sábado, 13 de agosto de 2011

レパートリーを増やしていく

地方に向かうバスに乗っていると、おばちゃんが三人うしろの席でおしゃべりに興じている。そのうち、その中の一番年配の人が泣き出して、残りの二人がなぐさめている。うん?と思って耳をすましてみるのだが、どうも単語は分かる気がするのだが話題が完全に掴めない。二時間ほど経ってバスを降りた後で、一緒にいた人に「あの人は自分の息子か娘の文句を言ってたよね?」と聞いてみると、確かに一生懸命育てた息子に冷たくされているという話だった。

これはアイマラ語の話だけれど、むかしスペイン語でも似たようなことがあったなと思いだした。まだ修士課程をやっていた頃にペルーの北部でNGOのインターンをしていたことがあった。ちょうどエクアドルとの和平が成立して、国境地帯での体系的な開発プロジェクトを開始しようとしている時期だった。開発の世界では、こういうときはまずベースライン・サーベイというのをやる。そのために村々を回っているときに、まさに単語は分からないわけではないのに話を追うことができないという、自分にとってはけっこう衝撃的な体験をしたのだ。つまり村の人たちの話の紡ぎ方に僕はついていけなかったのであって、なんでそういう展開で話がつながるのかが分からなかったのだ。

このことは僕に重要な教訓を残した。単語が分かるとか文法が分かるというのとは少し違う次元で、話の紡ぎ方が分かるというのがあるのだ、という。なんでもありなのではなくて、何か共有された展開の仕方というのがあるのであって、それは色々なことが話される場面に居合わせて、そういう様々なレパートリーを身につけていくということなのだ。それは知らない言語を身につけていくときに、ある時からとても気を付けるようになった点だ。

もちろん何でもありだと思ってもいいのだけれど、そういう緩やかな共有された拡がりに敏感になりながら、一度それを受けた上でそれでも自由を確保できるような、そういう話し方ができるといいなと思っている。それは習得の様々な段階にある言語のいずれについても、そうだ。

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