今週は独立記念日(8月6日)にまつわる行事だらけで、調査先の仕事の一環で、自分の家族の関係で、パレード(desfile)を見に行くことが続く。
ビールが湯水のように流れて、アンデスの管楽器は山の空気を運んできて、金管楽隊の不協和音(!)に神経を逆撫でされて、公共の式典が終わった後の人々が、少しずつ踊り始める。女性の色とりどりのスカートがひらひらと回り、男女の人の輪がくるくると回り…、
アイマラ語は(もちろんケチュア語も)接尾辞を組み合わせていく言語なのだが、接尾辞ごとに分解して分析していく線形な方法(日本語の古文の品詞分解ですね)ではなくて、もっとくるくる回るような(アイマラ語ではmuyu muyuと言います)回転体として接尾辞の連なりを捉えるのが本来の考え方のはずではないか、と問題提起したのは、こちらの機関での仲間のオスカル・チャンビ・ポマカワ(昨年8月のエントリーに登場しています)であった。
日本語でいうと、時枝文法の入れ子構造を想起させるような、それを受け継ごうとする藤井貞和先生のkrsm四面体のような(注1)、いつも頭のどこかにありながら自分では手が出ない着想の種が、南アンデスの8月の風に舞いながら、真っ青な空を駆け回っている…。
追記(8月5日)
そんなことを考えていたら、偶然(私から話を持ち出したのではなく)、アイマラ語の単語の語根に関する意味の場の拡がりを回転運動として考察していかないといけないんだと師匠(下に登場)に力説される。坂部恵くるくるバージョン。しかも南半球は回転が逆回りになるんだ、reverso(リバース)だ、反逆しろと(注2)。言語学者はそういうことを考えないからいけないんだって。はい~。(注3)
途中でつぶれたので、おぼろげにしか覚えていないのだけれど、でも今日出されたそれよりも重要な宿題は、自分の身体との関係はウンコにあるので、それを文学的に展開する必要があるということだった…。お腹がユルイときにトイレで座るときに取るべき体勢について白熱したノウハウの交換が行われたような気がするのだが、ハテどこからそんな話になったんだっけ…。
(注1)藤井貞和『日本語と時間―<時の文法>をたどる』岩波新書、2010年。
(注2)Silvia Rivera Cusicanqui y El Colectivo. 2010. Principio Potosí Reverso. Madrid: Museo Reina Sofia.
(注3)この辺りがいろいろと自分の中でつながっている背景には、小森陽一先生の着想によるところが大きい。小森陽一「拮抗する言葉の力―大江健三郎『水死』を読む」『世界』2010年4月号。
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