ボリビアには、コチャバンバ学派というものがあると一般に考えられている。コチャバンバは気候の温暖なボリビア中部の街。なにせごはんがおいしい。
僕は政治学者のフェルナンド・マヨルガ(Fernando Mayorga)という人と昔からなぜかうまが合って、たまにご飯を一緒に食べたりする。このときはピカンテ・ミクスト(picante mixto)という唐辛子煮込み盛り合わせみたいなのを僕はガシガシ食べていた。mixtoとは牛タンと鶏肉とクイの肉が山盛りになってくるやつだ。彼はメキシコで博士課程をやってボリビアに戻ってきたのだけれど、「Yo hice mi doctorado en las calles de Cochabamba.(コチャバンバの街路で博士課程をやったんだ)」と、以前僕に話してくれたことがある。これは実は、Cachínと愛称で呼ばれる、ルイス・H・アンテサナ(Luís H. (Huáscar) Antezana)という人のことを言っているのだ。ボリビア文学の第一人者であり、1952年革命の際の革命ナショナリズム(Nacionalismo Revolucionario)や20世紀ボリビア最大の政治思想家レネ・サバレタ・メルカード(René Zavaleta Mercado)についての研究でも定評がある。僕は昨年の一月に初めて本人を家に訪ねてゆっくり話す機会があって(それ以前にも仕事で一度一緒になったことがあった)、身をもって体験した。何せ、コチャバンバの街角で突然考え込んだり、立ち止まって何かを力説してくれたりする。歩いて、立ち止まって、話して、考えて。思考するというのは多分そういうことなのだ。この人が考えるときに使う言葉はとてもとても丁寧で、<discursar por discursar no más(議論することが自己目的化すること)>とは対極にあった。歩きながら考える言葉だからかなとずっと思っていた。
そうかこのことだったかと思って、喫茶店でマラクイヤー(maracuyá)のジュースをご馳走になったことと併せてよく覚えている。これは伝説となって語り継がれていく類のものだけれど、伝説じゃなくて自分の体で横にいられるのは嬉しい。
もちろんこれは、歩く哲学者、みたいな話(だけ)ではない。山道をうちの畑に向かって上りながら、息を切らして、途中の木陰を休憩所にしたところで一息ついていろいろと話して、上る途中も何かの目印ごとに立ち止まって教えてもらう。訪問したところで、ふとした機会に、ふとした時間に、思いがけず話が展開して、深まっていく。寄せて返して、揺れて止まって、そしてもう一度、あともう一度。人と話しながら、歩きながら、立ち寄りながら、考えていく。そういうゴツゴツしたものが、自分のペースになるといい。考えることは、言葉を使うことは、やはり生き方だからだ。
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