miércoles, 20 de julio de 2011

言葉についての「仕事」の不思議

ある言葉に関心をもって、学ぼうと決めたとき、そのとき本来は日常の生活で分かるように、しゃべれるようになることが目標のはずだった。でもある段階で、しかもまだ十分に分かっていない言語が「仕事」になってくると不思議なことが起きてくる。

部屋で紙の上に書かれた文字に対峙して「う~ん」と唸っている自分は何かおかしいのではないかと思うことがある。今、校正と分析と翻訳とを手伝っているアイマラ語の文書がそれだ。農村のアイマラの人たちに対してなされたインタビューを、文字化されて章立ても整った段階の草稿を、なぜか外国人(である私)がネイティブの人の協力を推進しながら、読んで、翻訳を作って、一緒にそれについて考えていく。「現場」からは離れている。でも自分が現場にいても同じことはできないし、しかも同じ人たちに会うことはもうできない。

ある言語が使われるその瞬間から離れていき、細分化された分業の中に、分析の中に、分かれていく。でもそこに、今の自分にはない新しい言葉の世界が見えてもいるのだ。

「訳読」というのは不思議な作業だ。つまんないようで、単調なようで、私はこれまで自分では仕事の部分で避けてきたところがある。しかし、実際に別の言語であるスペイン語にわざわざ訳すことは、アイマラ語のネイティブの人にも新しい発見をもたらすらしい。外国人に質問されて、細かいところを意識するようになると言われる(漢文訓読についても似たような話を聞くことがある)。

そうやって訳読をしている時間、それは両方の言語の織りなす世界でそれぞれをより深く理解して、その世界を感じとろうとする時間の持続。ひょっとして、その言葉が放たれた瞬間に向かって再びつながろうとするならば、この作業の瞬間が一番近いのかもしれない。

ある種の遠ざかりは、仕事において、研究において、必然なのかもしれない。でもそこからもう一度戻ろうとすることができるだろうか。一度離れた所から、分析をしているところから、分業をしているところから、戻りたいのだ。アイマラ語のオーラルヒストリー史料の文字を見ながら、一昨年のうちのおばあちゃんの録音を何度も聞き直しながら、言葉が放たれるその瞬間に、その言葉が織りなす世界に、自分が「使える」ようになるために。

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