jueves, 30 de agosto de 2012

「在野の思考」と関わる

ボリビアで歴史学や人類学に関わっていると(注:ここで歴史学というのは先住民の入っていない伝統的な歴史学ではありません)、日本で「在野」と呼ばれるような世界とどのように関わるかに、頭を悩ませるようになる。

今進行中の民族学年次大会(Reunión Anual de Etnología)というボリビアの人類学で最大の学会は、近年発表のレベルが落ちていると言われていて、確かにそういうところはあるように思う。ボリビアの「卒論」というのが日本の卒論よりも遥かに厳しい要求の下で執筆されるという違いを十分に考慮した上でも、やはり卒論がまだ通っていない大学生の発表には首を傾げるものがあるのも事実だ。

しかし、人類学や歴史学が少数の外国人研究者とそれとつながったボリビア人研究者だけで行われていた「少数精鋭」の時代がかつてあったとすれば、現在は学問の「大衆化」が起こった時代だ。ラパス市だけではなく、エルアルト市にも大学が出来て(エルアルト公立大学UPEA、タワンティンスーユ先住民大学Ajlla Uta)、多くの問題を抱えつつも、歴史学を、人類学、社会学をしようとする人の裾野が大幅に広がったのが今の時代だ。

そうすると、方法論的には極めて怪しい思考も跋扈するようになる。怪しい語源解釈、怪しい類推(アナロジー)などに満ちた議論。しかし同時にそれは、その社会を、その文化を生きようとしている人の実感が込められた議論であることも確かなのだ。学問の最先端とは離れて別の領域で蠢く猥雑で純粋な思考。それは呪術師たちと結びついた思考であったり、しぶとく生きる民間伝説の破片がそこに見えたり。

そういう思考たちは、学会の聴衆の中に、そして発表者の中に、そして何とかなり名の通った研究者の中にも姿を現す。

ボリビアでは研究者の発表に対してなかなかまともな質問・コメントが出ないと言われる。しかし、これは見方を変えると、我々は「在野の思考」とどのように対峙するかという厄介な課題に直面しているのだ。これを忌避して拒絶することも出来るが、そうではないとするとどうすればいいのだろうか。

かつて人類学(や他の学問)が「インフォーマント」と呼んでいれば、よかった時代があった。「土着の知識(indigenous knowledge)」として括っていれば、よかった時代があった。でもそのような時代が崩れ去った今、私たちの知識の紡ぎ方はどう変わっていけばよいのだろうか。

保苅実さんが遺著の『ラディカル・オーラル・ヒストリー』で提起した問題は、こんな形でも、研究する私たちを撃ってくるよ。

domingo, 26 de agosto de 2012

「本当のこと」を話さなければならない

今日の午後ずっと話をしてもらっていたおじいさんが、ふとした合間に、「嘘をついたらだめだ、本当のことをいつも話さないといけない」と(アイマラ語で)言った。私たちは小さな町の教会の前の広場のベンチに座っていて、ミサの直後で教会の扉が開いていたので、そういう発想になったのかもしれない。

でもこのおじいさんと私は、大昔は動物がしゃべったんだよとか、すぐそこの魔物が出るとされる場所で変な存在に遭遇した話を、それまで色々としていたのだ。つまり、これらのことは、全て「本当のこと」なのだ。

これを聞きながら私は、大江健三郎だ!と思っていた(注)。

(注)大江健三郎の最近の作品では、小説家である主人公が周りの人に「本当のことを書いてくれ」と迫られる場面が出てくるのです。

このおじいさんは「ちゃんとな、あたまに刻んで、よ~く思い出して話さないといけないんだよ」と僕に言う。「本当のこと」として、現実のこの世界に裏腹のように存在する世界が、作られて、語られていく。創られて、騙られていく。それが起こる場所に、その境い目に、自分を置こうとし続けられるであろうか。

口承の文学と書かれた文学をつなぐ、「本当のこと」と、「刻む」こと。このような経験は、いつも自分を不意打ちにして、何かを強引に開きに来る。

lunes, 20 de agosto de 2012

千速振る独楽の回転

『ちはやふる』の第17巻を読んで、どうやったのか知りたくなった。先に用意できていたのか?描いているうちに見えて来たのか?(それは多分ほぼ確実に後者なのだろう。)千早とつながっている中の、遥か先にある、途方もない新の世界を。

幾つもの読みが交錯して、絡み合って、そして先に進む。自分をゼロに戻しながら、しかしどうしようもなく自分のままで、先に進む。

まだその先があるということに、自分自身が励まされ、途方に暮れ、猛烈に嫉妬する。何にかと言うと、その欲に、そのイメージに、その世界に近づこうとする技術に。

domingo, 12 de agosto de 2012

フリをしないことのまっすぐさ

私のアイマラ語の先生のフアン・デ・ディオス・ヤピータ(Juan de Dios Yapita)に、私がしたアイマラ語のインタビューの書き起こしをずっと見てもらっている。

つたない私のアイマラ語の理解力のせいではなはだしい迷惑をかけているのだが、本人は喜んでいるよう。日頃、本当に言葉を大事に考える人というのは、案外少ないのだなあということを私自身が実感している中で、そういうことなのかもしれないなと思う。正確に書き起こすとか、丁寧に翻訳するという仕事を通じて、言語の一番大事なところに触れている。

それにしても、私には文化的な知識がもっともっと必要だ。元々のおじいちゃんの話を聞いていて、どこでつまづいたかというと、一つはチャマカニ(ch'amakani、「チャ」は破裂音)と呼ばれる文字通り暗闇で何かに憑依されるタイプの呪術師が出てきたところで、もう一つはコンドル人間(頭がコンドルで、鼻が鉤鼻で、翼をもっていて飛べる)が出て来て火をボワーッと吹いたところだった。一つ目は、僕自身がヤティリ(yatiri)という呪術師にしか会ったことがないという経験の狭さから、二つ目は、エンカント(encanto)と呼ばれる呪いにかかるパターンの僕の中での少なさが影響しているわけだ。

(ちなみに私のアイヌ語の先生の中川裕さんという言語学者は、文化的というか民俗的な知識にとても詳しいことに最初の頃びっくりしたのだけれど、そういうことなのだなあと自分で追体験している感じだ。)

今日、僕のアイマラ語の先生は、アイマラ出身の知識人の勉強不足をひとしきに嘆いた後に、「こういう言い方があってな」と教えてくれた―
(1)yatir yatir tukuña(知ったかぶりをする)
(2)qullqin qullqin tukuña(金持ちのふりをする)
tukuñaは「終わる、変身する」という意味の動詞なのだが、前の名詞を重ねることで「実体とは違うもののふりをする」という意味になるのだなあ。アイマラ語における繰り返しは、アンデスのスペイン語にもそのままの形がないので、いつもちょっと面白い。翻訳不可能性が顔を出すポイント。

「ふり」をしない謙虚さ、一番大事なところで言語と付き合う誠実さ。先生のありがたいところは、そういう態度から直に影響を受けられること。

sábado, 11 de agosto de 2012

沈黙を読む

コチャバンバから新作(注1)のプレゼンに出て来ている歳の離れた友人と夜遅くにカフェにいて、同席していたもう一人の人が、「次はね、詩の朗読を入れるべきだと思うんだよね」と自分の意見を言った。

友人はちょっと考えて、おもむろにペーパーナプキンに次の詩を書いて「はい」と渡した。「これ朗読できる?」

SILENCIO SILENCIO SILENCIO
SILENCIO SILENCIO SILENCIO
SILENCIO                 SILENCIO
SILENCIO SILENCIO SILENCIO
SILENCIO SILENCIO SILENCIO

私たちは二人で「ははあ~」と感心しながら、黙読の大事さを力説する友人に聞き入っていた。(注2)

家に帰って調べてみたら、これはボリビア生れのスイス人詩人Eugen Gomringerという人の作品なのだった。よく知ってるなあ。なんて書くと実は相手に失礼かもしれない。

友情の不思議さ、感情のしょうもなさ、熱をもってあふれ出てくる考え。アイマラの人たちと一緒にいる世界とはまた違う、もう一つの私にとっての大事な世界。文学、料理、演劇、古い都市の生活、小さく濃い自分の周りの範囲。


(注)Luis H. Antezana y Virginia Ayllón (guión y dirección). 2012. La ausencia de Adela Zamudio (CD-libro). La Paz y Cochabamba: Nuevo Milenio Editorial, CESU-UMSS y Revolver Publicidad.

(注2)原文は全て小文字で書かれているようだが、ここはそのまま友人が書いた通りに書き留めておく。

viernes, 10 de agosto de 2012

アンデスの織物と学術の遥かな高みと


私のアイマラ語の先生のグループの新刊が出て、今日はそのプレゼンだった。
Denise Y. Arnold y Elvira Espejo. 2012. Ciencia de tejer en los Andes: Estructuras y técnicas de faz de urdimbre. La Paz: Instituto de Lengua y Cultura Aymara.

アンデス諸国の、そしてアンデスの織物を扱う外国の博物館における、説明や陳列方法に大きな影響を与えるのではないかという前評判が高かったこの本。今日買ったばっかりなので、あくまでもプレゼン自体の感想として書き留めておきたいことがあった。
(わたしは実は織物のことは殆ど分かりません。その上でということでの考えたことです。)

アンデスの織物を芸術(arte)ではなく科学(ciencia)としてみるところには、おそらくテレサ・ヒスベルト(Teresa Gisbert)に対抗した自分たちの方法の位置づけがあるだろう(メイン・タイトル)。しかしながら、それ以上に衝撃的だったのは、副題の「構造(estructura)」と「技術(técnica)」について、Deniseが、アンデスの用語に基づいてその理解の中身を完全に塗り替えたと発言したことだ。それはもちろん、ケチュア語とアイマラ語の理解に基づくということだ。それは人類学の仕事の本流であるが、目指すというのを越えてそれをやったというのは、そう簡単に言ってのけられることではない。背筋に戦慄が走るような感覚を味わう瞬間だった。

安易な全体化に対して強い警戒がなされるこの時代に、それでもアンデスの織物文化全体を体現してしまうような、そういうことがある。私と同世代のElviraは、自身の出身地域であるオルーロ県とポトシ県の境界地域の織物にとても詳しくかつ上手で、絵も描き、歌も歌い、詩も書く多彩・多才な人なのだが、文献上現代のものとされていても実はとうの昔に存在しなくなっていた幾つもの織物の技法を、説明や考古学的資料だけを頼りに、三年間にわたって自ら再現しようと格闘を続けたという。

織物の人類学的研究が、ケチュア語とアイマラ語が使えるだけでなく、自分でやってみるということを含めてはじめて成り立つようになった、非常に重要な瞬間に私は立ち会っているのかもしれない。

研究者の知り合いの中で、同時代を生きていても実際に会って会話することよりも時折発表される仕事を通じて大きな影響を受けることがあって、この人たちの仕事は私にとってそういう意味合いが強い。私のもう一方での師匠のシルビア・リベラ・クシカンキが、この社会をどう自分が生きていくかという批判的実践精神に貫かれているとするならば、Deniseのグループの仕事は学術の遥かな高みを踏破し続けていて、逆説的にそれによって極めて現実に役立つ仕事になっている。

外から見ているのではなくて、自分がこの遥か先を進む人たちと同じ集団の中にいるようになって嬉しいと思う、そういうある日の夜の催しであった。

martes, 7 de agosto de 2012

聖人(聖子)の下で踊り続ける悪魔の群れ?

El ñiñito San Salvador de Mecapaca

毎年8月6日は、メカパカ市のサント(守護聖人)サンサルバドールのお祭りだ。この日は同時にボリビアの独立記念日でもあるのだが、メカパカ市は独立記念日の市民パレード(desfile cívico)を前倒しして、6日はお祭りという日程をとっている。

小さな町の狭い路地に、バンダ(金管楽隊)の短調の不協和音がこだますると、地中の世界(manqha pacha)から悪魔(diawlu)が湧き上がってくるような感覚に襲われる。町の広場を取り囲む空間がその性格を変えて、取り囲むアンデスの山々を、そして真っ青な空を、自分の身に感じる。気合いを入れて(con ganas)、何かに取り憑かれたように、私たちは踊り始める。

教会の高台に聖人が陣取り、その下を異形の者たちが踊りながらうごめいている。これはまるで私たちが悪魔の群れではないか。

うごめく悪魔の遥か上に聖人が位置を取っているとするならば、我々人間から見ると、カトリックの聖人も、アンデスの雪を抱いた山々(achachilas)も、そして大空を飛ぶコンドル(kunturmamani)も、全てが並列に並んでいいような気が、私もしてくる。

アンデスの人間の存在を悪魔の位置に見立て、そこから全てを発想していく。かつてはカトリック教会が先住民を下に見るために導入した考え方を、下に陣取って下から逆転させていくような、わたしの師匠(Silvia Rivera Cusicanqui)が提唱しようとしているそういう考え方を、踊ってきたお祭りであったことだよ。


追記(8月8日):友人に教えてもらったのだが、6月から聖人(サント)が連なって、8月のこの先から聖母(サンタビルヘン)の連なる季節になる。その間の丁度今くらいの時期に子ども(ニーニョ)が来るのだそうだ。なるほど。この場合は「聖子サンサルバドール」となるのかな。

domingo, 5 de agosto de 2012

挨拶をする街

ボリビアのラパスの街は、強引にまとめてしまうと、人当たりが荒く、ぶっきらぼうで、ゴツゴツしている気質がある。口が早く、どんどん文句を言って、人々の間の諍いも頻繁に起きる。

しかし。

この街でミニバス(minibus)や乗り合いタクシー(trufi)に乗る時には、運転手と乗客の人たちに向って挨拶をしながら中に入るという習慣がある。(¡Buenos días!)
(ここではミクロ(micro)と言えば大型バスを指し、ミニバス(minibus)と言うとハイエースのような小型の車を使ったバスを指すという、なんとも紛らわしいネーミングがある。)

食堂に自分が入っていったときには、周りのテーブルに座っている人たちに対して声をかけ、自分が出ていく場合も、同様に声をかける。(Provecho, o Buen provecho.)

アイマラの色が強い人たちとご飯を食べているときは、食べ終わったときに単にGracias.と言うのではなくて、片手を軽く上げながら一人一人の名前を呼びながらGracias mama Asunta, gracias Beatriz, gracias Yamile, gracias Santos, gracias Gabi, gracias Dani.と順々に挨拶を回していく。皆はその度ごとにProvecho.と返す。

こういう一つ一つの要素を天秤にかけて評価をするのは難しいけれど、これらの習慣があることが、この必ずしも楽ではない街で生きていくことに、ちょっとしたクッションになっていることは確かだと思うのだ。

PS ちなみに私は、口調が乱暴ですぐに文句を口に出すことは、ボリビアが、そしてラパスの街が経て来た革命と反乱の歴史をよく反映しているように思えて、必ずしも嫌いではない。疲れている時に直面すると更に疲弊することもあるけれど。

miércoles, 1 de agosto de 2012

ボリビア料理とリャマの肉

ボリビアとペルーの大きな違いとして、ペルーではアルパカの肉をよく見かけるが、ボリビアではリャマの肉がよく出てくるということがある。

もちろんペルーでもアルパカの比率が大きいがリャマも飼われていて、ボリビアでもリャマの比率が大きいがアルパカも飼われている。この比率は、よくペルーではアルパカ:リャマ=7:3、ボリビアではその数字が逆というのを聞く。ただおそらく、食肉として流通するという意味で、ボリビアで見かける肉はリャマの方が圧倒的だ。逆にペルーでリャマ肉の料理を見たことがない。

オルーロ地方の名物のチャルケカン(charquekan)という干し肉を炒めた料理は、牛肉でもよくあるけど、やっぱり本物はリャマかなという感じがする。

ラパス市からパカヘス郡など西のさらに高度の高い方に向かっていって、途中の小さな町で定期市などがあると、そこにはリャマのチチャロン(chicharron)というから揚げの屋台が出ているのを見かける。あの地方からのバスが着くエルアルト市の地区にも屋台が出るよと友人が最近教えてくれた。これもボリビアだとリャマのチチャロンだ。(全国的に広まっているのは豚のチチャロンです。)

もう一段進んだ食肉化の試みもあって、ラパス市の健康に気を使った食品を売るような店だと、リャマのソーセージを売っているのをよく見かける。

たまに臭みがかなり残っていることもあるみたいで、嫌いな人はとことん嫌いだけれど、私は実はかなり好き。ボリビア料理万歳!