sábado, 15 de octubre de 2016

学会というものの難しさ

ラテンアメリカ先住民言語に関する国際学会に参加しに、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学(コロンバス市)に来ている。大学の教員をしていると、国際学会に出向くこと自体が日常的な仕事に多大な負担を強いる。でも、やはり沢山に得るものがあり、その無理をした甲斐はあったと思う。

言語人類学は、ディシプリンとしては言語学と文学の両方に足を突っ込んでいるところがあり、また危機言語・少数化された言語をめぐるアクティビズムと切り離すことができない。その独特な難しさにも直面する学会だった。

先住民言語で書かれる文学、特に詩の盛り上がりには目を見張るものがある。少数言語における詩人の多さに、かつて多和田葉子さんが言及していたことがあったが(確か『エクソフォニー』)、ラテンアメリカの先住民言語でも確実にそうだ。

先住民言語による文学の盛り上がりは、それ自体が喜ばしい目標である。それは確実にそうで、ただしだからといって、研究として何でもいいというわけにはいかない。自然との関係が扱われている、その中での「よき生活(buen vivir)」が謳われている、それを言うだけで終わったら(たとえそうだとしても)研究としては駄目だろう。位置づけを与える(≒ラベルを貼る)だけに終わったり、批評理論の切り貼りに終始して、肝心のテクストはどこにあるのだろうと思ってしまう発表は、やはり多い。結局、我々は、あくまでも具体的にテクストを読み深める技術によって、新しい境地を切り開くしか、本来はないはずだ。

先住民言語を研究することは、それをめぐる社会状況に否応なく巻き込まれる。その意味で、言語そのものの理解と社会実践を架橋しようとする研究者が多いのは、話をしていて面白いし、親近感を覚える。言語学者の中にも、社会学や人類学の古典に造詣の深い人たちがいる。

でも、やはり発表を聞いていると、そもそも説明のための仮説が当初の問題を説明したことになっていなかったり、仮説がどうみても無理筋で用例と照らしてまったく納得できないものも多かった。たぶん実際の用例を丹念に追っていく中での職人技、というところで、実は大御所の中にもそこをごまかしているんじゃないかと思う人がいる。そして、その言語を本当にこの人はどこまで話せるのだろうか、という人たちがいる。私もそういうところがあるというのは認めたうえで、それでも。もちろん、話せたからといって、研究者として優れているかどうかは全く関係がないのだけれど。
(この最後の点は、アンデスの先住民言語の世界では徐々に現地社会で問題視されるようになってきていて、これはいい傾向だと私は思っている。)

そして最後に、アクティビストも研究者も「国際学会回り」をしているだけなんじゃないかと思ってしまうこともある。その中には、面白いと思うし重要な仕事だと思うものが含まれているので、きれいに切り分けられる性格のものでもない。そして、どんな発表からも必ず何らかの学びは得られる。でも、本当に実のある仕事を進めようとして、それを研究としても倫理としても自分の満足のいく形で進めようとするにあたって、国際学会に出ていればいいというものではない。
(ただし、だからといって学会に全く出ないのがいいというものでもない。)

私自身は、ほぼ四年ぶりくらいに自分の正真正銘の専門分野の本格的な学会に出て、いいコメントがもらえたことと、この先の勉強の見取り図と方向感覚が更新されたという点で、やはり来てよかったのだと思う。

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