martes, 12 de agosto de 2014

まだら模様の社会とまだら模様の自分

私はボリビアでは社会学者のシルビア・リベラ・クシカンキ(Silvia Rivera Cusicanqui)を先生と仰いで、ラパスにいる時は時折訪ねていろいろ話を聞かせてもらったりしている。今回も家で先生が仕事をしている横で、話を聞かせてもらったり、本やブログの記事を見せてもらったりする時間を過ごした。

ボリビアの政治社会情勢は、2000年代の最初の10年間の動きに大きな期待を持ってきた者たちにとって、決して明るいものではない。先住民を大統領に抱いたはずの政府が、昔ながらの為政者の流れに自らを位置づけ、大規模な公共事業で人目を惹き、ナショナリズムを強く発動した国家統合を目指していく姿は、かつて見えていた全ての変革の可能性が閉ざされてしまったかのようだ。この点で、私は大まかにシルビアと見解を同じくしている。

目に見える転換点は、このブログでかつて繰り返し話題にしてきたTIPNIS紛争であっただろう。

右傾化の中で変革の希望を見いだせずに閉塞感を強めていく日本社会と、左傾化の外見の裏で奇妙な消費バブルに浮かれつつ昔通りのやり方へと戻っていくボリビア社会と、奇妙なところで一致しながら事態が進んでいくかのようだ。

私がここで考えるべきことは大まかに二つある。一つは、20世紀のボリビア最大の政治思想家であったレネ・サバレタ・メルカード(René Zavaleta Mercado)の思想が、歪曲された形で21世紀初頭のボリビア政治に受けとめられたのではないか、という問題だ。私は2012年に二度学会とセミナーでペーパーを書いているのだが、これと共鳴するような問題意識が下で紹介したブログでのやり取りにはあり(La disponibilidad de lo inédito)、この検討をもう少し広く体系的に行う必要がある。サバレタ・メルカードの遺作であり代表作のLo nacional popular en Boliviaの英訳の刊行準備が進んでいるそうであり、それに併走する作業として重要になる。
(私がシルビアと意見を異にするのは、彼女は後期サバレタをほとんど無批判に受容していくが、それは彼女の思考のし方に完全に取り込んでしまっているのであって、既にかなり変形しているようにも思われる。私は後期サバレタ自体がもっている限界をも見た上で考えたい。)

もう一つ、私の先生は混血(mestizaje)を脱植民化するという問題意識から、自らの中にある二極性(混血性と先住民性)を解消せずに、そこから新たな可能性を見出していこうとする方向へと思考の舵を大きく切ってきた。これをアイマラ語でまだら模様を意味するch'ixiという単語で表現している。(もちろんこれがサバレタ・メルカードの「まだら模様の社会(sociedad abigarrada)」と呼応していることは言うまでもない。)この考え方が、本当に強固に変革を目指す志向を裏打ちすることができ、また現在のボリビアの政治社会情勢に対する批判として力をもつのか、これはまだ我々が見極めるべき課題として残されている。

苦しいのだと思う。おそらくこれはとても苦しい闘いだ。70年代初頭のトーレス軍政時の左派の体たらくに絶望し、アイマラ先住民運動であるカタリスタ運動に対する90年代の政治的取り込みに絶望し、そしてエボ・モラレス政権に対してまた絶望する。危機と絶望の中で、かつての先住民主義(インディアニスモ)の提唱者ファウスト・レイナガは晩年に転向したのだという(彼が残忍なガルシア・メサ軍政を支持していたとは私は今まで知らなかった)。このような状況で、それでも強く批判的に立ち続ける思想は、ボリビアの範囲を越えてラテンアメリカ全体に何かの指針となる力を持つことになるだろう、そうであってほしいと思う。

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