「そこにいていい」というのは、当たり前のことではなくて、すごく不思議なことだ。当たり前でないはずのことが、いつの間にか少しずつ空気のようになっていくというのは、もちろん当たり前のことではない。「家族」というのも、いつしか当たり前のことではなくなった。壊れたり、なぜか自分の場所ができたりするようになってからだ。
以前ツイッターで、星野智幸さんの『俺俺』を読み始めのときに「面白い」とだけツイートしたことがあったので、そのことと併せて書いておこうと思う。
(注:これは当初研究の仲間内で読めるように書きつけておいたメモを元に書き直しました。)
『俺俺』について
『俺俺』に関していえば、中盤から面白さが失速して結末に向かう流れについては何とも言いようのない感じだというのが、最終的な私の感想です。しかし、それでも「オレオレ詐欺」(今は振り込め詐欺というのか)を主人公が仕掛けると、本来は他人であるおばさんが本当に主人公を自分の息子だと信じてしまい、主人公もそこに取り込まれていく、そして本来の家族には別の若い男が入り込んで自分の居場所はなくなっていく、という序盤の設定には目を見張る面白さがあったと思う。
この本は、大江健三郎賞の受賞対談を聞きに行こうと思って、そのために読んでいたのだった。対談を聞いている限り、大江さんが「卓越した小説的思考力」、つまり「小説を書くにあたって人が考えもつかないような設定を構想する力」として安部公房になぞらえて評価していたのは、その部分だったのだろうと思う。それは、語り手=主人公が新しい状況に置かれるたびに記憶が書き換わっていき、ついには語り手である「俺」が複数の人物へと移っていくという面白さにつながっていく。
ではなぜ面白くなくなるのかというと、おそらくこの卓抜な設定を星野さんが「現代社会の病理」としてしか位置付けることができなくて、結末をその病理の「極限状態」としてしか描くことができなかったからではないかと私は思っている。卓抜な設定を元にして意外な読み替えの可能性を想像することができなかったために、病理の極限状態(=共食いのし合い)の先に何が残るかという形でしか話を展開できなかったのではないかということだ。
「そこにいていい」について
特に家族の場合、私にとってそれは「虚構」が発動することと大きく関係している。「一緒にいたい」に向けてとっさに何かを言う。それは「嘘をつく」ことかもしれないし、「冗談を言う」ことかもしれないし、「物語を作っていく」ことかもしれない。それが、つながりというかまとまりを駆動させていくことがある。
同時に、完全によそ者であって、その家族の中にいる必然性がない人間がいる(である)ことが、家族がまとまっている理由になったりもする。大江健三郎の小説では、よそ者でありながら四国の森の伝承に関心をもつ登場人物が出てくる(『水死』の長江古義人のお父さん)。前に小森陽一先生が「よそ者なのに森の伝承にコミットしたから、母親は愛したんだ」という趣旨のことを授業中に断言したことがあって、それは確かにその通りだという気がするのだ。
(注:ここの部分は、かつての自分の教え子が出演した舞台『上海グッド・オールド・デイズ』を見たのも、一つの土台になっています。)
最後に
家族と関わるような調査をしていると、いつのまにか「家族のような」存在ができていく。そこでは僕は少しずつ「人類学者」ではなくなっていき、息子のような、お兄ちゃんのような、夫のような、お父さんのような存在となってゆき、しかもそこでは葛藤と拒否をもはらみながらの、ある意味あるはずのない関係への投企が行われていく。
そのような関係ができるたびに、お互いがそのように位置付け合い、僕は突発的にそこにそれまでに流れてきた歴史に撃たれ、あるときを境にそこで記憶が刻まれはじめ、僕は登場人物になっていく。僕がそこにいる時間だけ、そこに独特のありそうもない日常が流れて、それを皆が受け入れる。それは、それぞれの場所にあった幾つもの「僕」になっていくことだし、それはある段階で誰かが埋めそこなった場所でもあり、僕は僕でいくつもの場所で「僕」になりそこなってきたのだ。
『俺俺』が描くのは現代日本社会のディストピアだとしても、本来その方法上の適用範囲は、私のような人類学者(だかなんだか分からない人)の世界へもつながっている。
(注:方法論的に自覚していることを一つ書き加えておくと、人類学にもそして文学にも「旅」というか「移動」というかを基調とした思考をするグループがあるように思うのですが、私の思考はそれとは異なります。説明しにくいのですが、もう一段足を本来の「地域研究」の方に置いた感じと言えばいいでしょうか。)
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