miércoles, 7 de septiembre de 2011

アイマラ語を話すことへの恥と恐れ


アイマラ語を話す人たちと話しているときに、どれほどまでにアイマラ語で話すことへの恥と恐れが深く内面化しているかを、その度ごとに感じさせられる。それは親の叱咤(激励)だったり、親戚だったり、小学校で自分のことを落第させた先生だったり、「インディオ~」と指差して笑う同級生たちだったり、病院での扱いだったり、政府機関の窓口での対応だったりする。

大学を出てprofesionalとして仕事をしている人たちも、そしてそうではないその母親たちも。

アイマラ語で自らが表現できることを大切に思う気持ちと、それを抑え込もうとする恥と恐れの感情がいっしょくたになって溢れ出てきて、襲いかかってくる。

いまだに、そしていつまでたってもトラウマであることを、しゃべってもらって、共有してもらう。だからせめてこちらは、ただの一回きりのことにならないように、長い時間をかけての取り組みをいっしょにやりながら、そしてそういう人たちから話を聞くように、これからもしていけるといいな。

そもそもの出発点は研究ではないし調査ではない。そこから始まっているのでは断じてないし、そのためにやってるんじゃない。

追記:
ここでの「恥」というのはアイマラ語のp'inqaという名詞に、「恐れ」はaxsarañaという動詞に対してあてているのですが、ふと気になってFelix Laymeの辞書を見てみるとvergüenza(ア→西)の項に次のように書いてあります。
Turbación del ánimo causada por alguna ofensa recibida, por una falta cometida, por temor a la deshonra, al ridículo, etc.
これは日本語の「恥」とニュアンスが違ってくるかもしれません。とりあえずそのままにしておきますが、ちょっと考えなければいけないかな。

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