sábado, 5 de marzo de 2016

アイマラ語の話(伝え残す教訓エウハiwxa)

昔から私がアイマラ語を教わっているフアン・デ・ディオス・ヤピータ先生と、久しぶりにゆっくり話をする機会があった。昨年は、向こうがボリビアにいなかったり、その次は私がボリビアの別の街で学会発表だけして日本にとんぼ返りをしたりなどして、互いの予定がうまく合わなかったのだ。

昔教えてもらっていた頃のように、最近あれこれと先生が考えていたことからポーンと一つ例を出してくれて、それを二人でああだこうだと検討する。

今日、話題によく出たのは、子どもや後進の者たちに何かを伝え残そうとする教訓の言葉で、これはアイマラ語ではエウハ(iwxa)と呼ばれる。アイマラ語では、この伝え残す教訓が一文ほどの長さで語られることが多く、これを耳にしたり目にしたりすると、いろいろと考えさせられるのだ。

(1)Jaq uñtasaw saräta.
アイマラ語のjaqi(ハケ)は「人」を指すのだが、これは<経験を積んで十分な資質を獲得するに至った人>という意味をもつ。いつも私は、日本語での「一人前」「成人式」「人物」「人として恥ずかしい」などの「人」と似ていると思っている。uñtasaは動詞uñtaña「じっと見る」の現在分詞、sarätaは動詞saraña「行く、進む」の2人称未来形。全体としては「参考になりそうな人物をじっと見ながらお前は歩むのだよ」ということになる。ここでの「人」は、「参考になりそうな人物」ということになるわけだ。

(2)Janiw sutij aynaqayitätati.
アイマラ語ではjaniwと動詞につく接尾辞-tiが呼応して否定文を作る。sutijはsuti-j(a)「名前・私の」、aynaqayitätatiはaynaqa-y(a)-itäta-ti「(棒状の物)を運ぶ・(使役)・2→1(あなたが私に)未来形・(否定接尾辞)」で、全体の意味としては「お前は私の名前を粗末に扱わせるんじゃないよ」ということになる(カッコに入ったアルファベットは、その母音が脱落していることを示す)。ここで面白いのは、「(棒状の物)を運ぶ」という意味の動詞aynaqañaが、「~を粗末に扱う」という意味で使われていることで、これも教えてもらってから二人でしばし考え込む。はてどういうことだろうね、おもしろいね。ちなみに、アイマラ語では「運ぶ」にあたる動詞が、運ぶ物の形状によって細かく分類されて用いられることが知られている。

ある言語への自分の感覚を育てようとするときに、このゆっくりとした時間の中でその言語の世界に入り込んで、ああでもないこうでもないと検討することは、計り知れない恩恵を私にもたらしてくれた。久しぶりに、あの頃の時間の感覚を思い出し、そして先生がどういう方法を伝えようとしていたのかを思い出した。

「私が覚えていられなくなったら、お前が覚えておくんだよ」 と言われた私は、でもまだ「いや先生まだ全然元気そうじゃないですか」と言い返すしかなかった。

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