lunes, 29 de diciembre de 2014

2013年の年末に

今年は自分が難しい年代に突入していく実感がさらに強くなった年だった。昔は30代前半まで修行していれば、その後はもっとスムーズに色々なことが進むのではないかと思っていたのだったが、どうもそうではないことに気付いた。気付くのに3年ほどかかって、少し時間を無駄にした。

幾つかそのような話題を目にしていたので、すぐ先行する年齢の人が発言してくれていたことが光を照らしだしてもくれた。
名越康文、藤井誠二 『心の荷物を手放す技術』牧野出版、2013年。
宮沢りえ、糸井重里「試練という栄養」ほぼ日刊イトイ新聞、2014年11月。

今年はお茶の先生が、そしてお花の先生が亡くなった。お茶の先生は、習い始めたときに既にお年で、最近の様子も人づてに聞いていたので、覚悟はしていたつもりだった。お花の先生は、私の直接の先生の先生なので、90代、見事に生き切ったという感じでもあった。最後に、入院されていた先にお見舞いに伺えたのは、よかった。その時間がぽっかり空いていたのは、何かの恩寵のようだった。

でも、お茶の先生の私が立てたお茶を飲む、そのお茶の飲み方を私のように受け取った人は私以外にはいない。お花の先生が、直接は習っていないまでもふとしたときに漏らす言葉や、枝や葉を矯めるときの撫でる手つきを、指つきを、私のように受け取った人は私以外にはいない。そしてこの現実の世界でそれに接することはもうない。お茶を立ててもあの懐の大きさで飲んではもらえないし、花を生けてもあの反応、人を励まし前に押し出すあの反応は帰ってこない。

それでも私は何物でもない、何者でもない。そのことに耐えないといけなくて、そこからもう一度開き直さないといけない。30代の終わりで、そのようにもう一度思わないといけないのか。

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