viernes, 13 de agosto de 2010

Suma Qamaña o Vivir Bien

(8月15日に若干の追記・補足)
 Taller de Historia Oral Andinaという組織がある。アイマラ出身の人たちが中心になって運営されている。毎月最初の金曜日の夜は、外からも人を招いてAkhulliという議論のセッションをするので、ラパスにいるときは手伝いを兼ねて見に行くことが多い。今日は場所が国立民族学・民俗学博物館(MUSEF)で、お題はSuma Qamaña。スペイン語では普通buen vivir(よく生きる)と訳されて、MAS政権の成立以降、国家開発計画などの中心概念となった。
 三人が議論を提起するのだが、その一つ、うちらのOscar Chambi Pomacahuaの議論にはたと考えさせられた。僕が主要だと思うポイントを思い出すままに書き連ねると、次のようになる。
・ある一つの言葉を、それだけで単独で成立させることはとても西洋的で、アンデスの概念では、似たような言葉もう一つとペアにして考察をしなければならない。そして、そこではqamañaに対して/加えてjakañaを挙げる。
[ここはトンデモの議論ではないだろう。アンデスの様々な側面が二元的構造をとることは、これまで数多く指摘されてきた。ペアにして同じ単語を繰り返すケチュア語の詩の構造を想起してもいいかもしれない。]
・qamañaというのは、実は人間中心の概念ではない。つまり「自分は誰か」を問うのではなく「私はどこにいるのか」(kawkhanktansa)を問うのだ。
[ここでは、Xavier Albóを重要な一員として20世紀後半に盛り上がった、アイマラ民族のアインデンティティに関する議論を想起すればいい。その時の標語は「私たちは誰か」(khitipxtansa)だった。これは場所を中心とする論理なんだなあ。あと細かいことを加えると、動詞の活用接尾辞で明らかに複数のときは、複数を示すマーカー-pxaを付けなくていいことに注意したい。ここはスペイン語とバイリンガルの人がよく混同して付けるべきだと主張しがちなところ。]
・qamañaが「世界の中における自分の位置」を問うものだとすれば、jakañaの方は身体内部を指す。「生きている」のはこっちの単語が近い。útero(子宮)という意味にもなる。
・すなわち、suma qamañaはsuma jakañaとペアにして初めて意味を持つ。
[ここから彼はaski qamañaとaski jakañaを加えて、2対2の4項目を作れるのではないかと考えているようだった。]
 このような言葉を考察しながら宇宙論(世界観)と結びつけていく可能性を、実はほとんど初めてに近く聞いた。もう一つは、THOAが発行する雑誌Samiriの昨年第3号におけるSilvia Rivera Cusicanquiの議論だ。彼女は、二元的な構図を三項そして四項へと「開いていく」論理の可能性を、アンデスの織物に見いだしていく。

 僕はボリビアで社会も政治も言葉も色々な先生に恵まれてきたと思うが、いつもいつもTHOAの中でアイマラ出身の人たちの議論の中に身を置くことで、何か大事なものを教わってきたことを再確認する。色々な対立やせめぎ合いや分裂など、決して順風満帆ではないことを嫌というほど一緒にくぐっていたりもするけれど、先住民出身の「知識人」としか言いようのないあり方と思考が形成されていく過程を一緒にいられることは、かけがえのない学びの機会になってきた。
 人々が生活するのが必ずしも簡単ではない状況で、多くのアイマラ出身の人たちが金の流れる方に安易に取り込まれていく中で、愚直な一貫性はやはり僕の性に合う。この二年くらい、同世代の人たちとこういうやり取りをすることが増えて、これを、自分の体の中に取り込んできた考え方を引き受けて、自分でもここで思考を展開することができるんじゃないか、という欲望が少しずつ、強くなっていく。 

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