domingo, 31 de agosto de 2014

空港の話(ダラス空港DFW)

ここ15年以上、日本とラテンアメリカを往復してきて、その一部の期間はイギリスとラテンアメリカを往復して来たりすると、米国の中のある特定の空港になんとなく親しみを感じるようになる。

私は、専門とするボリビアがアメリカン航空しか飛んでいないので、ひたすらワンワールド系列に忠実に飛んでいるのだが(ヴァリグというブラジルの航空会社が存在し飛んでいた時期はスターアライアンス系列に忠実だった)、ダラス(DFW)、マイアミ(MIA)、シカゴ(ORD)、ロサンゼルス(LAX)、ニューヨーク(JFK)など。

マイアミはよく一泊を要求されるので空港の外によく出たりするのだが、ダラスはたった一度の宿泊だけ、シカゴは国際学会に行くのでバスに乗り換えたたった一度、ロサンゼルスは遥か昔に長い長い乗換の時間があったので海を見に行った一度だけしか、外に出ていない。

でもなんとなく「やあまた来たね」という気分がいつもする。ダラスで時間があるときは、いつも同じ所で食事をしている。結構有名なところらしい。これは行き先の空港とは違う、完全に文脈を離れた止まり木のような場所だ。常に一瞬の邂逅だけれど、とても親しい。

空港の話(クスコ空港CUZ)

空港というのはとても不思議な場所で、飛行機もとても不思議な乗り物だが、ラテンアメリカの比較的小さな空港をよく使う私は、欧米の大きな空港を行き来する場合とは少し違う経験をしていることになるだろうか。

ペルーのクスコ市の空港は街のど真ん中に位置しているが、空港に入ると、同じ町の空間にいるはずなのに、何か別の膜で遮断されたような感じを受ける。それは併行した別の世界に遮断されてしまうような感覚であるときもあれば、自分がそこにいてもいいもう一つの世界の中にあと少しで戻ってくる感覚である時もある。

それを隔てているのは、セキュリティチェックという物理的な存在でもあれば、飛行機という乗り物の機体の感じであったりもする。でも、次第に人が増えて大きくなっていくここの家族の、小さな女の子が私に別れの挨拶をするのを忘れて遊び続けていて、周りの大人も全然気づいていなくて、後から慌てて走ってきて、ここから先は旅行客しか入れない線をわき目も振らずに駆け抜けてきた。係員の人も、一旦制止しようとして、事態を理解して、そのままその子を通してくれた。この隔ては、自分の気持ちも、他人の動きも、少しずつそれを越えて浸透してきたりする。

クスコは、昔むかしは、風のせいで午前中にしか飛行機の発着ができなかった。しかし、いつしか午後の日のある時間まで飛行機の発着ができるようになって、しばらく前に夜間発着に向けた投資をするという新聞記事を読んでいたら、なんと今回来てみたら、夜の早い時間にクスコに到着し、出発するフライトが設定されていた。

クスコを出てリマに向かう最終便は、普段の観光客でごった返している様子が少し和らいで、人も少なく穏やかな出発だ。出発の時に、リマからもう一つ飛行機が着陸してきた。これはクスコで夜を越して、クスコ早朝初の便になるらしい。クスコで夜を越す飛行機も、昔はなかった。

私が初めてペルーに行った1999年は、元々はチリの国営航空で民営化されたラン航空が初めてペルーに参入し始めた年でもあった。アエロペルーという何とも危なっかしい航空会社が、まだ最後の姿をとどめていた。アエロコンティネンテという航空会社にも何度か乗ったけれど、結局はラン航空の機体の新しさと投資が後押しした動きに、私はここまでずっと乗っかってきた。

martes, 26 de agosto de 2014

レネ・サバレタ・メルカード(ボリビア)の全集の刊行が続く

ボリビアの20世紀において、とても重要な政治・社会思想家であったレネ・サバレタ・メルカード(René Zavaleta Mercado)の全集の刊行が、Plural社から続いている。昨年2013年に第2巻が刊行されたことは気づいていて(全3巻)、いろいろと探しに行ったのだが見つからない。すでに品切れが近いらしく、かつ重版がなかなかかからないのらしい。


最初はPlural社の本屋に頼んでいたのだが、どうも頼りない返事しか来ないので、ふと思いついて古本の市場街に足を延ばした。ラパス市には二か所あるのだが、私はその中のPsje. Núñez del Pradoの一軒を昔から贔屓にしてきた。人文・社会系の本を選ぶセンスが良く、たまにしか見つからないものをうまく置いていたりするのだ。

そうしたら、なんと「お前が来るんじゃないかと思って取っておいたんだ」といいながら、奥から出してきてくれた。こういうのをスペイン語でcasero/caseraというのだが、ああやっぱりね。試してみるものだ。本当にありがたい。

この第二巻には、1952年のボリビア革命が失速してしばらく経った後の、彼がオーソドックスなナショナリズムやマルクス主義から次第に外れて、そしてそれによってボリビアの社会の多様性と複雑性を捉える重要な視点を生みだしていった、「後期サバレタ」と呼ばれる時期の重要な作品が収められている。特に遺作のLo nacional-popular en Boliviaは、かつてメキシコのSiglo XXI Editoresから出ていた版はしっちゃかめっちゃかだったのだが、不十分な書誌情報等がPlural社から出た第2版で大幅に改善され、今回の全集版でよく分っていなかった部分がさらに情報を加えられているようだ。

このような丁寧な書誌学的な仕事にもとづいた版が手に入るようになってきたのは、数年前からのボリビアの新しい出版情勢だと言えそうに思う。その中で、新たな私よりも少し上の世代の思想・文学の研究者たちが重要な役割を果たし、(いろいろ文句はやはりあるんだけど)Plural社が果たしてきた役割は大きい。

様々なカントゥータの花

ボリビアではカントゥータ(kantuta)、ペルーではカントゥ(kantu)と呼ばれる花がある。この時期の冬場にきれいな花を咲かせている。春になると実を付けているのだけれど、私の友人に聞くと種からは滅多に生えないようだ。側枝から別の株ができるのだそうで、それを植え付けるのが一番確実だという。

このカントゥータ、花の色に様々なバリエーションがあって、見飽きない。黄色と赤と花の付け根の緑とを合わせるとボリビアの国旗と同じ色になるので、ボリビアの国花にも指定されている。

村から村へと移動する道端に生えて花を咲かせているカントゥータ

上述の友人の家のカントゥータ。
日当たりがいいからか大木になって大きな花を咲かせている。


よく訪れるアイマラ語のラジオ局の入り口のカントゥータ(その1)

ラジオ局のカントゥータ(その2)



ラジオ局のカントゥータ(その3)



ラパス市のムリーリョ中央広場は、赤と黄色のカントゥータが混じって咲いている。

鳩に満ち溢れているこの中央広場、カントゥータの木に紛れると、
うっそうとして一瞬だけ違う空間に入り込んだ気がする。



domingo, 24 de agosto de 2014

野にある強さ

夏休みに自分が専門とする地域に来れているだけでも自分が恵まれている状況にあることは分かっているのだけれど(私の先生の清水透さんは、どこかのエッセイで、かつて日本に帰る飛行機の中でまた研究費が取れて戻って来れるのだろうかという思いが毎回頭をよぎったと書いていた、そのときよりも状況はおそらく恵まれているのだとしても)、3週間の短い滞在でおそらく会うのは難しいだろうなと思っていた人に、ばったり遭遇することがある。

相手の人がその場所にいた理由は、まったくもって楽しいものではなかったのだが、それでもばったり会えたことは何かの恵みなのだろう。

自分の才覚一本で、商売で新しい道を切り開いてきた人の、野にあるような思考と発想の力強さを思い出させてくれる、とても大事な人だ。意表を突かれるような発想は、日常のような当たり前の作業の中から生まれてくることを、話を聞きながら実感する。芸術的なものと工芸的なものの違い、手に職を付けることと手に職を付けないことのどちらが贅沢か、いろいろと考えさせられることがあったが、でもおそらく一番大事なのは(大学という狭い世界の中にいると忘れてしまいそうになる)その人が生きることと考えることが結びついた強靭で頑固でしなやかな鋭さだ。

帰り際に、いたずらっぽく、「こうして以前のように研究をしているのと、大学で授業をしているのと、どっちが楽しいですか?」と聞かれた。私は、とっさに、「自分の研究がちゃんと回っているときは、大学で授業をするのも楽しいですけど、研究ができずに授業に追われるだけになると、どこか自閉していくような気がします」と答えた。答えたんだけど、そしてそれは間違っていないんだけど、その言葉は私の中に重く沈んで残った。

sábado, 16 de agosto de 2014

ハイメ・サエンス『ラパスの像』をめぐって

ラパス市に住み、ラパス市を愛して酒を飲み続けたハイメ・サエンス(Jaime Saenz、1921-1986)という詩人・作家がいた。20世紀のボリビアにおいて傑出した詩人であり作家でもあったことは確かだ。私は以前からこの人の書いたものが気に入っていて、少しずつ読み進めている。

ずっと長いことこの人の作品は入手することが難しく、古本屋を丁寧に回らないといけなかったのだが、ボリビアのPlural社が一つ一つの作品を再刊(・部分的に新刊)する作業を進めてきた結果、ずいぶんと見通しが良くなった。

下の写真は2012年に再刊された『ラパスの像(Imágenes Paceñas)』。初版(1979年)では本の大きさに合わせるためにカットされたり縮小されていた写真を、この第2版では完全な大きさにして掲載しているとのことだ。
Plural社から第2版が出たJaime Saenz. Imágenes Paceñas.
昔読んだときに、他のものに比べて文章が薄いような気がして、そのままにしておいたのだが、今回読んでみるとやはり濃密で、特に序文はサエンスらしさが存分に発揮されていて、「よっ名文!」と叫びたくなるように思う。

分かったのは、どの地域を扱うかで思い入れに濃淡の差が出て来るらしいことだ。彼の得意分野はラパス市の旧市街、中でもムリーリョ通りからチュルバンバ(アロンソ・デ・メンドーサ広場)を抜けて中央墓地へと至る部分、そしてハエン通りからリオシーニョ広場へと至る部分だ。しかしながら、面白いことに、同様に濃密な雰囲気を漂わせていると私は思う、中間層の住むソポカチ地域については、サエンスは観光ガイドみたいなことしか書いていない。またもう一つ不思議なのはムリーリョ中央広場の扱いで、私はあそこからラパス市役所にかけての辺りはとても怖い場所だ、亡霊的な場所だと思うのだが、サエンスはそのようなことに触れつつも、やはりこの部分の記述も弱い。私はかつてソポカチ地区に長いこと住んでいたので、昔はそこから勢い込んで読んで、そのまま失望したのであったらしい。

文学をやる人と人類学をやる人の生息地域は異なってくることが多く、私はサエンスの活動地域よりも、ラパス市の両側面のもっと上の方にも基盤があるのだけ れど、さてそれにしても私の現実はどういうことになるのだろうかな。

ボリビアの文学雑誌La mariposa mundialは、2010年(第18号)のハイメ・サエンス特集に続いて、2013年(第21号)も補遺のような形で未発表の詩に加えて幾つかの論考を掲載している。


martes, 12 de agosto de 2014

冬から春へと

アンデスの高原ではまだ乾季の風景が続いているが、谷間では梨や桃の花が咲き始めていて、年明けから始まる豊穣の時期に向けて木々が始動している。今年もまた同じサイクルが回ってきて、真っ青な空と茶色の山々に白と桃色の花が点々と放たれている。
 







まだら模様の社会とまだら模様の自分

私はボリビアでは社会学者のシルビア・リベラ・クシカンキ(Silvia Rivera Cusicanqui)を先生と仰いで、ラパスにいる時は時折訪ねていろいろ話を聞かせてもらったりしている。今回も家で先生が仕事をしている横で、話を聞かせてもらったり、本やブログの記事を見せてもらったりする時間を過ごした。

ボリビアの政治社会情勢は、2000年代の最初の10年間の動きに大きな期待を持ってきた者たちにとって、決して明るいものではない。先住民を大統領に抱いたはずの政府が、昔ながらの為政者の流れに自らを位置づけ、大規模な公共事業で人目を惹き、ナショナリズムを強く発動した国家統合を目指していく姿は、かつて見えていた全ての変革の可能性が閉ざされてしまったかのようだ。この点で、私は大まかにシルビアと見解を同じくしている。

目に見える転換点は、このブログでかつて繰り返し話題にしてきたTIPNIS紛争であっただろう。

右傾化の中で変革の希望を見いだせずに閉塞感を強めていく日本社会と、左傾化の外見の裏で奇妙な消費バブルに浮かれつつ昔通りのやり方へと戻っていくボリビア社会と、奇妙なところで一致しながら事態が進んでいくかのようだ。

私がここで考えるべきことは大まかに二つある。一つは、20世紀のボリビア最大の政治思想家であったレネ・サバレタ・メルカード(René Zavaleta Mercado)の思想が、歪曲された形で21世紀初頭のボリビア政治に受けとめられたのではないか、という問題だ。私は2012年に二度学会とセミナーでペーパーを書いているのだが、これと共鳴するような問題意識が下で紹介したブログでのやり取りにはあり(La disponibilidad de lo inédito)、この検討をもう少し広く体系的に行う必要がある。サバレタ・メルカードの遺作であり代表作のLo nacional popular en Boliviaの英訳の刊行準備が進んでいるそうであり、それに併走する作業として重要になる。
(私がシルビアと意見を異にするのは、彼女は後期サバレタをほとんど無批判に受容していくが、それは彼女の思考のし方に完全に取り込んでしまっているのであって、既にかなり変形しているようにも思われる。私は後期サバレタ自体がもっている限界をも見た上で考えたい。)

もう一つ、私の先生は混血(mestizaje)を脱植民化するという問題意識から、自らの中にある二極性(混血性と先住民性)を解消せずに、そこから新たな可能性を見出していこうとする方向へと思考の舵を大きく切ってきた。これをアイマラ語でまだら模様を意味するch'ixiという単語で表現している。(もちろんこれがサバレタ・メルカードの「まだら模様の社会(sociedad abigarrada)」と呼応していることは言うまでもない。)この考え方が、本当に強固に変革を目指す志向を裏打ちすることができ、また現在のボリビアの政治社会情勢に対する批判として力をもつのか、これはまだ我々が見極めるべき課題として残されている。

苦しいのだと思う。おそらくこれはとても苦しい闘いだ。70年代初頭のトーレス軍政時の左派の体たらくに絶望し、アイマラ先住民運動であるカタリスタ運動に対する90年代の政治的取り込みに絶望し、そしてエボ・モラレス政権に対してまた絶望する。危機と絶望の中で、かつての先住民主義(インディアニスモ)の提唱者ファウスト・レイナガは晩年に転向したのだという(彼が残忍なガルシア・メサ軍政を支持していたとは私は今まで知らなかった)。このような状況で、それでも強く批判的に立ち続ける思想は、ボリビアの範囲を越えてラテンアメリカ全体に何かの指針となる力を持つことになるだろう、そうであってほしいと思う。