外から研究として何かに関わり始めると、ずっと距離を取り続けている場合は除いて、近くなれば近くなるほど、その届かなさに悩むようになる、かもしれない。
人類学者が何かを記述しようとしたとして、論文を書いたとして、それは文化の(歴史の、社会の)何を伝えたことになっているのだろうか。本当に文化(や歴史や社会)が継承されるとき、それは普通、論文での記述・分析という形を取らない。だから、文化を継承しようとすればするほど、人は論文という形との、議論(アーギュメント)という形との、折り合いが悪くなっていく。「論」を立てた瞬間に、何かが起こる瞬間から光速で離れてしまう。
これは文化に関する領域でよく問題になるが、経済や政治の領域でも本来は同じ問題を抱えている。
そのようなとき、例えば次のような方法が考えられる。
(1)分析用具を磨くことでもう一度近付き直そうとする。人類学で「パフォーマンス」が重視されるようになるのは、例えばその一つの場合なのかもしれない。
(2)自分の分析が鈍くなろうとも、切り結ぶその場面に関わり続けて、その割り切れなさに混じり合い続ける。
(3)自分が中に入ってやってみる。呪術や儀礼を研究する人にたまに生まれてくる。そして、音楽をやる人はむしろまずやってみることの方が圧倒的に多いかもしれない。
問題は、(3)が解決策になってくれればいいのだけれど、(2)と(3)の間に入っている亀裂にはまってしまう場合だ。(3)をベースにしてそれを省察するというよりは、(3)をやりながらも(2)の場所にとどまり続けようとする場合。
あるいは違う言い方をすると、自分がやっていることに意味があると思うこともできる。そうして一つの方法で地道に貢献することもできる。似たような人たちでギョーカイを作れば、ちょっと安心すらできてしまう。でも、自分がやっていることの意味を徹底的に疑うこともできる。近付けば近付くほど届かない闇に向き合い続けることもできる。
技が洗練されると、地道になって、亀裂が、そこの闇が深くなっていく。それは何かの蓄積としてではなく、自分の何かを壊しながらあがいた軌跡としてしか刻まれないものなのかもしれない。
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