私が修士論文を書いたのは2002年でもう9年も前になってしまったのだが、ひょんなきっかけでもう一度それと向き合う機会がめぐってきている。
前回は2005年に、ある内々の会議で発表しに呼んでもらった時だったので、その時から数えても6年経っている。あのときはlike-minded peopleの発表の刺激的な競演で、アフリカから劇団も来ていて、しかも若手のジャマイカ人とインド人と日本人(最後が私)が議論のリードをとるというゾクゾクするような経験だったのだが(私は実は議論の場でとてもよくしゃべる)、その全てを受けとめて次に展開するだけの力量が私に欠けていた。
こんなことを書くとはしたないのだが、私が書く期末エッセイは評価が極端に分裂することが何度かあって(一つの授業の期末エッセイについて必ず二人の評価者がつき、文書化された評価は本人に渡されます)、修士論文も独創的だが言葉づかいが分かりにくいと言われ、確かあとわずかで日本人としては珍しいはずのdistinctionというものを逃した。このとき、評価者の一人から内々に「あと何点でとれるの?」と聞かれて、「そんなことを気にしないで思った通りに点を付けてくれていいよ」と私は答えたのだった。そんな意地を張るべきじゃなかっただろうかと、今でも思い起こすことがある。恥ずかしいが、これを自分の中で落ち着かせるまでに、本当に3年丸々かかった。
私の修士論文は、2000年の世界銀行の貧困をテーマとした『世界開発報告』に向けた作業の中の一過程を批判的に考察するもので、その過程には私が所属していた研究所も関わっていた。2005年の会議は、2006年の世界銀行の公正(equity)をテーマとした『世界開発報告』に向けて、イギリスの国際開発省が批判的にコミットをしようとする中で、それに関連した人類学的なアプローチの柱を作ろうとする動きの中にあった。こう見てみると、2000年前後からの貧困と不平等にかかわる国際開発の動きの主要な地点を、私の修士論文はこっそりと経てきたことになる。そして今回も…。
それまでの自分になかった何かに向かって、なんとか手を伸ばそうとして、自分でもなにをやったことになっているのか本当はよく分からないまま、思考は論文の形になっていき、そして橋の真ん中で川に落ちた。
そのときに(正式なアドバイザーではなく)アドバイスをもらいに行っていた人の一人にロバート・チェンバースという情熱的で反逆的で革命的な人がいた。「multipleな人」というのは(少なくともイギリスでは)ほめ言葉として使われる(ことがある)が、この人はmultipleであっただけでなく、キャリアの晩年の節目節目で以前の自分の仕事を振り返り、最新の状況に合わせてアップデートしようとすることを試みてきたのでもあった。動態的なマンダラのような思考のあり方を呈している。あの後で、私は私で自分を作り直そうとする中で段々とmultipleになってはきたかもしれないが、振り返ってアップデートするのは難しいよ。
そしてそもそも既に締め切りを大幅にオーバーしているのだった(これは私のせいではない!)。このせいで立ち消えになるかもしれないけど、少し、前よりも、ひるんでたじろがなくなったかもしれない。それだけでもね。
参考:
2002. "Re-examining the 'Participation' in the World Bank's Voices of the Poor: A Travel Tale of Quotes." MPhil Dissertation submitted to the Institute of Development Studies, University of Sussex.
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