gente que a lo mejor habla quechua como segundo idioma, pero que obviamente son castellano hablantes. Pero el quechua que habla la gente que viene a administrar estos sitios es distinto del que habla la gente que vive en estas comunidades. (p.153)
【私訳】しかし、いったんクスコの街自体の外に出ると、ケチュア語とスペイン語の双方が話されているサンティアゴ地区の都市部の想像上の境界線を踏み越えると、そして同じ地区の中に存在する村々へと入っていくと、人は二言語使用の国ではなく、ケチュア語の単一言語使用の国と出会う。その国は、外部から、ケチュア語を第二言語としては話すかもしれないが、明らかにスペイン語話者である人々によって、統治されている。しかし、その外から統治をしにくる人々が話すケチュア語は、これらの村々で生きる人々が話すケチュア語とは、異なっている。
(Bruce Mannheim y Margarita Huayhua. 2016. "El quechua es un idioma multi-registral." En Centro Estudios Regionales Andinos Bartolomé de las Casas (CBC). Foro Dilemas de gobernabilidad en el Sur Andino al 2021. Cusco: CBC, pgs.152-156.)

とてもザックリした言い方なのだが、そのザックリさがむしろ現実を鮮明に特徴づけるということがある、と思わせる。ミシガン大学の言語人類学者のブルース・マンハイムはペルーのアンデス地方を、一貫して、別の民族・国が囲い込まれている(acorralado)状態にあると表現していて、これは単純すぎるという批判も受けてきたのだが、現在に至るまで直観として有効な洞察だと思う。そう、この分断が今も変わらず続いていることは、何度でも確認されてよいことだろう。同じ原稿の別の個所には、このような一節もある。

En el Perú no sabemos en realidad cuántos hablan el quechua, ni cuándo, ni dónde, ni en qué circunstancias sociales. En realidad, hemos repetido las mismas estadísticas de siempre, apoyados en censos insensatos, sin haber hecho el trabajo empírico sobre la base del cual se pueda armar una política idiomática más profunda. (p.152)
(censos insensatosはたぶんギャグ)
【私訳】ペルーで、我々は現実問題として、ケチュア語を、何人が、いつ、どこで、どのような社会的状況で話すのかを知らない。実際には、これまで、理性を欠いた国勢調査にあぐらをかいた変り映えのしない統計数字が繰り返されてきたのであり、より深みのある言語政策を策定するのに役立つような実地調査は行われてこなかった。

(注)ここで言及した文献の紙バージョンには文献リストが付いていないが、筆者マンハイム自身がacademia.eduで文献リスト付きのPDFファイルを公開している。

追記:この論考は、これまでの多くの調査がスペイン語とケチュア語の二言語話者に偏りすぎていたという反省の下に、ケチュア語の単一言語話者のおかれた社会状況やその音声的特徴を調べていく、中期的な取り組みの中に位置づけられるものだ。ここから、かつてのケチュア語とアイマラ語においてあった「五母音表記」の主張は(両言語ともに母音は三つしかない)、都市支配階層の二言語話者に基づいたものにすぎず、単一言語話者のケチュア語を見ていないものだ、という見解まであと一歩ではないかと思われるのだが、さてそれでいいのかな。

sábado, 20 de agosto de 2016

いのちの危機の場に身を置くたびに

私は「業界」としての人類学にコミットしているわけではないし、人類学自体が変化してきたのでもあり、調査の過程での調査者の「介入」に神経質になることはないが、ただし自分の介入(参与)を省察する必要はあるとは思っている。

かつて人類学において、調査者は中立を保つべきだとされ、調査対象への介入をするべきでないと考えられた時期があったが、そもそも方法論として参与観察の「参与」って何だったんだよということでもあるし、不介入主義がもつ倫理的陥穽が指摘されもしてきた。

文化相対主義をそう簡単に手放していいわけではない、でも我々はしばしば介入せずにはいられない。どっちも当たり前のことではない。

これが人類「学者」にとって、ここ25年くらいの比較的新しい感性だとして、決定的かつ衝撃的だったのはナンシー・シェパー=ヒューズ(Nancy Scheper-Hughes)のブラジルのスラムでの仕事だった。やっぱり自分の原点には、大学院の入り始めで彼女の仕事を読んだことがあったのだと、最近再確認した。

そもそも疑似的に家族の一員として位置を与えられるのは、介入というよりは、受動的に、しかし決定的にその家族を変えている。そしてその場で、「いのち」に関して、私は何度か自分が介入する決断を下してきた。これを放置したらもうその人の命が危ないという場面で、ということでもあるし、もっと緩やかには、生活や人生が本当に苦しい中で誰かが寝たきりに近くなっていたとき、私が来ると分かると元気になる、というのも、私は「いのち」に影響を与えているのだろう。

人は話したいし、聞いてもらいたい。そして、人は生きたい。なぜか、様々な経験を経る中で、いつのまにか、私は、この二点だけは、ほとんど前提のように想定してしまっている。

一生懸命に息をしようとしている、生きたいよね。そんなに簡単にわたしはお前を死なせたりしないし、家族がバラバラになるのを傍観したりなどはしない。そんなに直線的に考えてよいことなど本当はなかったのだと分かってきてしまったけれど、それでももう十年以上しんどい状態を一緒にくぐってきたのだ。いのちの危機から、せめて逃げないようにしよう。

ボリビア・アンデスのスペイン語の線過去と現在完了の間で

とりあえずボリビアのラパス近辺のスペイン語に限定して言うと、アンデス・スペイン語(español andino)という、先住民言語アイマラ語との言語接触の上に成立したスペイン語では、点過去が使われない。よく耳を澄ましていると、私の周囲の人々も点過去を使わないことが確認できる。

(ただし、様々なコンサルタント業務や大学などで支配社会の側と接触が多い人は、点過去を使うことがあるように思う。また、過去の事実を強調しようとすると点過去が使われることがあるような気がするのだが、これはまだ要追跡確認。)

現在完了と線過去の使い分けは、おそらく現在完了がアイマラ語の単純形・現在過去形(simple, presente-pasado)という(現在とともに)近い過去を述べる形に対応し、線過去がremoto cercanoという少し離れた過去だが自分が実際に経験した過去を述べる形に対応する。ちなみに、自分が経験していない・忘れている過去を述べる際には、アイマラ語ではremoto lejanoという形が用いられ、それはスペイン語では過去完了で述べられる。この最後の点は、よく知られている。

そうすると、アンデス・スペイン語の線過去の使い方は、規範文法における線過去の使われ方と少しずれてくるはずなのだが、そこの差異をまだはっきり私はつかめていない。

さて、この線過去と点過去はdeberやtener queという表現と組み合わさると、またある種の複雑さを帯びるようだ。debías venirというと「あなたは来るべきだったのに」で、これは実際には来なかったことを責めている。これはアイマラ語でreprochadorという、remoto cercanoの屈折接尾辞(活用語尾)に独特の屈折接尾辞を組み合わせた形があり(動詞の不定詞の形はjutaña、ここでの形はjutasamän)、それに対応している。ベースがremoto cercanoだから線過去、という対応もある。さて、has debido venirというと「あなたはきっと来たんだよね」となり、これはおそらく事実としてそうであったことを推量する。これは-pachaという動詞接尾辞(inferencial)に対応している。これは単純形に-pachaを付け加えたような形をとるので(jutpachata)スペイン語でも現在完了だ、という対応もある。

さて、deberとは別にtenías que venirという形がある。これは実際に来たかどうかはどっちでもありで、その人にくる必要があったことを問題にする、たぶん。これはアイマラ語では不定詞にremoto cercanoの屈折接尾辞を組み合わせた形に対応していて、だからスペイン語でも線過去だ、という対応がある。

これでだいたい合ってるかな。要検討。さて、それで、これがスペイン語の規範文法とどれくらいずれるかが、依然として問題か。言語接触では、スペイン語の元々の用法に相手の言語の用法を受け入れる素地があるから、接触による変化が起きる、とも考えられるので、アイマラ語に合わせてスペイン語が変わりました、という単純な話ではないはずなのだ。

これは本来まったく自分の専門ではないのだが、関心をひとたびもつと興味が尽きない。なんと複雑な言語世界をボリビアは生きていることか。

miércoles, 17 de agosto de 2016

テレフェリコが可能にするラパスの街の新しい空間感覚

 
ボリビアの現政権はインフラ投資を中心とした公共事業に大きな力を入れているが、行政上の首都ラパス市に滞在していて、すぐにその違いが目に入るのは、公共交通としてのロープ―ウェイ(スペイン語ではテレフェリコteleférico)のネットワークの整備である。

高山都市ラパスは空中都市でもある。植民地時代、南のポトシ銀山と北のクスコを結ぶ線上の高原地帯のすぐ脇に、風と寒さを避けられて標高のわりに温暖な、大きなすり鉢状の谷の入り口があったことが、この街の発達につながったのだと思うが、アンデスの他の都市と比べてもとにかく傾斜が厳しく、坂道が険しい。高原の上にあるエル・アルト市の国際空港は標高約4100mのところにあるが、ラパス市の中心は約3700m、南部にある富裕層の居住地区は約3300mで、400m~800mに及ぶ高低差を一望しながら日常生活を人は送ることになる。

高所恐怖症の私は、このテレフェリコができてからしばらくの間、これに乗るのを怖がって、周りの友人たちや家族から勧められても拒否し続けていた。しかし、あまりに笑われるので、ある日意を決して乗りに行った。そしてはまった。

怖いのは怖い……のだが、建設したドッペルマイヤー社はヨーロッパのこの分野の大手だから、とりあえず信頼するとしようか。

テレフェリコに乗って街を横切る(縦切る)感覚には明らかに全く新しいものがある。言葉にしづらいのだが、空中都市を空中から体験する感覚、と言ってみようか。エル・アルト市の頂上の駅から、車の場合のようにすり鉢にへばりつくようにして遥か下へおりはじめるのではなく、垂直に400m下に向かって一気に投げ出されるようにして斜面を垂直におりていく。街全体に包まれるように浮かび、そしてアンデスの高い峰々と深く切れ込んでいく渓谷を周囲に一望する。これが、あくまでも日常の交通手段として提供され、利用されるのは、街に新たな視覚と感覚を与えるものだと思う。

ただし、街の真上を通るので、家がテレフェリコの真下に当たった人々は災難だなと思う。何せ高い塀で目線を遮ったとしても、上からは中庭や生活の諸相が丸見えなのだ。抗議運動が起きそうなくらいだが、出歩く側からすると人々の生活が新たな角度から見えてテレフェリコに乗る魅力の一つになる、とも言えるだろうか。この点も含めて、なかなか衝撃的な乗り物だと思う。

domingo, 14 de agosto de 2016

どの場所から考えるか、それが私だ

ぶあつい壁の中の薄暗い部屋に、昼になるとアンデスの強烈な日差しが差し込んでくる。ラパス市のソポカチ地区の坂を上っていった辺り(Alto Sopocachi)に、私の魂の一部が確実にある。


私はラテンアメリカの思想研究で流行しているModernidad/Colonialidadグループを必ずしも高く評価してはいないのだが、その中のワルテル・ミニョーロ(Walter Mignolo)が提唱した「I am where I think」(どこで考えるか、それが私である)、つまり発話の場所(locus of enunciation)を重視する発想には共鳴している(Mignoloに立脚しないとそれが言えないのかという葛藤はあるが)。

何度も繰り返してその場所に戻り、上塗りするように、それをもう一度解体するように、耳を澄ましながら、対話を重ねながら、自分の思考をつなげていく。その機会を与えられていることが、いちばん有り難いことなのかもしれない。

sábado, 13 de agosto de 2016

国際学会JALLAをめぐる雑感

今週一週間は、JALLA(Jornadas Andinas de Literatura Latinoamericana:ラテンアメリカ文学をめぐるアンデス会議)という国際学会がボリビアのラパス市で開催されていた。もともとラパス市で立ち上げられた学会で、久しぶりに戻ってきたのだという。初日の幾つかの面白そうなセッションには出られなかったのだが、アンデス口承史工房(Taller de Historia Oral Andina)の一員として私も参加した。

参加していると、当然のことながら良い面も悪い面も見えてくる。

狭い意味での大学研究者の外側へと広がりをもち、高校や教員養成学校の教員や在野の研究者たちが国境を越えて参加していて、これはラテンアメリカで実施される地域ベースの国際学会の良いところだろう。また、人文系の学問では、特に大学を単位取得卒業(egresar)した後でも、卒論やら何やらで人々が比較的長い期間を大学周りに留まるので、学会とアカデミズムに関心を持つ層が比較的分厚い(日本よりも分厚いんじゃないだろうかと思うくらいでもある)。

我々のセッションも、教員養成専門学校の教員周りや高校生たちとその教員による人形劇などと組み合わさって、聴衆の中には何と高校生の集団もいたという、なんとも楽しいものであった。

ただの学究という方向を目指すよりは、そのような猥雑な雰囲気の中から大事だと思える課題と精神(スピリット)とをくみ取っていきたいなと思う。

ただし、業界内の分断は相変わらず存在する。アンデス文学の世界でも研究者は内向きのグループを作り、先住民の世界に足を踏み入れない。そして、その境界を越えようとした作家や評論家が神格化され、 カノン化され、それはその内向きのグループを守るように働く。僅かな例外を除いて、ウソみたいな文化的解釈がまかり通り、誰も疑義を挟まない。

もちろん、先住民文化の様々な側面が死に絶えた史前の遺物としてのみ価値づけられ、位置づけられていた20世紀前半からは、大きな変化なのだろう。しかし、社会の分断は確実に存在し、それは学会のプログラムにも確実に現れていた。

でもその中で、ボリビアは下から突き上げて自分たちで別のセッションを作っていこうという動きが盛んで(我々のセッションもその一翼を構成していて、そもそも参加すべきかどうかでかなり議論があったようだ)、それが一筋の風を吹き込んでくれている。

miércoles, 10 de agosto de 2016

今日のひとこと(ボリビア文学:イルダ・ムンディ書簡集)

Esos instantes vividos al calor de un sentimiento necesitan ser descritos por nosotras mismas. Quizá puedan tener exageración (exageramos algo) pero poseerán la visión exacta de lo que sentimos, de lo que vivimos, de lo que amamos...
【私訳】ある感情の高まりの中で生きられたその一つ一つの瞬間は、私たち女性自身の手で描き出されなければいけない。ひょっとすると、そこには誇張があるかもしれない(私たちは何がしかは誇張している)が、しかしそこには私たちが感じ、生き、愛した物事についての、正確なビジョンがあるはずだ。

"Carta de Laura Villanueva Rocabado (Hilda Mundy), octubre de 1934." En Hilda Mundy (Edición de Omar Rocha). 2016. Bambolla Bambolla: Cartas, fotografías, escritos. La Paz: La Mariposa Mundial y Plural editores, página 54.

昨日(8月9日)に刊行され出版記念のプレゼンがあった、『花火(Pirotecnia)』(1934年)で知られるボリビアの作家イルダ・ムンディの書簡と新聞記事を集めた書籍を読み進める中で出会った言葉。

家庭の中での(保守的で)退屈な人生と、こうではなかった筈なのにという思いと、女性が置かれた状況への絶望と、それに取り組む女性たちへの絶望と。それでも抑えきれない自身の内面の困難さが、書簡のそこかしこに姿を現して、花火のような閃光を走らせる。 この人をvanguardia(前衛)ではなくretaguardia activa(活動的な後衛?)と特徴づけるのがいいのではないかと、編者のRodolfo Ortizが昨日のプレゼンの場で発言しているのを聞きながら、確かにそれはそうかもしれない、と思った。



miércoles, 16 de marzo de 2016

ペルー料理(鶏肉の唐辛子ソース:アヒー・デ・ガジーナ)

鶏肉の唐辛子ソース(ají de gallina)はペルー料理の定番とも言える。でもその作り方は、意外と簡単で、黄トウガラシのペーストさえ手に入れば、日本にいても作れそうだ。

恒例のお昼ご飯シリーズをもう一つ。このアヒー・デ・ガジーナを作るのを、横で見ていた記録を残しておこう。

まずは鶏肉でストック(だし、caldo)をとっておく。そのときにセロリも入れておくのがポイント。 鶏肉は細く裂いておくことが多いと思うが、もっと大きなかたまりで残しておいてもいいのだそうだ。
黄トウガラシの種を除き、細長い片(trozos)に切り分け、ニンニクと一緒に油で炒める。
 

炒めた黄トウガラシとニンニク、セロリ、ストック(だし)をミキサーにかける。

その間に、水に浸しておいたパンを取り出し、水けを絞る。

同時に、千切りにしたタマネギを炒め始める。ここで、会社の名前で「シバリータ(sibarita)」と呼ばれているのだが、パリーリョ(palillo、ウコン)の粉末を入れている。

シバリータというのは、色々な形態で市場や雑貨屋で売っているが、例えばこのようなものだ。この使い方がやや不思議で、黄トウガラシの色が十分に出てくれないときに、色づけとして使うのだそうだ。特にこれで味に何かを足すわけではないのだと。


先の水に浸したパンをミキサーに加えて、少量のピーナッツ(スペイン語ではマニーmaní)も加える。パンを入れるのは、ソースに厚み(とろみ)を加えるため。
(注:スペイン語では、このスープやソースの「とろみ」のことをespesuraと言う。ちなみに日常的なスペイン語では、「しつこい」人や「重い」人のことをespesoと言う。)


タマネギを炒め上げたところにミキサーの中身を注ぎいれる。沸騰するまでは鍋にひっつき易いので、かきまぜ続ける。

鶏肉を入れるのは、もう最後の段階で。


そしてもう出来上がりだ。シンプルで美味しくて、ありがたい。
レタス、トマト、茹で卵、オリーブと一緒に皿によそって、頂くことになる。これも飽きないペルー料理の定番の品だ、と思う。




lunes, 14 de marzo de 2016

ペルー料理(春を知らせる料理:カプチー)

雨期が始まるとアンデスは豊穣と収穫の季節に入る。その時に丁度出会える「季節もの」とでも呼べそうな料理があり、その料理が出てくると、皆が少しウキウキしているような様子が伝わってくる。ボリビアのラパス市には、ジャガイモやそら豆やチーズや白トウモロコシなどをとり合わせた「プラト・パセーニョ(plato paceño)」という料理がある。私は最初この料理を見たときに、何の変哲も工夫もないつまらない料理だと思ったが、これは旬のものを一皿にとり合わせていることに意味があるのだと思うに至り、そう思えると出会うのが楽しくなってきた。前にブログにも書いたプレー・デ・パパス(puré de papas、マッシュトポテト)も、私の中では同じジャンルに入っている。

ペルーに来ると、ここにはカプチー(kapchi)と呼ばれる料理があり、調べてみるとどうもクスコ地方の料理なのだそうだ。

ニンジンやカリフラワーなどの野菜をざく切りにしておく。ブロッコリーが入ることもあるらしい。この辺りの野菜の取り合わせも、いかにも春らしい。これ以外にもジャガイモはごろごろとしたままで入れる。

この料理の特徴は牛乳とチーズで茹でることにある。先に混ぜ合わせておく。

ある程度まで野菜を茹でておいて、牛乳とチーズを鍋に投入する。そら豆はすぐに火が通るので、最後に入れる。

出来上がりは春らしい明るい色合いの料理になる。これはそら豆のカプチー(kapchi de habas)だが、これにさらにキノコ(これも雨季にしか出回らない)を入れることもできて、そうするとキノコのカプチー(kapchi de setas)と呼ばれる。濃厚さと爽やかさが同居する料理だ。写真ではロコトの詰め焼き(rocoto relleno)と一緒になっている。

ペルー料理(豚肉スープ:アドーボ)

アンデスでは、そしておそらくラテンアメリカ全体でも、少し場所が違うだけでそれぞれに特色のある料理があって興味が尽きない。メキシコ料理やペルー料理など、世界的な流れに乗って有名になっていくものもあるが、そのすぐ隣に個性豊かな美味しい料理がそれほど知られずに存在している。そして、「ペルー」料理や「ボリビア」料理も、その内側に豊かな多様性をもっている。ここでは、とりあえずボリビア料理とペルー料理と言ってしまうことにする。

豚肉のかたまりがベースになったスープは、力をつけるための食べ物で、一晩中飲んだ後の明け方に好まれたり、週末のちょっとしたご馳走になったりする。ボリビアにはフリカセ(fricasé)という、黄トウガラシ(ají amarillo)をベースに豚肉を煮込むスープがあるが、ペルーには、チチャをベースに豚肉を煮込むスープとしてアドーボ(adobo)と呼ばれるものがある。この週末にはその作り方を教えてもらった。

すべての元になるのがチチャ(chicha)で、これはアンデスの白トウモロコシの発酵酒だ。この味加減で全体のスープの味が変わってくる。我々の家はクスコの街外れにあるのだが、「やっぱり地方の町のチチャの方が味がいいよね」と皆が口々にコメントしている。

豚肉は骨付きのかたまりを市場で買って、骨にそこで切り込みを入れてもらっておく。それを一人一人へのかたまりへと切り分け、ある程度の量のチチャに浸しておく。ニンニクをつぶし刻み、タマネギをみじん切りにする。

タマネギとニンニクを少量の油で炒める(「aderezoを作る」と言う)。そして豚肉を入れる。炒めるというよりは、浸していたチチャとともに茹でる感じ。

豚肉料理と言えば必要になるのがイェルバ・ブエナ(hierba buena)。ミント(スペイン語ではメンタmentaと呼ばれる)とよく似ているのだが少し違う。これを何本か庭から摘んできて、茎ごと投入して、水でひたひたにする。

この間に残りのタマネギをざく切りにして大量に投入する。残りのチチャをひたひたまで注ぎいれる。このタマネギがスープにコクを出す役割を果たす。

しばらく茹でたら、ロコト(rocoto、トウガラシの一種で丸い形をしている)を丸のまま入れる。これが裂けたりする(reventarするとスペイン語では言う)とスープが辛くてエライことになるので、そっと気を付けて入れる。家庭用の場合は大きいのを数個入れればいいが、店で出す場合は小さいロコトを買っておいて、一人ひとつ行き渡るように入れておく。

ここからかなり長く煮込む。豚肉が皮つきで入っていて、皮の部分が柔らかくなっているかというのが、ひとつの目安になる。


ロコトはくたくたになったら、破裂する前に取り出しておく。おそらくスープの味にうっすらとした辛味と旨みを加えているのだが、私はまだはっきりとは認識できていない。豚肉の茹で加減を確かめながら赤唐辛子(パプリカと同じか?ají coloradoと呼ばれる)を油で炒めてスープに入れていく。

仕上がりのスープの色はこんな感じで赤みを帯びる。豚肉も皮まで柔らかくなっている。

このアドーボを出すときはパンを必ず添える。今日はクスコ近郊の、パンで有名なオロペサ(Oropesa)という村のもの。クスコ市内のサン・ペドロ地区(かつてマチュピチュ行きの列車が出ていたところ)の市場では、オロペサのパンが買える。くたくたになったロコトは、種をよけて(死ぬほど辛いので)、皮の部分を切り分けてスープに辛味を添えながら食べる。ここは好きずきで、ロコトにまったく手をつけない人もいる。

このスープはかなりおもたくて、私の腹とあまり相性が良くないのだが(前は店で食べているからかと思っていたら、今回家で作って食べてもそうだった……)、しかしあまりに美味しいので、あまりそういうことを事前に考えずにおかわりをしながら食べている。皆が揃う週末の昼ににぎやかに食べる料理だ。

sábado, 12 de marzo de 2016

アンデスのスペイン語における動詞の活用の使い分け

アンデス地域において、特に先住民言語との二言語話者の人々が用いるスペイン語を「アンデス・スペイン語(castellano andino)」と呼ぶ。その特徴は、先住民言語の話者では既にない人々にも共有されている。さらに、より広い階層の人々のスペイン語まで含めてこの呼称を用いることもあるが、ここでは前者の狭い意味で基本的に使うことにする。

そのアンデス・スペイン語がもつ独特さに、前から注意を払うようにはしていたつもりではあったのだが、やはり自分は甘かったなと再認識する思いで、幾つかメモを書いておく。

(1)点過去に比べて現在完了が遥かに多く使われる。
 この点はスペイン語とスペイン語教育界ではそれほど知られていないことで、かつ点過去と現在完了の関係の地域的差異はスペイン語学全般における大問題なので、大分早い段階から自分でも意識していた。しかしこれは、特にアンデス・スペイン語でなぜそうなるのか、という問題でもある。そして、ごくたまに点過去が使われることはあって、それがどういう場面なのかが問題でもある。
(相手が現在完了で話したことを追認して繰り返すときに点過去を使う、というのが一つあるような気がするが、それもまだ要確認事項に留まっている。)

(2)線過去の使用頻度が高い。
 そもそも線過去の特徴づけはスペイン語学の中でも難しい話題で、たとえば「叙述の線過去」の位置づけに私は多大な関心がある。線過去と点過去はアスペクト(ある動作のどの側面を切り取るか)に着目して定義されることが多いが、そうもそこに入りきらないように思うからだ。
 アイマラ語圏のアンデス・スペイン語では、自分が直接体験した過去を示すremoto cercanoに対応するものとして、線過去の位置づけが与えられている。ただし、アイマラ語圏(ラパス、エルアルト)とケチュア語圏(クスコ)を問わず、過去の出来事を物語る際に、線過去が頻繁に用いられる。そもそもケチュア語の過去の接尾辞と、アイマラ語のremoto cercanoがどの程度対応するのかが、まずは検討されていない問題で、その上でケチュア語圏での線過去の使われ方とアイマラ語圏での線過去の使われ方が似ているか、も同じく重要な問題だ。

上のことは、まず最初に、アイマラ語の文書をスペイン語に翻訳する作業を、アイマラ語の母語話者の人と共有する中で気づかされていった面があり、またここし ばらくで日常会話のアイマラ語にもう少し丁寧に着目しようと思う中で、スペイン語について同時に意識するようになってきたことでもある。

文法による世界の組み立てに注意を払わなくてもコミュニケーションは成立してしまう。でもそれは、何かが狭間にボロボロとこぼれ落ちていくコミュニケーションだ。

そして、生活と言語は切り離せないとするなら、生活の一つの重要な部分を、私は自分の関わる家族たちと共有していなかったことにもなる。

viernes, 11 de marzo de 2016

ラパス・エルアルト国際空港の朝

空港の建物の改築が進んでいるにもかかわらず、相変わらず鄙びた感のあるボリビア・ラパス市のエルアルト国際空港。それでも朝一番には国内線と国際線の、ともに比較的小型のジェット機が頻繁に発着する。

夜明けと前後して、アビアンカ航空のボゴタ行きとアメリカン航空のサンタクルス経由マイアミ行きととが出発していく。

ボリビアの中軸を構成するコチャバンバとサンタクルスとの間は、国内線が頻繁に飛び交い、その合間に他の県都(スクレ、タリハ、コビハ、ポトシ)などとを往復する便が出る。朝は特に出発が集中するので、国内線の航空会社のチェックインカウンターは大慌てで殺気立つ。(列の割り込みも続出して口論も多発する……。)




ペルーのリマ行きは一日に何便もあるのだが(ラン航空が夕方や深夜に来ている)、アビアンカ航空(かつてのタカ航空)のリマ行きは、その朝の大慌てが一段落した頃に出ていく。

その後がペルーのクスコ行きの出発になる。まずクスコからペルービアン航空が到着すると、それを受けるようにしてボリビアのアマソナス航空がラパスからは先に出発する。クスコ―ラパス線は観光客が主体の路線だ。観光客の流れとしてはクスコからラパスに向かう方が多いため、ラパスから乗ると飛行機がかなり空いていることが多い。
 長いことボリビアの航空会社が週に三本ほど飛んでいる時期が続いていたのだが(しかも、リョイド航空のときもアエロスールのときも、それぞれの会社が倒産してしまい、この便が存在しない時期があった)、今ではペルービアン航空とアマソナス航空が両方毎日飛び、ペルービアンはそのままリマまで接続し、アマソナスはスターペルー航空と提携してリマまで接続している。航空会社間の競争があると料金が比較的安くなるので、この状況が続いてほしいなと私は思っている。


本来この二つの便の出発は30分ほど離れているのだが、アマソナスがクスコ空港周辺の濃い雲で着陸できずにモタモタしている間に、ペルービアンにすぐ後ろにつけられていたようで、クスコ空港への到着はほぼ同時になってしまった。

domingo, 6 de marzo de 2016

アンデスのスペイン語、家族のスペイン語

アメリカ大陸におけるスペイン語は、先住民言語の接触などにより、地域ごとに独自の様相を示す。アンデス地域で先住民言語との二言語話者を中心として話されるスペイン語を――もちろんその中にも多様性が存在する筈だと思うのだが――まずは一括りにアンデス・スペイン語(castellano andino)と呼ぶことになっている。

私がいつも時間を一緒に過ごしている家族のおばあちゃんは、アイマラ語の方がスペイン語よりも若干得意な二言語話者なのだが、スペイン語を話すといくつかの単語で接頭辞が落ちる。前から二つは把握していたのだが、今日話している間に思いがけずもう一つあることに気づいたので、ちょっとここに書き留めておこう。

(1)aparecer「現れる」がparecerになる。だから、No parece.と言うと「(話題になっているその誰かが)来ないねえ」という意味になる。動詞parecer自体の意味からすると「そうではないようだ」を頭に浮かべがちだが、そういうことではない。

(2)refrescoは、コカコーラやスプライトなどの炭酸飲料を指すとともに、果物の切れ端を水に入れて煮出し、砂糖で味付けをした飲み物を指すのだが、うちのおばあちゃんはこれをfrescoと言う。

(3)今日話を聞きながら気づいたところでは、preocupado「心配している」をocupadoと言う。ocupado自体は「忙しい」という意味で使われるので、Ocupado estoy.と今日言われたときに、忙しいのかと最初思って聞いていたら、どうも文脈に合わず、心配していると言っていたのだった。
(注:アンデスのアイマラ語やケチュア語には文法的な性の区別がないので、女性が主語の場合でも形容詞などを男性形で用いることが多くあり、ここもそうなっています。この記事を読んだ方からのご質問があり、補足しておきます。ありがとうございます。)

あまりこういう話は、アンデス・スペイン語の特徴として確認されていないような気がするが、そもそもうちのおばあちゃんの特徴なのか、それとももう少し広く見られる特徴なのかすら分からない。

もう一つは、それぞれの地域のスペイン語で、点過去と現在完了をどのように使い分けているかは大問題なのだが、そもそもうちの家族は点過去を使っていないのではないだろうか。線過去と過去完了にはアイマラ語の動詞の過去の形に対応した用法があるのだが(線過去はremoto cercano、過去完了はremoto lejanoに対応する)、それ以外は全部現在完了で話しているんじゃないだろうか。

前からボリビアのスペイン語は現在完了を多用するという印象があり、ただ点過去も使わないわけじゃないしと漠然と思っていたのだが、私自身が幾つかの社会集団をまたいで接しているから、いろいろとごっちゃになっているのかもしれない。この家族の使うスペイン語を、言葉を、もうちょっとちゃんと見つめてみよう。

sábado, 5 de marzo de 2016

アイマラ語の話(伝え残す教訓エウハiwxa)

昔から私がアイマラ語を教わっているフアン・デ・ディオス・ヤピータ先生と、久しぶりにゆっくり話をする機会があった。昨年は、向こうがボリビアにいなかったり、その次は私がボリビアの別の街で学会発表だけして日本にとんぼ返りをしたりなどして、互いの予定がうまく合わなかったのだ。

昔教えてもらっていた頃のように、最近あれこれと先生が考えていたことからポーンと一つ例を出してくれて、それを二人でああだこうだと検討する。

今日、話題によく出たのは、子どもや後進の者たちに何かを伝え残そうとする教訓の言葉で、これはアイマラ語ではエウハ(iwxa)と呼ばれる。アイマラ語では、この伝え残す教訓が一文ほどの長さで語られることが多く、これを耳にしたり目にしたりすると、いろいろと考えさせられるのだ。

(1)Jaq uñtasaw saräta.
アイマラ語のjaqi(ハケ)は「人」を指すのだが、これは<経験を積んで十分な資質を獲得するに至った人>という意味をもつ。いつも私は、日本語での「一人前」「成人式」「人物」「人として恥ずかしい」などの「人」と似ていると思っている。uñtasaは動詞uñtaña「じっと見る」の現在分詞、sarätaは動詞saraña「行く、進む」の2人称未来形。全体としては「参考になりそうな人物をじっと見ながらお前は歩むのだよ」ということになる。ここでの「人」は、「参考になりそうな人物」ということになるわけだ。

(2)Janiw sutij aynaqayitätati.
アイマラ語ではjaniwと動詞につく接尾辞-tiが呼応して否定文を作る。sutijはsuti-j(a)「名前・私の」、aynaqayitätatiはaynaqa-y(a)-itäta-ti「(棒状の物)を運ぶ・(使役)・2→1(あなたが私に)未来形・(否定接尾辞)」で、全体の意味としては「お前は私の名前を粗末に扱わせるんじゃないよ」ということになる(カッコに入ったアルファベットは、その母音が脱落していることを示す)。ここで面白いのは、「(棒状の物)を運ぶ」という意味の動詞aynaqañaが、「~を粗末に扱う」という意味で使われていることで、これも教えてもらってから二人でしばし考え込む。はてどういうことだろうね、おもしろいね。ちなみに、アイマラ語では「運ぶ」にあたる動詞が、運ぶ物の形状によって細かく分類されて用いられることが知られている。

ある言語への自分の感覚を育てようとするときに、このゆっくりとした時間の中でその言語の世界に入り込んで、ああでもないこうでもないと検討することは、計り知れない恩恵を私にもたらしてくれた。久しぶりに、あの頃の時間の感覚を思い出し、そして先生がどういう方法を伝えようとしていたのかを思い出した。

「私が覚えていられなくなったら、お前が覚えておくんだよ」 と言われた私は、でもまだ「いや先生まだ全然元気そうじゃないですか」と言い返すしかなかった。

ボリビア料理(リャマのスープ)

ボリビアのラパス県では、特にパカヘス郡(Provincia Pacajes)が牧畜の中心地になっている。比較的乾燥していて農業に向かない土地が多いのだそうだ。

その牧畜で重要な位置を占めるのが、アンデスのラクダ科の動物の一つであるリャマの飼育なのだが、行政上の首都のラパス市に近接する高原の街エルアルト市で、パカヘス郡へのバスが発着する場所は、そのリャマ肉の料理が食べられる場所となっている。この構図はなかなか面白い。都市の特定の場所が特定の農村部とつながり、その場所の性格が決定されている。

今回、食べに連れて行ってもらったのは、リャマのスープ(caldo de llama)。ふだんリャマの肉は食べていて筋っぽいなと思うことが多いのだが、このスープの肉はとても柔らかくなっていて驚いた。骨付き肉を長い時間煮込んであるからだろうか。

下の写真がそのリャマのスープだ。「お前は背中のところの肉が当たったな」と言われたが、確かにそんな形をしている。右上はトウガラシとトマトの万能調味料のリャフア(llajua)で、スープに混ぜたり、肉や芋に乗せたりする。


このスープが飲めるのは、クルセ・ビヤ・アデラ(Cruce Villa Adela)付近。ビアチャ(Viacha)の街へと向かう街道がエルアルトのビヤ・アデラ地区へと分岐する交差点の、ややビアチャ側に進んだ右手側に店が並んでいる。このあたりが、早朝にパカヘス地方へと向かうバスが次々と出発する場所で、これらの店もそれに合わせて早朝から品切れになる昼前後まで開いているのだそうだ。

もう一ヵ所のパカヘスとの交通の発着点は、同じエルアルト市の12 de octubre地区だ。先の方にCancha 12 de octubreというサッカー場があり、その周りにバスが発着するのだが、そこではリャマのチチャロン(chicharrón、味をつけた肉を油で揚げた物)やティンプー(timpú、茹で肉に黄トウガラシをベースにしたソースをかけたもので、もとの茹で汁をベースにしたスープが後から出てくる)が売られているのだそうだ。

リャマのチチャロンは、パカヘス郡へ行くと途中止まる町や市場で必ず屋台が出ているので、そこで口にすることもあるのだけれど(前にこのブログでも言及したことがある)、ティンプーは食べたことがない。どんな味がするだろうか。
(2016.3.6追記:ちなみにオルーロ地方には、リャマの干し肉(チャルケ)を炒めて作るチャルケカン(charquekán)と呼ばれる料理があって、これもとても美味しい。あとフリカセ(fricasé)というトウガラシペーストをベースにしたスープは、ふだん豚肉(たまに鶏肉)で作るのだが、これもリャマ肉で作ったりもするのだそうだ。)

martes, 1 de marzo de 2016

密度の高い思考形成の現場へ(『レネ・サバレタ・メルカード全集』完結)

ボリビアの20世紀を代表する政治思想家レネ・サバレタ・メルカード(René Zavaleta Mercado)の全集の刊行が、国内の出版社Plural Editoresによって、2015年に完結した。

最後の第3巻は、それ自体が第1部と第2部の二冊に分けて刊行された。ジャーナリストとして新聞に執筆していた論説記事(第1部)、本人へのインタビューや授業シラバスなど(第2部)、それまでの2巻に収められた単行本や論文以外の、雑多な書き物が集められているのがこの巻だ。

まだ目を軽く通している段階なのだが、この第3巻は貴重な貢献だと思う。編者が前書きで、まだすべてを発見し収録できたわけではない進行形の全集であると断っているが、それでも現段階としての重要性をもっている。

そもそも、第1巻および第2巻を通じて、著者の様々な時代の作品が通覧できる形になったこと自体が大きかった。サバレタの思想は、ナショナリストの前期、正統的なマルクス主義の中期、そして異端マルクス主義の後期へと分類することが一般的だ。しかし、実はサバレタが形成した概念とその背後にある社会の見方には、前期から後期まで通して取り組まれ ているものがあり、全ての期が一冊にまとまることで、生涯を通じたある種の連続性もまた見えてくるように思うのだ。

第3巻では、特に新聞への寄稿で、そのときどきの具体的な問題や事例をもとに自らの思考を展開している。全集の編者も指摘しているが、サバレタの特徴は新聞への寄稿でも平易な表現を使わないことにある。それは逆に言うと、具体的な事例からサバレタが自らの抽象的な政治的思考を練り上げていく、その瞬間が垣間見えるということである。また、第2部に収められている、晩年(1970年代以降)のメキシコでの授業シラバスに目を通すと、何に対抗しながらサバレタの問題関心が定位されていくのかを見出すことができる。(ざっくりいうと、従属論(teoría de dependencia)に対し、いかにそれぞれの社会の自律性と主体性を見出すかについての闘いだった、ということを再確認した。)

つまり、単行本や論文において密度高く展開される抽象的な思考が形成されていく、その現場を、ある程度まで後から来た世代の我々が追体験できるのではないかという期待を抱かせてくれるのだ。

それにしても、この全集に限らないのだが、なぜか一回の刊行部数が少なく、すぐに本屋から姿を消してしまう。 せっかく刊行されたのだから多くの人の手に渡ってほしい。私は私で、出版元が直営する本屋も含めてなかなか見つけられず、いろいろな本屋や古本屋を訪ね探し歩いた。なんとか見つかってよかった。出版元によれば、次の刷りまでは少し時間がかかるらしい。




jueves, 25 de febrero de 2016

人々の生活のサイクルの中で研究を進める

現地で調査をすることに重きをおく地域研究という分野に関わっていても、調査の仕方は人それぞれだ。

私は実際に家族や人と行動をともにし、相手から話を聞きながら、自分の研究テーマを形成していく。そうすると、ある種のサイクルの中でしか新たな展開は生まれない。その基本は1年というサイクルだが、大学教員をやるようになると実質的に長期休暇にしか研究ができないので、そうなるとまずは1週間というサイクルを幾つ確保できるかという問題になっていく。そしてもちろん、それぞれの人の人生という長いスパンでの展開も、いつも視野に入ってくる。

それは、皆がそういうサイクルの中で生活をし、仕事をしている中で、その人のもとを訪れて、話をしたり、活動に参加させてもらったり、生活の一部分に混ぜてもらったりするからだ。ピンポイントでここ、というのではなく、あくまでもお互いのサイクルをすり合わせるようにして、有限の時間を共有する。それぞれの現実(リアリティ)をすり合わせるようにして、相手の現実(リアリティ)に巻き込んでもらう。

これは短期間でアポイントを重ねて調査を行うやり方とはだいぶ異なってくるので、何が研究と調査にとって必要かという点で、実はお互いのイメージしている内容が一致していないこともある。そして、どんどん事務とマネージメントの作業が忙しくなってくる大学という場所で、人の生活や人生のサイクルに寄り添うような調査をする研究者は、ますます居心地が悪い。この点については、先達の人々からの「とにかく強行突破しろ」という教えを頑なに守ろうと思っているが、いつまで私はこれを続けられるだろうか。一人の先生がかつて言っていた、日本に向かう飛行機の中で「本当にまた戻ってこれるかな」という思いに捉われる、という言葉を、最近よく思い起こすようになった。

でも、生活の中で研究をしようとしても、その二つはどんどん分離していく。そして現実的な問題として、現地調査ができなかったとしても手掛けられる研究テーマのポートフォリオを幾つか取り揃えていこうという方向へと、自分の戦略は向かっていく。

sábado, 20 de febrero de 2016

断絶のその先へ

いま自分が知っていることを、かつての自分が知ったとして、それでも私は大学の教員になる決心をしただろうか、と最近よく考えるようになった。私の場合は、その決断に明確な時期が存在する。いったん働いてから大学院の博士課程に戻ろうとした、自分が29歳の時だ。そこは後戻りのきかない、正確に言えば後戻りしないつもりの、決断だった。

自分がかつて学生として通い、周りの人たちや先生たちとご飯を食べたりした記憶のある場所2カ所(片方では正式なそこの学生としてではなかったけど)で、今度はフルタイムの仕事として職場に向かうという経験をここ最近にした。仕事としてそこに関わる中で、かつて自分が感じていた茫漠とした違和感が、これまた多くは茫漠とした形でスーッと腑に落ちた。やはりそうだったのかと、以前からの違和感をその理由とともに納得するような。それは、あまり心地のよいものではなく、むしろ知らなければよかった類のものであった。まだしばらくの間、この感触は続くのだろうと思う。

一つの例として、私はイギリスの影響を受けており、「応用」と名が付く人類学を中心として、実務の世界に関わる際のジレンマという問題関心にとても敏感だ。しかし、その問題関心は<学問としては正しい>が、<大学としては正しくない>。ジレンマに悩むその身を置く安全な場所は大学ではないし、そもそもその身は安全ではない。どの口で正しさを主張するのか、と思うほど、大学は外の社会と比べても正しい場所ではないし、おそらくは社会よりもさらにどうしようもない。社会からの自律が比較的冷静な判断と見立てを可能にする、ということだけでは、そのどうしようもなさは解消されなんてしない。

かつて既に幾つかの大学以外の職場を目にしていた自分は、大学で働くということ自体をいいとは思わなかっただろう。それでも先に進もうと思うとすれば、それは自分の場合には、大学の教員になる直前に手掛けていたことへの、既に愛着と呼べるのかどうかも分からない執着、自分でこれだと思って選び取ったことを何とかこの先も守ろうとすることだ。それは私の場合大学とは関係なく、そもそも学問は大学とは関係がないと思う方がいいのだと思う。

それでも、この先で何かに新たにコミットするとしたら、それは何もない場所からやるべきなのだ。

(ちなみに、私を含めた若手研究者を取り巻く状況の悪化は確実に存在し、上に書いたことは恵まれた環境にいながら何を勝手なことを、という気もしなくはない。ただ、あるところから先は、停滞するのも地獄だし、進むのも地獄なのだと思う。その中で、どこに価値を置くのかを確実に問い直す必要があって、私はやはり見通しが甘かったのだが、どう考えてもその当時にこれ以上ましな見通しなんて持てはしなかった。)