Cinemateca bolivianaで今週から始まった『アルティプラノ(Altiplano)』という映画を見てきた。元々は2009年に公開されていたもので、同年のカンヌの批評家週間に選ばれたりしたらしい。監督はベルギーの人。私は主演の一人のMagaly Solierという女優のファンで、彼女の演技を見たかったのもある。
(公式ホームページ:http://www.altiplano.info/)
自分が負った深い傷は、相手の真実を知ろうと追っていくことでしか癒すことはできず、それは必ず後追いでしかたどり着くことができず(主人公の一人がそこにたどり着いたとき彼女の夫は既に死んでいる)、しかもそこにはまた別の深い絶望がある、というモチーフは、ああその通りだと思うものだったし、映像は非常に美しく詩的で、アンデスの精神世界の表現も納得のいくものだったと思う。現代に新たに甦る鉱山と先住民の闘争という古くて新しいテーマへの重要な取り組みになっている。そしてもちろん、Magaly Solierの演技は素晴らしかった。
しかしながら、イラクの戦場とアンデスの高原部の鉱山闘争という二つの文脈を扱いながら、それは主演の一人の内面の中を除いて、最後までつながることがない。その両方に関わりつつ深められるのはヨーロッパをベースにしていることの特権であるはずだが、それは最後まで果たされることがない。
そして、外部の人がアンデスの人々を撮る際、私はよく自分の中で「アンデスの人々が『影』になってしまう」と表現しているのだが、人物造形がある種定型化されて、それ以上の拡がりがなくなってしまう。<抑圧に対し抵抗する、宗教的・倫理的に高潔な人々>と言えばいいだろうか。そして、ケチュア語が、やはりどう見ても最初ヨーロッパ系の言語で発想したのだろうなという台詞回しになってしまう。(これらは、ボリビアのウカマウという集団が製作する映画も含めて、アンデスの先住民世界を扱う映画で常に付きまとってきた問題だ。)
ただこういうことを越えて、私が衝撃を受けたのは、我々はなぜ同じことをもう一度そのまま繰り返さないといけないのだろうかという、現代のラテンアメリカ社会が抱える厄介な問題に、改めて直面させられたことだ。1950年代から80年代初頭まで続いた、様々な社会問題と闘争の歴史を経てなお、それ以降ふたたび同じことを、しかも多くの場合縮小再生産するかのように繰り返す、その現実の中で我々はどう生きていけばいいのだろうか、その答えはこの映画の中にも、やはり見付からなかった。(ちなみに、このモチーフは最初押井守の『Sky Crawler』という映画を見ているときに思い付いたのだった。)
しかし、しかしだ。この映画は、ヨーロッパ人が他者と関わろうとする際の最良の誠実さを示していると私は思うし(、それは例えばencounterとencuentroという単語の狭間に現れるようなもので)、私自身はそのような態度に大きな影響を受けてきた。困難で複雑な現実に対して詩の可能性を信じようとするこの重要な挑戦は、広く観られるに値するものだと思う。
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