domingo, 31 de julio de 2011

師匠との再会

日曜日の朝、やや早めの時間に道を歩いていると、向こうから見覚えのある顔が歩いてくる。私の先生のシルビア・リベラ・クシカンキという社会学者だ。実は向こうがアパートを借りていて、ご近所だったことをはじめて知る。先生はエクアドルのFLACSOという研究所に教えに行っていたので、つい最近戻って来たばかりなのだ。
夜に彼女のグループの新しい場所の屋根葺き(techado)が終わったお祝いがあることを教えてもらい、顔を出しに行く。権力から常に距離を置き、アナーキーでボヘミアンな感じ…って伝わらないかもしれないけれど、ビールが回りながら、ギターで歌いながら、踊りながら、冬の冷たい空気の中でたき火を囲みながら、今日もまた色々と話を聞かせてもらう。
たまに放つ一言が、長く自分の指針となることがある。今日も、「混血を脱植民地化しないといけないんだ」と言われた途端に、パッと何か視界が開けるような気がした。そうそう、それを梃子にすると20世紀の前半(1952年のボリビア革命の前の時代)に戻って、混血層によるアイマラ語の創作を現代の視点から読み直すという、頭の中で私が構想している作業に一つ光が当たるよなあ、とか。
そして、エディプス・コンプレックスに対して、アンデス版のアワユ(awayu)・コンプレックスを構想しているという、なんとも魅力的な話。(awayuというのはアンデスの織物の一つで、女性が後ろに背負っている大きなやつです。物も赤ん坊もそれで背負います。)子供の自分をおぶってくれた女の人を否定しなければならないという、植民地的・人種的体制の下でのコンプレックスのあり方。

人類学とか、ラテンアメリカ研究とか、ポストコロニアルとか、そういうものは本当は自分にとってどうでもいいんだ。そう、全ての調査とか研究とかいうものは、というかそういうことですらなくて、もっとはるかに地道で、もっとはるかに自由であることができるよ。考えるというのは生きることであって、それ以上のことはけっきょく余計だ。
最初のころは奔流のように自分の中へと押し流れてくる、強烈な個性とあ然とするほどのひらめきであった。でも浴びるように何年も何年も受け止める中で、少しずつ自分の場所が、具体的な何かが見つかって、それを自分で展開することができるようになってきた。小賢しい小利口な言葉を連ねるのではなく、情念をまるごと明晰な思考で。落ち着くのではなくて、もっと暗いひらめきを、強い思考を。

sábado, 30 de julio de 2011

ボソボソしゃべりと聞き直しコミュニケーション

自分の中で「ボソボソしゃべり」と名付けているものがある。気付いていなくても、実はだいたいの場合相手は自分に対してかなり丁寧にしゃべろうとしてくれている。でも、もう一段ボソボソっとしゃべってくる瞬間に気付くことがある。本当はどちらがいいというのではないかもしれないが、少し気が楽になる感じ。ボソボソをそのまま分かる方に、たぶん幾つもの段階を踏んで、グラデーションのように、機微の方に、向かう。

実は全部が一回で分からなくてもいい。ある部分に絞って聞き直して、それで分かったことを踏まえて、もう一度相手に返していくと、実はそれで「ああ話が通じている」という感覚を相手がもってくれることは、多い。しかもそれは、いろいろな言葉の実力の段階で、同じようにいえることなのではないかという気がする。

途中の段階を、途中の段階として、大事にできるといい。

domingo, 24 de julio de 2011

ニワトリとタマゴとアイマラ語

今日は朝一番に、うちのおばあちゃんが「あのメンドリをよく見ていてくれ。その代わり後を付けていると気づかれないようにね」と言われる。"Estaría t'uqureando"だからと。これはもともとt'uquñaという「鳥が卵を産む」という意味のアイマラ語の動詞から来ている。ちなみにthuquñaは「踊る」になってしまうので要注意(実は私はそのメンドリがやたらバサバサ羽を動かしているからそういうことかと最初思い込んでいた)。
(注:t'は破裂させる子音、thは空気を入れて発音する子音です。)

鶏は気付かれないように結構遠くに行って卵を産むらしい。最初に家の建物のそばで一心不乱にエサのトウモロコシをついばんだあと、かなり警戒してウロウロしながらなかなか進まない。ちょっと違う方向に行ってみたりもする。フェイントか。
しかしある程度離れると、いきなりスピードが速くなった。うちの豚さんが母と子たちでたわむれている横を通って進む進む。
隣の敷地に向かって、用水路を飛び越えて行った。
この隣の敷地は普段は不在で、うちのおばあちゃんが何かと面倒を見ている。うちの家族はdoctorだと言ったりもするが、うちのおばあちゃんとその孫はcaballero gente(kabayiru jintiと中間くらいの発音で)という名前を勝手に付けて呼んでいる(本名は知らないとあっさり言われた)。不思議なスペイン語だなと思っていたけれど、そうかアイマラ語でwiraqucha jaqiと言うと不自然ではないかもしれない。その直訳なのだな。
(注意:ウィラコチャ(wiraqucha、「コ」の音は口の奥の方で発音します)は自分より上の社会階層の人(主に白人・混血層)に対して使われる呼称ですが、元々はアンデスにおける神話的存在の一つを指す言葉だったようです。ハケ(jaqi、「ケ」の音は口の奥の方で発音します)は「人」なのですが、日本語の「人」と同じで(例:成人式)、「成長して一人前になった尊敬すべき人」というニュアンスがあります。)
「あの藪に行った!」と子供たちが叫んでいる。近づいてみると…、
確かに~。非常に目につきにくいところで件のメンドリがじ~っと卵を温めている。 
早速うちのおばあちゃんがやってくる。産んだ卵を全部孵すということはないらしくて(部分的に腐ってしまうらしい)、半分食べるために取っていこうということだ。なんと全部で21個も卵があって(そこまで気付かないとは何事かと孫がおばあちゃんに怒られた)、8個は下の方の茂みに落ちていた(ちょっとおっちょこちょいのメンドリなのだろうか)。まず親鳥を掴まえておいて、おばあちゃんが穴の中に手を伸ばしているところ。
孵りかかってしまった卵は食用にならない。そういう卵をq'ulluと呼ぶ。辞書には「腐った」とあるが、そうするともう少し意味の範囲が広いと思った方がいいかもしれない。似たような状況にある卵をまとめて、幾つか軽く割ってみる。うちの子は緑がかってくると言うが、むしろ中身自体は血がかった赤色だ。こうなってしまった卵は実は「万病にきくんだ」とおばあちゃんは言うが、そう言う(かつリューマチに苦しむ)おばあちゃんが率先してこれらを放り投げて捨てていた……。 

ちなみに、ジャガイモを乾燥させた保存食のch'uñuやtuntaと呼ばれるもの(後者は以前のエントリーに写真があります)は、前日から十分に水につけて十分に中までふやかしてから茹でないと、かたい芯が残っているものをいくら茹でてもふかふかにはならない。そういう芯がまだ残っているものをquluと言うのだった。「ごつごつしている」という感じのようだ。この二つの単語も発音が似ていて、ちょっと区別が大変かもしれない。

私は私で5月に来たときにヒヨコを6羽買って持って行ったのだけれど(順調に大きくなりつつあります…大きくなったら食べさせてもらうんだ!)、こちらはポネドーラ(ponedora)と言って卵を産むだけで孵らない。今回の鶏はクリオーリャ(criolla)で、3週間から3週間半で卵が孵ると言う。またヒヨコが増えるか。楽しみだなあ。

jueves, 21 de julio de 2011

10年前の自分とつながるために

私が修士論文を書いたのは2002年でもう9年も前になってしまったのだが、ひょんなきっかけでもう一度それと向き合う機会がめぐってきている。

前回は2005年に、ある内々の会議で発表しに呼んでもらった時だったので、その時から数えても6年経っている。あのときはlike-minded peopleの発表の刺激的な競演で、アフリカから劇団も来ていて、しかも若手のジャマイカ人とインド人と日本人(最後が私)が議論のリードをとるというゾクゾクするような経験だったのだが(私は実は議論の場でとてもよくしゃべる)、その全てを受けとめて次に展開するだけの力量が私に欠けていた。

こんなことを書くとはしたないのだが、私が書く期末エッセイは評価が極端に分裂することが何度かあって(一つの授業の期末エッセイについて必ず二人の評価者がつき、文書化された評価は本人に渡されます)、修士論文も独創的だが言葉づかいが分かりにくいと言われ、確かあとわずかで日本人としては珍しいはずのdistinctionというものを逃した。このとき、評価者の一人から内々に「あと何点でとれるの?」と聞かれて、「そんなことを気にしないで思った通りに点を付けてくれていいよ」と私は答えたのだった。そんな意地を張るべきじゃなかっただろうかと、今でも思い起こすことがある。恥ずかしいが、これを自分の中で落ち着かせるまでに、本当に3年丸々かかった。

私の修士論文は、2000年の世界銀行の貧困をテーマとした『世界開発報告』に向けた作業の中の一過程を批判的に考察するもので、その過程には私が所属していた研究所も関わっていた。2005年の会議は、2006年の世界銀行の公正(equity)をテーマとした『世界開発報告』に向けて、イギリスの国際開発省が批判的にコミットをしようとする中で、それに関連した人類学的なアプローチの柱を作ろうとする動きの中にあった。こう見てみると、2000年前後からの貧困と不平等にかかわる国際開発の動きの主要な地点を、私の修士論文はこっそりと経てきたことになる。そして今回も…。

それまでの自分になかった何かに向かって、なんとか手を伸ばそうとして、自分でもなにをやったことになっているのか本当はよく分からないまま、思考は論文の形になっていき、そして橋の真ん中で川に落ちた。

そのときに(正式なアドバイザーではなく)アドバイスをもらいに行っていた人の一人にロバート・チェンバースという情熱的で反逆的で革命的な人がいた。「multipleな人」というのは(少なくともイギリスでは)ほめ言葉として使われる(ことがある)が、この人はmultipleであっただけでなく、キャリアの晩年の節目節目で以前の自分の仕事を振り返り、最新の状況に合わせてアップデートしようとすることを試みてきたのでもあった。動態的なマンダラのような思考のあり方を呈している。あの後で、私は私で自分を作り直そうとする中で段々とmultipleになってはきたかもしれないが、振り返ってアップデートするのは難しいよ。

そしてそもそも既に締め切りを大幅にオーバーしているのだった(これは私のせいではない!)。このせいで立ち消えになるかもしれないけど、少し、前よりも、ひるんでたじろがなくなったかもしれない。それだけでもね。

参考:
2002. "Re-examining the 'Participation' in the World Bank's Voices of the Poor: A Travel Tale of Quotes." MPhil Dissertation submitted to the Institute of Development Studies, University of Sussex.

miércoles, 20 de julio de 2011

言葉についての「仕事」の不思議

ある言葉に関心をもって、学ぼうと決めたとき、そのとき本来は日常の生活で分かるように、しゃべれるようになることが目標のはずだった。でもある段階で、しかもまだ十分に分かっていない言語が「仕事」になってくると不思議なことが起きてくる。

部屋で紙の上に書かれた文字に対峙して「う~ん」と唸っている自分は何かおかしいのではないかと思うことがある。今、校正と分析と翻訳とを手伝っているアイマラ語の文書がそれだ。農村のアイマラの人たちに対してなされたインタビューを、文字化されて章立ても整った段階の草稿を、なぜか外国人(である私)がネイティブの人の協力を推進しながら、読んで、翻訳を作って、一緒にそれについて考えていく。「現場」からは離れている。でも自分が現場にいても同じことはできないし、しかも同じ人たちに会うことはもうできない。

ある言語が使われるその瞬間から離れていき、細分化された分業の中に、分析の中に、分かれていく。でもそこに、今の自分にはない新しい言葉の世界が見えてもいるのだ。

「訳読」というのは不思議な作業だ。つまんないようで、単調なようで、私はこれまで自分では仕事の部分で避けてきたところがある。しかし、実際に別の言語であるスペイン語にわざわざ訳すことは、アイマラ語のネイティブの人にも新しい発見をもたらすらしい。外国人に質問されて、細かいところを意識するようになると言われる(漢文訓読についても似たような話を聞くことがある)。

そうやって訳読をしている時間、それは両方の言語の織りなす世界でそれぞれをより深く理解して、その世界を感じとろうとする時間の持続。ひょっとして、その言葉が放たれた瞬間に向かって再びつながろうとするならば、この作業の瞬間が一番近いのかもしれない。

ある種の遠ざかりは、仕事において、研究において、必然なのかもしれない。でもそこからもう一度戻ろうとすることができるだろうか。一度離れた所から、分析をしているところから、分業をしているところから、戻りたいのだ。アイマラ語のオーラルヒストリー史料の文字を見ながら、一昨年のうちのおばあちゃんの録音を何度も聞き直しながら、言葉が放たれるその瞬間に、その言葉が織りなす世界に、自分が「使える」ようになるために。

domingo, 17 de julio de 2011

息吹

クスコで豚を食べている間に、ラパスでうちの豚に子供が生まれました。
 クスコに行く前の豚です。お腹が大きくなっている。
金曜日に生まれた子豚たち。今日は日曜日。お母さんが踏みつぶさないように、まずお母さんを転がしてから子豚たちを近づけていました。

そして標高が少し低いうちの辺りでは、もうトウモロコシの種まきとジャガイモの植え付けが始まっています。
そしてよく見ると、桃の淡い紫色の花が咲き始めているのが見えます。 これに引き続き、プラムの白い花が咲き始めるはずです。
遠くから見るとまだ生命が休息しているように見えるうちの果物畑ですが、中ではもう春に向けた息吹が少しずつ現れ始めています。

martes, 12 de julio de 2011

アイマラ語を書き起こすお仕事

今日また音声と自分の書き起こした文字を、二人別の人と頭を突っつき合わせて検討してもらって、これで二つ目のお話の聞き起こしにだいたい目途がついた。ふうぅ。珍しいことに同業者の人(アメリカ人)がいて、それだけでちょっと心強い。しかも向こうは社会言語学という僕がまったく馴染みのない分野が専門でいてくれるので、最近の理論的動向とかも含めてちょっとずつ教えてもらえるのもありがたい。わたしゃもうちょっと泥臭く行きますよ。
人が話したのを書き起こすなんて複雑なことがあるのかと思いきや、複雑なのですよ。もともとネイティブの人だったら変わらんだろうよと思って、たまにいろいろな人に試してみたりするのだけれど、本当に見事に自分の聞きたいことを勝手に聞き取ってくれちゃって、ある意味自分のレパートリーで言い換えてしまうんだよね。人が話すことを正確に聴くというのは、話としてであろうと、もう少し細かく言語としてであろうと、やはり当たり前のことではないね。どこかで、意識的にでも無意識にでも訓練が必要なのかもしれない。
スペイン語だとそこまでいかないのかも、「自分のレパートリーではない」というのが干渉してしまう度合が。ひょっとすると「標準化」が強制的に進められた度合が少なくて、個人の話者ごとの差が大きいと、そのぶん複雑になっていくということなのかもしれないな。それと接尾辞の種類がたとえば日本語よりはるかに多くて、組み合わせの自由度がはるかに高いというのも影響しているかどうか。

この仕事、今年のノルマはあともう一つ。そして同じくらいの量が来年にまた。書き起こしたら次はスペイン語に訳す作業が来る。これも実は語学的に正確に(=接尾辞の一つ一つをできるだけ忠実に)訳すべきだという立場を私は私の先生たちのグループと共有しているので、練習しながら見てもらわないといけない。
今日も聞き起こしを確認しながら口頭でぶつぶつ訳していたら、横から先生に修正された。ある動詞の屈折接辞(活用)を過去未来完了(用語あっているかな…habría dormidoってやつね)で訳していたら、「いやそれはただの過去未来(dormiría)で訳せ」という。ここ若干議論の余地があるのだけれど、確かに文法的にはその方が正確か。日本語と似て推量のような言い方が複数あって、それが時制と組み合わさるのでたいへんたいへん。
(某古文の授業で生徒たちを苦しめていると、どこかで自分に跳ね返ってくるといういい例ですな。)
訳す先のスペイン語も、アンデス言語の影響を受けて変容した「アンデスのスペイン語(castellano andino)」だから、訳とは相互変容を経たもの同士の相互作用になるのだね。

その後に「グロス」と呼ばれるものを…。これは一からやり方を確認(勉強)しないと…。

これは実は日本では掲載してもらえそうな雑誌のあてが既にあるのです(ボリビアは交渉中)。来年途中に出るはずですので、ご関心ある方はお楽しみに~。しかし、これを論文にするためには、まだある村にいろいろと話を聞きにいかないといけないのだが、誰も知っている人がいない。誰かつながりのある知人に連れて行ってもらうのではなくて、ある特定の村と関係を築かないといけないというのは初体験で、今いろいろと頼んだり人をあたったりしているのだけれど、果たしてうまく行くだろうかね。

lunes, 11 de julio de 2011

「そこにいていい」

「そこにいていい」というのは、当たり前のことではなくて、すごく不思議なことだ。当たり前でないはずのことが、いつの間にか少しずつ空気のようになっていくというのは、もちろん当たり前のことではない。「家族」というのも、いつしか当たり前のことではなくなった。壊れたり、なぜか自分の場所ができたりするようになってからだ。
以前ツイッターで、星野智幸さんの『俺俺』を読み始めのときに「面白い」とだけツイートしたことがあったので、そのことと併せて書いておこうと思う。
(注:これは当初研究の仲間内で読めるように書きつけておいたメモを元に書き直しました。)

『俺俺』について
『俺俺』に関していえば、中盤から面白さが失速して結末に向かう流れについては何とも言いようのない感じだというのが、最終的な私の感想です。しかし、それでも「オレオレ詐欺」(今は振り込め詐欺というのか)を主人公が仕掛けると、本来は他人であるおばさんが本当に主人公を自分の息子だと信じてしまい、主人公もそこに取り込まれていく、そして本来の家族には別の若い男が入り込んで自分の居場所はなくなっていく、という序盤の設定には目を見張る面白さがあったと思う。
この本は、大江健三郎賞の受賞対談を聞きに行こうと思って、そのために読んでいたのだった。対談を聞いている限り、大江さんが「卓越した小説的思考力」、つまり「小説を書くにあたって人が考えもつかないような設定を構想する力」として安部公房になぞらえて評価していたのは、その部分だったのだろうと思う。それは、語り手=主人公が新しい状況に置かれるたびに記憶が書き換わっていき、ついには語り手である「俺」が複数の人物へと移っていくという面白さにつながっていく。
ではなぜ面白くなくなるのかというと、おそらくこの卓抜な設定を星野さんが「現代社会の病理」としてしか位置付けることができなくて、結末をその病理の「極限状態」としてしか描くことができなかったからではないかと私は思っている。卓抜な設定を元にして意外な読み替えの可能性を想像することができなかったために、病理の極限状態(=共食いのし合い)の先に何が残るかという形でしか話を展開できなかったのではないかということだ。

「そこにいていい」について
特に家族の場合、私にとってそれは「虚構」が発動することと大きく関係している。「一緒にいたい」に向けてとっさに何かを言う。それは「嘘をつく」ことかもしれないし、「冗談を言う」ことかもしれないし、「物語を作っていく」ことかもしれない。それが、つながりというかまとまりを駆動させていくことがある。
同時に、完全によそ者であって、その家族の中にいる必然性がない人間がいる(である)ことが、家族がまとまっている理由になったりもする。大江健三郎の小説では、よそ者でありながら四国の森の伝承に関心をもつ登場人物が出てくる(『水死』の長江古義人のお父さん)。前に小森陽一先生が「よそ者なのに森の伝承にコミットしたから、母親は愛したんだ」という趣旨のことを授業中に断言したことがあって、それは確かにその通りだという気がするのだ。
(注:ここの部分は、かつての自分の教え子が出演した舞台『上海グッド・オールド・デイズ』を見たのも、一つの土台になっています。)

最後に
家族と関わるような調査をしていると、いつのまにか「家族のような」存在ができていく。そこでは僕は少しずつ「人類学者」ではなくなっていき、息子のような、お兄ちゃんのような、夫のような、お父さんのような存在となってゆき、しかもそこでは葛藤と拒否をもはらみながらの、ある意味あるはずのない関係への投企が行われていく。
そのような関係ができるたびに、お互いがそのように位置付け合い、僕は突発的にそこにそれまでに流れてきた歴史に撃たれ、あるときを境にそこで記憶が刻まれはじめ、僕は登場人物になっていく。僕がそこにいる時間だけ、そこに独特のありそうもない日常が流れて、それを皆が受け入れる。それは、それぞれの場所にあった幾つもの「僕」になっていくことだし、それはある段階で誰かが埋めそこなった場所でもあり、僕は僕でいくつもの場所で「僕」になりそこなってきたのだ。
『俺俺』が描くのは現代日本社会のディストピアだとしても、本来その方法上の適用範囲は、私のような人類学者(だかなんだか分からない人)の世界へもつながっている。

(注:方法論的に自覚していることを一つ書き加えておくと、人類学にもそして文学にも「旅」というか「移動」というかを基調とした思考をするグループがあるように思うのですが、私の思考はそれとは異なります。説明しにくいのですが、もう一段足を本来の「地域研究」の方に置いた感じと言えばいいでしょうか。)

sábado, 9 de julio de 2011

『過去』の教訓生かされず

「核をめぐる対話―『過去』の教訓生かされず」
作家・大江健三郎さん/第五福竜丸元乗組員・大石又七さん
(ヒロシマ平和メディアセンター)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20110704172809740_ja

miércoles, 6 de julio de 2011

クスコ雑記

(1)クスコのバスは、実は数年前に60センターボに値上げされたのだが、ピッタリで渡すと50センターボで乗れるという時期が長く続いてきた。これ自体、住んでいないと勇気がいる。なのだが最近、本当に60センターボを徴収しようとするバスが幾つか出てきて、このあたりの匙加減が本当に大変になった。ちなみに私は、「え~、でも~」とか言いながら50センターボで乗り続けている。たまに、「ちっ、外人がよ」という目で睨まれる。
(2)最近、幾つかの路線でバスの大型化が進行中。うちの娘の文房具屋さんの前を通るArco Iris(虹)という名の路線は、ほとんどがまだ改造バンなのだがたまに大型車が来るようになった。そして家に帰る時に乗るExpreso Inka(インカ・エクスプレス)は、いかにもすごそうな名前にもかかわらず、クスコで一二を争うオンボロな車体で今にも崩れ落ちそうだったのだが、最近Hyundai(韓国)産のきれいな車が幾つか走り出して、昨日乗ったのにはなんと正面に電光掲示板が付いていたよ。
(3)Expreso Inkaの片方の行先はWayraq Punkuという。これは「風の扉」という意味のケチュア語で、このバスは「Wayraq Wayraq Wayraq~」(風の風の風の~)と車掌さんが窓から叫びながらやってくる。個人的にはこれが好きで、さらに言うならばちょっと鼻にかかったように発音されるのがお気に入り。
(4)鼻にかかったケチュア語つながりでは、Magaly SolierというMADEINUSA(マデイヌーサ…女の子の名前)とLa teta asustadaという二本のペルー映画で主演した女性のWarmi(『女』)というCDを購入して聞いている(この人はアヤクーチョのケチュア語)。ケチュア語の歌詞の間に「お前の父ちゃんマチスタで暴力的」とかの言葉がはさまって、反逆的でおもしろい。

(注)昔から、なぜペルーでは韓国産の車が大々的に走っていて、ボリビアではまったくないのかが、とても気になっている。クスコではだいぶ少なくなってきたがDaewooのTicoという小型車がタクシーで大活躍している。輸入上の体制なのか、輸入業者の既得権益なのか、ボリビアのラパスは坂がきつすぎてトヨタじゃないとだめなのか。でもボリビアでは、最近中国産の車を少しずつ見かけるようになってきた。