domingo, 24 de agosto de 2014

野にある強さ

夏休みに自分が専門とする地域に来れているだけでも自分が恵まれている状況にあることは分かっているのだけれど(私の先生の清水透さんは、どこかのエッセイで、かつて日本に帰る飛行機の中でまた研究費が取れて戻って来れるのだろうかという思いが毎回頭をよぎったと書いていた、そのときよりも状況はおそらく恵まれているのだとしても)、3週間の短い滞在でおそらく会うのは難しいだろうなと思っていた人に、ばったり遭遇することがある。

相手の人がその場所にいた理由は、まったくもって楽しいものではなかったのだが、それでもばったり会えたことは何かの恵みなのだろう。

自分の才覚一本で、商売で新しい道を切り開いてきた人の、野にあるような思考と発想の力強さを思い出させてくれる、とても大事な人だ。意表を突かれるような発想は、日常のような当たり前の作業の中から生まれてくることを、話を聞きながら実感する。芸術的なものと工芸的なものの違い、手に職を付けることと手に職を付けないことのどちらが贅沢か、いろいろと考えさせられることがあったが、でもおそらく一番大事なのは(大学という狭い世界の中にいると忘れてしまいそうになる)その人が生きることと考えることが結びついた強靭で頑固でしなやかな鋭さだ。

帰り際に、いたずらっぽく、「こうして以前のように研究をしているのと、大学で授業をしているのと、どっちが楽しいですか?」と聞かれた。私は、とっさに、「自分の研究がちゃんと回っているときは、大学で授業をするのも楽しいですけど、研究ができずに授業に追われるだけになると、どこか自閉していくような気がします」と答えた。答えたんだけど、そしてそれは間違っていないんだけど、その言葉は私の中に重く沈んで残った。

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