domingo, 2 de junio de 2019

ペルー社会を考えるときの難しさ

下のエントリーでは、重要な問題提起を受け継ごうとする希望について書いたが、同時に頭を抱え込むような思いもした。

ペルーというのは、社会として非常に難しいところを持っている。社会がバラバラ過ぎて、民族という面でも階級という面でも複雑な、この社会全体を視野に入れることが困難なのだ。20世紀に革命に向かう動きがついに生まれなかったペルーが、必然的に発達させることのなかった視座だと言ってもよいだろう。

これは、批判的に考えることが、そのままペルーというまとまりを考えられるかという課題に収まってしまう、ということでもある。言い換えれば、ナショナリズム自体が「批判的思考(pensamiento crítico)」だと位置づけられてしまうのだ。これは例えばアルゼンチンにあるラテンアメリカ社会科学評議会(CLACSO)が出している批判思想集成シリーズのペルー版の序文で、マルティン・タナカが、まさにそのような趣旨のことを述べている。
(Tanaka, Martín coord. 2016. Antología del pensamiento crítico peruano contemporáneo. Buenos Aires. CLACSO. ←CLACSOのホームページからPDFを無料でダウンロードできる)


すぐ南にあるボリビアと関わっている限りは、そのようなことがない。1952年の革命の前後でナショナリズムが発達してきたボリビアでは、ナショナリズムを批判するような思考も同時に発達してきたからだ。ペルーの全国紙を見ていると、時折起きる大規模な抗議運動を除いては、先住民社会の動きが全く見えてこない。その意味で、ボリビアとは全く異なるリテラシーが、ペルー社会の分析においては要求される。

そのような状況下で何が起こるか。ペルー社会全体を見ようとする動きは、すなわちアンデス高地社会に目を向けるべきで、そこにあるケチュア語世界を見るべきだということになる。そこでは、南部高原部のアイマラ語世界はもとより、東部低地の先住民社会は後景に退き、付け足しのような形でしか現れない。すなわち、リマ中心主義を抜け出そうとしたときに、我々はすぐにそのままアンデス高地ケチュア語世界中心主義に絡め取られてしまいそうになるのだ。これを乗り越えるペルー社会の基本ビジョンは、いまだに明確に提示されていないように、私は思う。
(ただし私の不勉強で、その萌芽がどこかに現れ始めている可能性はある。少なくとも、その問題意識を共有している人たちはいることは分かっている。)

そうすると、それぞれがそれぞれの主題を追求しているが、そこに連関を見出すことがしづらくなる。日本ラテンアメリカ学会でもボリビアだとギリギリ様々の分野の中に共通の論点を見出すことができるのだが、ペルーではそのようなことが難しい、と私は思う。

さて、今回日本ラテンアメリカ学会の大会の中で見ることのできた劇団ユヤチカニの演劇作品の上映で、『遍歴の音楽家たち(Los músicos ambulantes)』は、1982年の作品で長い上演暦を誇っているが、まさに上に述べたようなパターンに典型的にはまってしまっている。ペルーの多様性を知るというのは、ロバと犬のケチュア語世界が中心になって、そこにアマゾニアのニワトリがスペイン語を話しながら加わるのだ。しかもこれらの動物は、全てヨーロッパ起源のものだ。ああ、やはりそうなるんだなあ、と私は思いながら作品の上映を見ていた。

ただし、上のエントリーにも書いたが、私はまだこの劇団の作品をあまり見ているわけではない。より最近になるにしたがって、どのような問題系を取り上げるようになっていくか、そこまでを踏まえたうえで考え続けたいと思う。

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