sábado, 13 de agosto de 2011

二つの言語の間で

アンデスのスペイン語(castellano andino)に結構慣れているから、アイマラ語とか早く分かるようになるんじゃないだろうかと思っていたら、実は僕にとってはそんなことなかった。単語が分かっても、意外とこれ何なんだろうと分からなくて、説明してもらって「ああ~そうだったのか」となることが多い。アンデスのスペイン語とアイマラ語はずっと接触しながら、日常的に二言語両方で話す人が多くいて、だからすごく近いところにあるんじゃないだろうかと思ってみても、それぞれはやはりそれぞれで、両方を使う人の意識的な努力で橋が渡されたりするように思う。

一昨年にアイマラ語のテレビドラマの収録に数か月同行させてもらったことがあって、あのときは僕にとってこのことへの手荒い歓迎だった。うちの監督は、実は(アイマラ語で)文学的な言葉づかいをするのがけっこう上手だと思うのだが(そしてそれはうちのラジオ局内でもそれほど認識されていない気がするのだが)、準備で脚本を読んでもわからなくて、僕は収録の合間にアイマラ言語の監修担当の人の裾を捕まえながら、「これなに?これなに?」とひたすら質問していたのだ。アンデスのスペイン語の感覚があることは蝶番としてはとても役に立つのだが(スペイン語の地域性はそれ自体面白いですよね)、それだけでアイマラ語の感覚が身に付いたことにはならない。これは、ひょっとすると当たり前かもしれないと思うこともあるのだが、僕にとっては一つの発見であった。

これは僕自身の実感とつながっていて、僕の中ではスペイン語とか日本語とか英語とか(アイマラ語とか)がバラバラにインストールされていて、普通はそれのどれかで動くことに慣れてしまっているから、よっぽど意識しないと、それぞれの間に橋が渡らないのだよね。べつに何か元の言語から訳して話しているわけではなくて、その言語と社会のレパートリーの中から話せることを話しているから。
(ここの実感は個人差があるかもしれなくて、ひょっとすると本来は多様な感覚に基づいた理論がありうるかしらね。)

アイマラ語のネイティブの人が、「こういうときはアイマラ語で話しにくいんだよね…」とやりにくそうにしているときがある。具体的には公共の場で議論をしたり、少し日常を離れた仕事の話をしたりするときだ。これは、社会的にそこはスペイン語でということになっていたということに加えて、そういう話をする時の語彙が十分でなかったりということでもあって、どんどん話し方がぎこちなくなっていく。バイリンガルでありながら、自分が本来得意であるほうの言語が、自分の中でも劣位に置かれるという、そういう場面に何度も出会うことで僕自身の問題感覚も少しずつ鋭くなってきた。このことは今現在様々な場面で話題になっていることだ。公共の議論の場にアイマラ語を回復していかなければいけない、という。たとえば1980年代には全くそういうことはなかったので、これは大きな時代のうねりなのだと思う。

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