martes, 18 de julio de 2017

言語の教育の隘路と可能性

私は元々スペイン語教育を「専門」として「研究」したことはないのだが、自分の職業上の実践的な(つまりメチエとしての?)関心から気になって、折に触れて研究を読み、周囲を見ながら考えている。

ただし、関心をもてば関心をもつほど、自分が掘っている方向が、他の人たちがいる場所からだいぶ離れているような気がしてくる。

(1)文法とは、ただの文を作るためのルールの羅列ではない。「なぜ」を突き詰めることで、そもそものその言語の発想の仕方、世界の形成の仕方が、より鮮やかに見えるようになるものだ。もっと言えば、言語学(これは応用言語学ではなく)の知見の中に、実際の言語を使う際に役立つ部分が確実にあることへの信頼が、私は他の多くの人よりも高い。また、形式と内容はそもそも分離できないから、内容と文脈を持たない文で形式だけ練習することの効果を、私は深く懐疑している(この最後の点は有難いことに前の職場でも今の職場でも教員間で共有されている)。

(2)ただし文法とは、実際に使おうとする現場から立ち上がるものでしかない。日本社会は、言語習得において受け身の能力(特に読み)を過剰に優先しがちで、文法を先に説明して後から演習をするということは、結局は受け身の言語能力に特化した教育になりがちだ。そこにあるノイズを含めて明確に文脈化されたことばからスタートして、学生自身のマッピングと教員が築いてきたマッピングをすり合わせる。それは実際に使おうとする中で生まれるマッピングだ。

(3)「日本人教員」と「ネイティブ教員」という区別自体が私は嫌いだが、でも両者の間に越えがたい壁がある。日本人教員は往々にして日本の外国語教育の文脈にどっぷり漬かりすぎていて、現状を十分に批判的に見られない。また、特に教員はごくごく限られた無手勝流の「現地経験」を元に言語教育を云々することが多く、 言語に繊細かつ深い洞察を行うネイティブスピーカー(これは言語学者とは限らない)と丁寧に話す機会が少なすぎる。ネイティブ教員は日本の言語教育の歴史的文脈とそれが持つ凄みを、具体的な形で体験することがほとんどない。

ある種の条件はそれほど簡単にクリアできるものではない。そこで楽観的な見通しを持ってもしょうがない。でも、自分がひたすらやっていれば、そこと相通じる何かを他の人たちの中に見つけることだってできる。たぶん、そういうこと。

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