sábado, 27 de julio de 2019

フィクションと現実が交錯する中でのボリビア文学

とんぼ返りの強行軍で、ボリビア研究学会の第10回国際大会で発表をするために、スクレの町に来ていた。

今回の発表では、スぺディングの『鉄の寝台(Catre de fierro)』という小説を取り上げて、これがどのように1952年革命以降のボリビアの歴史に対し、批判的な視座の構築に取り組んでいるかを、分析しようとした。


この野心的な小説には、冒頭から要所要所にマティアス・マリュク(Matías Mallku)というアイマラの呪術師(ヤティリ)が登場する。この呪術師が何をするかというと、ラパス市での建物を建設するなどの近代化の取り組みに対して、人柱が必要かどうかを判断し、酒場で酔い潰れている者たちの中から、適当に選び出し、きれいな衣装に着替えさせて埋めるという、きわめて怪しげな人身供儀に関わっているのだ。

このような人身供儀(sacrificio humano)の慣行は、著者のスぺディング本人も、インタビューに答える形で、話としては様々に存在してはいるが、実際に確かめられたものはないと述べている。人類学ではなく小説だからこそ、このような点に光を当て、最大限に展開することが できたとも言えるだろう。

しかし、私は今日ラパスの街の行きつけの古本屋で、そこの親父さんとこの作品について話をしていたのだが、彼は「俺は実際のモデルのやつを知っているよ」とぼそっと言い、実は私も知っている名前をその後につぶやいたのだ。

それが本当かどうかも、これまた確かめようのない話なのだが(ただし著者にこの話は聞いてみようかなと思っている)、 そのような話が出てくることで、いま私たちが生きているこのラパスの街の空間の虚実の境目が、また揺らぎ始める。

そして、ボリビアの特にラパスには、死とアルコールのかおりが濃厚に漂う文学の系譜があるのだが、古本屋の親父さんの話は、このスぺディングの最新作が、その系譜を私が想定していたよりも遥かに意識して書かれている、という可能性を指し示していた。

何かについてずっと考えているときに、ある一言に打たれるような思いがするということが、確実にある。



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