domingo, 3 de enero de 2021

過剰な意味を読み込まない

元日付けの朝日新聞をめくっていたら、「アイマラ語」という文字列が目に飛び込んできて、おっと立ち止まったが、読んでみると残念なことに首をかしげたくなる内容であった。

以下にまず該当箇所を引用してみる――
「たとえば人が時間の流れの中に立ったとすると、時間は自分の<前方>の未来から流れて来て、<後方>の過去に去っていく。日本語や英語など多くの言語でそう表現する。だが南米の先住民の言葉「アイマラ語」は[引用者注:英語や日本語とは]逆だ。まだ知り得ぬ未来は自分の背<後>からやってくる。見知った過去は、友を見送るように目の<前>から遠ざかっていく。」(「コトバと時間――世代超えた「知の蓄積」可能に」)

まず、アイマラ語において、未来が自分の背後にあり、過去が自分の目の前にあるというのは正しい。そして、このように時間が空間に配置されていることを、アイマラ語話者の身振りを通じて確認した研究も存在する。(※)
(ただし、あくまでも未来が後ろに、過去が前に「ある」ということ。大問題なのは、果たしてアイマラ語で時間が未来から過去に向かって「流れる」ものなのかで、私はこの点については重大な疑念をもっている。「時間が流れる」とか「時が経つ」という表現は、少なくともアイマラ語で該当する表現が思いつかないからだ。)

しかしながら、これは日本語とそれほど違うのだろうか。日本語でも、未来のことは「後」のことであり(例えば「3年後」)、過去のことは「前」のことである(例えば「10年前」)。身体感覚として時間が空間的に理解されるかどうかとは別に、前後関係でいえば日本語とアイマラ語はよく似ている。

これとは別に、「前に進もう」というときの「前」は未来を指していて、これは逆の位置関係にある。朝日新聞の記事が直前に引いている瀬戸賢一『時間の言語学』(ちくま新書、2017年)は、その第1章で、前者を「動く時間」、後者を「動く自己」と名付け、二つの軸があるのだとする考え方を提案している。果たして時間が「動く」のかという点を除けば、二つの軸を分けて設定しようとする試みは興味深いものだと思う。先ほどの朝日新聞の記事は、もうこの段階でおかしくなっていて、それはおそらく記者の人が『時間の言語学』をよく読まずに使おうとしたことが原因となっているのだろう。あとは、たぶん自分が知っているはずの日本語について、十分に振り返らないで書いていることも、原因であろう。

しかし、ここでの問題は、朝日新聞の記者が『時間の言語学』をよく読まなかったというだけではない。同書の著者は、動く時間と動く自己という二つの軸を重ね合わせようとし、さらにそこに認識主体Cを導入する。そこで、認識主体Cは、日本語の場合は流れる時間の外で傍観し、アイマラ語の場合は流れる時間の中に身を置いているとしているのだが、私にはこの点が疑問に思える。それは、アイマラ語の場合に時間が未来から過去に向かって「流れる」と考えられているかどうかが微妙で(スペイン語から借用した表現でならば言えるのだが……)、つまりアイマラ語の位置づけがうまく行っていないのだ。元の研究に沿って、時間が身体を介して空間に位置づけられているという点を重視すればよかったのに、余計なところで言えるかどうか分からない事柄を強弁しているようにみえる。 したがって、同書でのこのアイマラ語の事例への言及のしかたにも、十分に問題があるのである。

これは、一般的に、先住民言語を議論するときにとられやすい典型的な傾向だと、私は考えている。つまり自分たちとは「違う」として一方的に切断したうえで、かつ知らないはずのことに自分の文化をもとにして過剰な意味を読み込む、という操作を施しているのだ。スペイン語しか話せない人が、アイマラ語やケチュア語にそれをするのは山ほど見てきたが、日本人がアイマラ語でそれをやるのはちょっと珍しい。私自身は言語相対性の考え方(言語によって世界は違う姿をとって立ち現れる)に親近感を抱くが、言語相対性は「逆だ」とか「全然違う」というかたちで使うのではなく、もっと繊細にそれぞれの言語における様々な表現の相互連関を検討していきながら明らかにしていくものなのだ。

※Núñez, Rafael E. and Eve Sweetster. 2006. "With the Future Behind Them: Convergent Evidence from Aymara Language and Gesture in the Crosslinguistic Comparison of Spanish Construals of Time." Cognitive Science, Vol.30: pp.1-49.
(『時間の言語学』はこの研究に言及するだけで、文献情報を一切挙げていない。いかに新書と言えども、このような点について情報源を示さないのは不誠実なのではないだろうか。)