sábado, 31 de diciembre de 2011

¿Cristianismo Andino? 2011

1. Bolivia

Nacimiento con la Puerta del Sol de Tiwanaku.
(Santuario Padre Adolfo Colfing, El Alto, Plaza Obelisco)

よく見ると…、り、りかちゃん人形だろうか?

2. Perú

Nacimiento de la Iglesia de Santo Domingo - Qurikancha por la Av. Sol.


Una alpaca acompaña al nacimiento...

El nacimiento de la Plaza de Armas, Cuzco. La feria de artesanía del 24 de diciembre en la misma plaza se llama "Santu-rantikuy", la compra santa...

miércoles, 28 de diciembre de 2011

まだ何か話すことないかな…?

私のケチュア語は遅々とした進みを改める気配がないが、私の先生はとてもすごい先生だ。言語的な感覚が相手と合うというのは、僕にとっては師弟関係における大事な要素の一つだ。

この僕のケチュア語の先生は、二年前に自宅から少しのところで車に轢かれて複雑骨折して、三か月間生死の間をさまよった。そしてそれと共にミシガン大学で教えていた彼女の仕事もパーになってしまった(正確には中断してしまった)。去年のブログにその頃のことを少し書いてあるが、それとともに糖尿病が悪化していて、しかもちょっと前に家族が出かけた間に代理の人に注射するインシュリンの量を間違えられて、一度意識不明になっている。

それでも去年に比べたらだいぶしっかりして、勢いも出て来たのだけれど、でも昔と変わったことがある。一回の話が長くなった。そして長くなったのは、ふつうに考える<老い>ではなくて、今僕にもう一回しゃべっておかないとと多分思っているのだ。

そういうことを経る中で、私の考えも少しずつ変わってきた。しばらく前までは、まだもう一度先生に会えるだろう、もう一度何かをやり直すチャンスが回ってくるだろうと、どこかで頼っていた、というか、そこを甘えなければ自分が持たないくらいでもあったのだけれど、たとえ次があったとしても今しかないのかもしれないと、少しずつちゃんと思えるようになってきた。それは人の老いとともに自分が何かと向き合うことを余儀なくされてきたのかもしれない。それを成熟と言うのか何と言うのかは、まだ放っておこう。

今日も帰り際、まだ話すことはなかったかなと先生は一生懸命考えている。それを見ていて思い出したのは、そうか、入試が終わって報告に来るかつての塾の生徒たちの姿だった。何かが終わって次に進んで、ひょっとすると何かが終わっていってしまう中で、もやもやして気持ちの整理なんてついていなくて、今の瞬間があともう少しだけあってほしいという。そういうことを思い出したりしながら、私は静かに座っていた。何かをちゃんと覚えようとしていた。

でも今一緒に仕事をしているから、まだまだ先がある。次に会うときは、ケチュア語が分からない他の家族が探し出せない昔のノートを掘り出す手伝いをするぞ。この人と一緒に、一つ仕事を作るんだ。

viernes, 23 de diciembre de 2011

夜の街は自分たちのもの

クスコの街の中心部の、教会が密集するところを、観光客目当ての値段の高い店が並ぶところを、ケチュア語だけをしゃべる子供たちが集団になって、五人六人とかで手をつないで、走っていく。たぶん、クリスマス関係の屋台で稼ごうと街に出て来ている家族の子供たちなのだ。

リマ(海岸部)とアンデス山岳部の間にある目も眩むような社会的距離はよく話題になるが、クスコと周辺農村部との間にも地理的には近くても同様に目も眩むような社会的距離があると思う。(これはラパスよりもずっと鋭く存在していると私は思う。)

いつか、この夜の街を走り回っている人たちが、もっと大きなうねりになって、こんな嫌味な街はひっくり返してしまえばいいのに。スペイン人が作ったコロニアル建築だけでなく、インカの堅固な石の礎だって、大きな大きな血の川(yawar mayu)が奔流となったとすれば…。

domingo, 18 de diciembre de 2011

Otro reencuentro con el Lloyd Aéreo Boliviano

"Vuelo 210 de Aerosur operado por Lloyd Aéreo Boliviano..." (domingo 18 de diciembre de 2011)
Un encuentro más con el LAB en momentos inesperados. La última vez fue en el comienzo de 2010, cuando tomé un vuelo a Cochabamba de La Paz del TAM (Transporte Aéreo Militar) y vino este avión del LAB, prestado. ¿Como fantasma que nunca muere? este avión de una empresa que se quebró por el año 2006, sigue apareciendo en varios momentos de mi vida.
La tripulación incluso es/fue del LAB, realmente profesionales (mucho más que los de Aerosur en realidad), que creo que me hace entrever algo del profesionalismo de los tiempos pasados.
Pero hasta cuándo estamos teniendo que tomar este avión Boeing 727, antiguo, abuelito ya. Lo que me estoy imaginando es lo siguiente. Aerosur, que hace como una semana tuvo uno de sus aviones quebrando su llanta al despegar de El Alto pidió al LAB que les preste servicio. Y también se vé un avión con uno de sus motores aparentemente quemado en el aeropuerto de la misma ciudad, dejado ahí desde hace más de un mes (que hasta el momento, nunca he leído en las noticias). ¿Será que les están faltando aviones?

¿O será por la fuerza extraordinaria del papá Juan Pablo II, al que este avión del LAB transportó cuando vino a Bolivia?

Un avión más del mismo modelo de Aerosur... (en Viru Viru 18 de diciembre de 2011)

de TAM (denominado Túpac Katari) (El Alto 20 de diciembre de 2011)

 (Nota aclaratoria 20 de diciembre de 2011: Mirando de cerca, el avión de Aerosur parado en El Alto solo tenía cubierto su motor probablemente para que no entren objetos de afuera... pero ¿por qué sigue ahí?)

miércoles, 14 de diciembre de 2011

違和感のスケッチ(文学の読み方)

今週は本のプレゼンやCDのプレゼンなどのイベントが重なっている。つまり今週が年末の駆け込みの一週間なわけだ。

今日はJuana Manuela Gorritiという19世紀の作家の、普段アルゼンチンの作家だと認識されているのだけれど、ボリビアでの生活と、ペルー、ボリビア、アルゼンチンをまたいだ生涯と著作を視野に入れようという趣旨のコロキアム。重要な発言があったり、最近ちょっと気になっていた名前の人が実際に優秀な人だと確認できたり収穫はあった、しかし…、

作家の生涯を見たくなったりするのはとても分かるし、移住が思考のeclecticismを生むという重要な指摘もあった、しかし…、言いたいのはそこじゃなくて…、

どうしても読むときに形式的な面というか、一つの作品の設計のからくり(「フォーマル」という言葉を説明しようとしているのです)を明らかにしようという方向に行くのは、それはもちろん面白いし役に立つのだけれど、「そこで終わり~?」という感じがしてしまう。一つの設計のからくりや原理、しかも見え見えのやつを抽出してその意義を位置付けて終わるのが「読み」だと言っていいんだろうか?

今日はMauricio Souza Crespoという新進の文学研究者のコメントについてそれを思ったのだけど、以前Juan Villoroというメキシコの作家が東大の駒場に来て、Juan Carlos Onettiという作家について発表をしたときにも思ったのだった(注)。

抽出するんだったら、もっと意外なやつにしようよ。そしてもっと行ったり来たりして思わぬ方向にもぐってつなげていくような、そういう自由な読み方をしようよ。認識上の役に立っても面白くても、制度化された「文学」になったり、見え見えの問題の立て方から入ったら、結局そこで止まっちゃうじゃん…。

てことを思いながら、でもボリビア文学の系譜とかをちゃんと押さえよう、つまり今やっているアイマラ語のことの世界の反対側をちゃんと視野に入れようとか思いながら、真面目に聞いていたのでした。


(注)ただし自分で創作をもする場合に、これがある意味両者を直結する思考になりうるのだろうとは推察できる。その上で、ということになります。

domingo, 11 de diciembre de 2011

プラムの促成

果物の栽培は、ただ育てて花が咲いて実が成って収穫して売るだけではないんだと気付く機会が、これまでに何回かあった。

例えばプラム(ciruelo)。今年は先週くらいから収穫が始まっているのだけれど、これからの時期は日中太陽の光で暖められる部屋に、こういう布と新聞紙に包んだプラムが置かれている。
これは早く地面に落ちてしまったり、実が付きすぎて枝が折れてしまった部分のプラムを集めて、甘くなるように人間が手を加えているのだ。大体こうしてから一週間くらいで甘くなる。これはアイマラ語でphuqacha(ña)と呼ばれていて、スペイン語のcompletarに大体対応する、つまり<人間が手を加えて完成させる>とか<足りない部分を補う>という意味合いのある単語なのだ。

これは熟す前に収穫して運送途中で熟させる現代の栽培方法の原型のようなところがあるようにも思えるところだが、この場合は、本来だったらダメになってしまったかもしれない実も、人間が手を加えることで完成させて、場合によっては他よりも少し早めに売り始めるという、無駄を減らして得をするための人間の知恵という側面があるのではないかと思う。


実がたわわに成ると、全ての枝がこうして垂れ下がってきて、たまに重みに耐えきれずに折れてしまうことがあるのだ。

これがその折れてしまった枝。

そして鳥に部分的に啄ばまれてしまった実は、また別に集めて、これは豚の餌へと回される。こうして、ある意味全てが無駄がなく複数の形態に分かれて利用されていく。これが、より商業化・大規模化された栽培形態と異なる、小さな規模の果樹栽培ならではの「計らい」なのかもしれない。
(この「計」は「生計」の「計」。)

ちなみに、アイマラ語でよく聞き間違えてしまう音というのがあるように思う。一つは語頭のjとqの音が意外と紛らわしい。枝が折れて落ちてしまったことを、確かおばあちゃんはjaquntata(かjaquqata)と言っていたのだけど、これを私はqaquntataかと聞き間違えて、「枝をさするのかな」と色々考えていた(qaquñaは「さする」)。ちなみにもう一つは語中のyとllで、以前教えてもらったジャガイモが地中で腐ってしまうjullurañaを、私はjuyurañaだとしばらく思い違えていて、「辞書に載ってない」と思っていた(実際にはjulluñaなどが載っている)。

*実は元々自分の調査はこういうこととは別のことを少しずつ追いかけていたので、余談のつもりでこういう話を書き留めていたのですが、これ自体をもう少し真面目に記述してみようかなと思い始めました。書きながら考えていくというか、書きながら自分を作っていくというのは、やはり意外と役に立つものですね。

viernes, 9 de diciembre de 2011

村から、アイマラ語から、考える

私はここボリビアのアンデス・オーラルヒストリー・ワークショップというアイマラの人たちを中心とする組織ともう8年以上の付き合いになるのだけど、今日の午後そこで昔のカセットを年上の友人から預かったものをデジタル化していたら、長いこと会っていなかった友人が姿を現した。以前のエントリーのTIPNISの行進の話の最後にちょこっと顔を出す人で、5年越しの卒論をなんとか完成させようと、村から出て来ているのだった。アメリカに出張中の私の師匠の家に泊まらせてもらっているらしい。

夜にあった多元的経済とか社会的連帯経済を考えるセミナーでも顔を合わせたので、近所まで一緒に帰って来た。そのアルゼンチンから来た人のセミナー自体は大したことがなかったのだけど、「よき生活(suma qamaña)」のあり方とかを考えるとしたら、死者との関係とか星のこととか、村で伝わることわざ(アイマラ語で「イウハ(iwxa)」と言います)から自分は考えるなあと、帰り道に横でボソッと言っている。それを聞きながら私は一瞬頭がグラグラして、でも本当にその通りなんだよなと同時に思う。でもこれを実感を込めて言えるというのは、やっぱりすごい。本来先住民の考え方から導入されたはずの「よき生活」を巡る議論には、こういう発想からの思考が決定的に欠けているのだ。

そして私がカセットの音声をデジタル化しているのを横で見ていた彼は、そのインタビュアーの年上の友人(ラパス生まれ)について、多分話し方を甘くしよう(endulzar)と努力していたはずで、お年寄りへの敬意をどうやって込めようとするかだよねと、またひどく適確なことを言う。本当にその通りで、都市で生まれたアイマラの人は、どうしても「乾いた」言葉の紡ぎ方になってしまうのだ。これは私のアイマラ語の先生が、特に都市のラジオのアイマラ語について、しつこくしつこく批判をし続けてきたことでもあった。

アイマラ語の方が得意な彼は、アカデミックな言葉を操るということもだけど、段落の形で文章を書くということに苦労しているのを、以前私は見てきている。自分の思考が都市の(アイマラの)人に分かってもらえないと思っている、その感じが何となく私はすごくよく分かる気がする。それは彼だけではなくアイマラ語の方がスペイン語よりも得意な人はよくそう思っていて、不思議なことに私はそういう人たちと仲良くなる。それでも彼は「向こう」から、村に住みながら考えるんだと言っていて、数年前から村の役職(の最初の方でつくやつ)につきはじめているのだった。口数が少なくて、ゆっくり考えてボソッととても重い言葉を発する彼のあり方に、私は実はとても影響を受けていて、今度こそ卒論が終わるといいなと、ラパスの夜の灯りの下を歩きながら横でそっと思っていた。

*最初はツイートしていたのですが、長くなり過ぎてしまって、こちらで書き直しました。

jueves, 8 de diciembre de 2011

Las redes comerciales que se extienden y atraviesan

De la señora que limpia el departamento donde yo vivo, sus familiares ocupan el kiosko a la vuelta de la esquina que vende dulces y refrescos, y también la tienda de ropas indias al frente de ese kiosko.

El señor que vende periódicos en las mañanas en la esquina justo debajo de nuestro departamento, su familia ocupa el kiosko unas tres cuadras más allá.

La familia que vende periódicos en la esquina de Aspiazu con 6 de agosto muchas veces les veo vendiendo unas dos cuadras más arriba del Aspiazu. El señor consigue cualquier título de las obras de Fausto Reynaga (uno de los ideólogos más importantes del indianismo actual en Bolivia).

Así los negocios y sus puestos, y la estrategia familiar de la ocupación de estos, no es un solo punto sino que se extienden por las calles, las atraviesan, así formando una red compleja en cada rincón de la zona de Sopocachi, ciudad de La Paz.

martes, 6 de diciembre de 2011

学会プロポーザルがリジェクトされて

来年行われる、あるラテンアメリカ関係の国際学会にプロポーザルを送っていたのが、リジェクトされたという連絡がきた。初めての経験に少しショックを受けて、色々と考えてみた。(そもそも今までローカルな学会でしか発表をしてないからいけないんです、そうなんです、わかってますよ。)

一つは、有名な学会だからというだけで、実はパネルのサブテーマが自分が報告したいテーマとかぶっているのかかぶっていないのかが微妙なところにプロポーザルを送ってしまったのは、やはりそんなに楽観視をしてはいけないということなのだろう。もう少し、戦略的にパネルの構成や特定化された学会を選びながら、プロポーザルを送るべきなのだ。
(実際、もう少し分野の特定された国際学会に送っていたプロポーザルの方は、アクセプトされたという連絡が数日前に来ている。)

あともう一つ、今年の重要な教訓は、本当に自分とドンピシャのマイナー系国際学会の場合、プロポーザルの締め切りが過ぎた後にその存在に気付いたとしても、強引にプロポーザルを送ってみるべきなのだ。今年の10月末に聞きにだけ行ったある学会では、「そのテーマをやっていて、なぜ後からでもごり押ししなかった!」とオーガナイザーを含めて複数の人に突っ込まれた。フォーマルな締め切りが厳密な締め切りではないのは、中南米域内だけじゃないのね。

最後は、自分のテーマの構成の仕方について。今現在の私のテーマは、ボリビア国内受けはするのだけど、国際受けしないかもしれないという気が確かにする(「学振受けする」というのと似た感じで)。それはそれで今はいいのだと思っているのだけど、そこにとどまって自足するというのはまずいかもしれない。そのためには、自分のテーマの一点突破だけではなくて、分野全体への目配りと検討を通じた自分の課題の設計が必要になるのと、今やっている個別の話がちゃんともっと深まって境界が突破できるようになるかという、両方なのだろうなあ。

でも、結局は今自分がやっていることが一番大事なので、とりあえずこれくらいで考えるのは止めて、さっさと目の前の論文を書こう。

(2016年3月5日追記:この記事は比較的読まれているようなのですが、実はこの話には後日談があって、比較的早い段階で「実は人が足りないのでやっぱ出てくんない?」 という連絡がパネル主催者から来たので、リジェクトされたからといって不貞腐れてすぐに別の予定を入れないことが大事かもしれません。)

domingo, 27 de noviembre de 2011

文化の継承(ニワトリ)?

私がよく日曜日を過ごしている家のニワトリたちは、むかし実は木に上がって眠る独特の習慣があって、その後この習慣は継承されなくなったと思っていたのだけれど、どっこい今でも続いていたのです。しばらく前に気付いていたのだけれど、今日(11月27日)やっと実際に写真を撮りました。

庭に一本ブーガンビリャ(buganvilla)(日本ではブーゲンビレアと呼ばれるのかな)の木があって、そこには梯子がかかっています。私が初めてここに来た2003年からずっとこうなっています。冬の間は茶色い部分が多くなっていたこの木も、夏に入ってきて一面に紫の色が回復してきました。もう夕方で、その下の辺りにうちのニワトリたちが集まってきています。 

梯子をバサバサと上っていく「一番鶏」。

新参者の若い鶏は「あれっ、まだ早過ぎたかな」と逡巡して結局戻ってもう一度餌をついばんだりして…、

でも段々と列ができてきて、 

おいちょっと後ろ詰まってるよ、早くしろよ。

こうしてブーガンビリャの木の中にニワトリがとまっているという珍しい光景が見れるのです。

こうして「ああ文化は継承されていた」と思っていたのですが、いやそうではないかもしれない…。僕が知っている「あの時」の後で、実は当時のニワトリは「毒殺」されて一度全滅しているのです。なので、前のニワトリを見て今のニワトリがそれを覚えたということはないのですね。しかも僕が買ったニワトリたちはこの写真の奥の納屋みたいなところで最初は寝ていたのですが、他のニワトリが二羽夜にさらわれた頃から、木に上がるようになったとおばあちゃんは言っている。このさらいに来た動物はsiki(シキ)と言う狐のような動物だというのですが、すばしっこくて誰も実際に見ていなくて、猫みたいな動物と言われることもあります。自衛のための必要に迫られた判断か、何らかの形で昔のニワトリの痕跡が梯子や木に残っているのか…。

そして、毒殺にカギカッコを付けたことも説明した方がいいかもしれません。この家の犬はここまでに何匹も死んでいて、これも「毒殺」されたと僕は説明されています。これは事実かも知れない。でも、外を出歩いている間に変な物を食べた可能性はある。この前に犬が死んだときは、下のサッカー場に行く途中に豚の死体が腐乱していたことがあって、僕はそれを犬が食ったんじゃないかと思ったりもしていました。でもいずれにしても、それはここの人たちの隣人たちの見方を確実に反映している、そういう裏をかかれるかもしれないという互いに足を引っ張り合う不信感が存在しているのでもあるのだなあと、そういうことは言えるのだろうと思います。
(ただし、ニワトリが全滅するのは誰かが悪さをしないと実現しないから、これは事実なんだろうなあとも僕は思っています。そして、変な物を食ったにしては続きすぎているとも言えます。)

動物はそれを買った人の性格が反映されるというので、今度はと思って私が選んでみた。そうしたら、「昼飯を食ったらそこら辺で寝てしまうとことかよく似ている」と言われている。前途多難かなあ、がんばれよ。そう簡単には死ぬなよ。

sábado, 29 de octubre de 2011

大江健三郎と小森陽一

昨年準備をしていて、年末年始にかけて書いた以下の論文が公刊されました。
藤田護「大江健三郎『水死』における言葉の方法―『後れ』が導き入れる現代の物の怪と憑坐(よりまし)」『言語態』第11号、東京大学言語態研究会、2011年。

複雑怪奇で懐の広い、後期の作品群が私は気に入っていて、大江健三郎の小説で一番最初に読んだのは『さようなら、私の本よ!』でしたから、ちょっと変な読者なのかも知れません。でも小森陽一さんの『歴史認識と小説―大江健三郎論』(講談社、2002年)にも、同じような読者が想定として出てきます。かつて『さようなら、私の本よ!』が出版された後に、池袋のジュンク堂での講演を聞きに行き、その後でサインをもらうときに、大江さんは「これは批評に恵まれてないんです」と至近距離で私に向かって言いました。びっくりして何を返事していいのか分からなかったあの時から、少し時間が経ったのだなと思います。

校正をしているときに初めて気が付いたのですが、これは私の先生の小森陽一さんの理論的な着眼点の影響をとても強く受けているようです。
(1)論文の前半部分で、「おくれ・おくれる」について、英語と日本語の境界を越えて、近代とそれ以前の境界を越えて、多方向的な「検索」をかけるというのは、小森さんが『すばる』で連載していた自身の夏目漱石論について話をしていたときのことが頭に残っていたに違いありません。
(2)論文の後半部分で、物の怪―憑坐という「関係」を読解の道具として見出し、それを様々な場合についてあてはめて考察してみるというのも、小森さんがゼミの場で再三強調していた、ある観点を設定したうえで詳細な登場人物間の関係のマッピングをしてみるという必要性を、自分でやってみようとしたのだと思います。
(3)(ミクロな)シンタクス(統語)を見事に読み解いて(マクロな)全体の読解につなげていくのも、私の中では小森さんの方法の真骨頂の一つですが、非常に細かいところで何とか真似をしようとした箇所があります。
(4)制度としての「近代(文学)」を(ギョーカイとして)仕切る線に捉われないようにという態度にも影響を受けています。

逆に、(古代・中世文学の場合と若干異なる現代の多元化された)物の怪―憑坐関係の網の目を作品全体に見出そうとするのはいいとして、それが実際に何を見出したことになるのか、本来その考察をもう少し先に進める余地があったのではないかなという反省点が、私自身の中での不十分な点として残りました。もう少し先が見通せるはずではなかったのか、と。

大体書いている途中は必死すぎて何をやってんだか自分でも分かってないのですが、何かを見通そうとしたときに、方法的な思考に強い人に教わっていたというのは、暗闇の中の手掛かりになるのだなあと振り返って思います。本人が読んでなさそうなところで、地球の反対側の方に隠れて、そっと感謝を。

martes, 25 de octubre de 2011

Internet radio en aymara (Radio San Gabriel)

Nuestra Radio San Gabriel de El Alto, Bolivia, la emisora del pueblo aymara, ha comenzado desde hoy sus emisiones también por el internet. Ahora se puede escuchar nítidamente sus emisiones en aymara desde cualquier parte del mundo.
Sitio Web: http://www.radiosangabriel.org.bo/

私が調査でお世話になっているエルアルト市(ボリビア)のアイマラ語放送局が、本日からインターネット放送を始めました。これで世界どこにいても、うちのラジオ局のアイマラ語の番組を聞くことができるようになりました。
ウェブサイト: http://www.radiosangabriel.org.bo/

家族?

平日の夜の入りのラパスの街の黄色の灯りのうす暗がりの中を満員の小型バス(ミニバス)は走って、ラパスは川の街だから、くねくねと斜面を下りて川を渡ってまたくねくねと上がって、人を下してまた乗せて、道路脇や階段に座ったりちょっと奥まったところでイチャイチャしているカップルがいたりして、見ている自分もちょっと嬉しい気分になって、またくねくねと斜面を下りて別の川を渡ってまたくねくねと上がって、大渋滞する分岐点を回避しようと運転手は気を利かせ脇道に入って、それに気づき遅れた乗客が烈火のごとく怒りだして、下り際に運転手と口論を始めて、また斜面を上がって上がって上がって、乗客が一人二人と下りて行って、路線の終点まで乗っているのは大体僕一人だけで、そこからエルアルトにつながるラパスの反対側の斜面の光の波が一望できる急斜面の階段をちょっと下った一角に、その家はあって、大体同じ時間にその家族の他の人たちも到着し始めていて、お母さんは職場の料理と皿洗いの重労働で背中の神経が圧迫されて歩くのが難しくなったりして、娘のうち二人はこの土地特有の眼の病気で視力が急速に衰えていて、でも特に下の子はおてんばでよく眼鏡を壊すから、新しい眼鏡を作るお金がなかったりして、自分たちを捨てた父親なんか死んでしまえばいいのに悪草ほど死なないもんだよと悪態をついて、それでも家族で、それが家族だ。

まさか誕生日のケーキを買ってくれてるとは思っていなくて、そんなことに回すお金はないはずだったのに、お母さんが職場で借金をして、その一部で買ってくれたみたいで、ロウソクを吹き消した後に一番下の女の子に後ろからガスっとやられて(que muerda)、顔がチョコレートだらけになって、珍しく本当に泣きそうになってこらえるのが大変だった。本当に、どうもありがとう。

jueves, 20 de octubre de 2011

ボリビアTIPNISの行進(ラパス到着)

先週の日曜日にボリビアで実施された司法府の選挙は、大量の無効票と白票が投じられたことが明らかになっていて、現政権による司法府の掌握への批判であれ、TIPNIS問題への対応への批判であれ、エボ・モラレス大統領への懲罰票(voto castigo)という受け止め方が広くなされています。そしてそれは、「エボ・モラレスが2005年の総選挙で大統領に就任して以来初の選挙での敗北」となりました(ここまで実は圧勝が続いていた)。そして反対勢力が候補をある程度絞るとモラレスに選挙で勝利できる可能性まで生まれてきてしまい、ボリビアの政治は新しい局面に入ったといえるでしょう。

そのような中で、TIPNISの低地先住民のデモ行進は19日水曜日にラパスに到着し、出迎えた市民の数の膨大さは、ちょっとこれは近年に見たことがない水準となりました。これをどう解釈し、位置付けていくかは、これからしばらく議論されなければならないかもしれません。ともかく、幾つか写真を撮ってみたので、以下私のコメントとともに載せることにします。

ユンガスからラパスに入ってくるデモ行進は、Qala Jawira (Río de Piedras)、Villa Carmen、Villa Fátimaといった地区を通って市内中心部Mirafloresに入ってきます。ここは、Villa FátimaとMirafloresの境にある大きな広場Plaza Villarroelから上を臨みます。午前9時の写真、デモ行進がここに到着したのはもう12時近くでしたが、この時間から迎える市民の列ができていたことが分かります。

その更に上にあるPlaza de Maestroという広場の付近。市民というのは、付近の高校生や小学生や先生たちやお医者さんや看護士さんなども総出で、学校の楽隊などが音楽を鳴らし、国旗が揺れ、大歓声が上がる中を、もみくちゃにされながらデモ行進が通過していきます。

この辺りはTIPNISの低地先住民の人たち。

その先は、昨日と同じでCONAMAQの集団。その後に、迎えるラパス市の大学生や市民や音楽隊などが入っていき、デモ行進自体も膨れ上がっていきます。

Plaza VillarroelからMirafloresに入っていきます。まるでカルナバルみたいで、しかも出て来た市民の数は今回の方が遥かに多いでしょう。

スタジアムからカマチョ(Camacho)通りに入っていく大広場は、歩道橋の上まで人がギッシリ詰まっています。

ラパスの中心部に向けてカマチョ通りを上がっていくデモ行進。真ん中の3列がデモ隊で、残りは全部が見物する市民です。ずっと先の方に見えている旗のかたまりが、CONAMAQの集団。

これはアヤクチョ(Ayacucho)通りに入って、副大統領府と中央銀行の角からムリーリョ(Murillo)中央広場を見上げるところ。以前に写真を載せたCOBのゼネストのデモ行進と違い、デモ隊が中央広場に入っていったことが分かると、全員のテンションが上がります。

中央広場は市民に対して完全に解放されていて、大統領府と議会のところから入って一周します。以前に警察がデモ隊に介入して大規模な反発を受けているので、今回警官を配置して侵入を阻止していたら、かなり深刻な衝突となって、政府が事態の収拾能力を失っていただろうという見解は、複数の人が既に述べています。

カテドラルと国立美術館(Museo Nacional de Arte)の角をもう一度下りていき、

プラド(Prado)中央通りに入って、

サンフランシスコ寺院前広場が終着点なのですが、その先のランサ市場(Mercado Lanza)が見物する人で上まで溢れかえっているのが見えるでしょうか。

今の時点で言えそうなことを幾つか書き留めておきます。
(1)このTIPNISの行進を迎えたラパス市民の規模は、確実に歴史に刻まれることになります。ボリビアでは社会運動が歴史を作ってきたのだ、とする社会学者Fernando Calderónの見識は、再び確認されたことになるでしょう。それは結局、「先住民出身」を自認した大統領が誕生しても、ボリビアの政治と社会の動きの基本パターンが変わらなかったことにもなります。
(2)またこれはラパス市民の気質をとてもよく表しているのでもあります。本当の富裕層は隔絶したところに住んでいますが、中間層の人たちはいざというときに「正しさ」に対して結局は柔軟に受け入れて支持に回ります。自分たちは長いことこうやって受け入れて共存してきたんだという、ある種の懐の深さと連帯感がある、それを知っていると社会と政治の動きの様々な側面がよりよく見えてくると私は思います。
(逆に言うと、ラパス市の(地理的に)上方に位置しているエルアルト市民が、自らが主役になったときは極めて強硬な戦闘的姿勢をとるのですが、今回の件では非常に曖昧な態度を取り続けていることは重要です。)
(3)この熱狂の中に、「制度化されない形での多様性の共存」が垣間見えるように、私自身は感じます。それは多分、先住民主義(インディアニスモ)と都市のアナーキズムが結びつく一瞬なのだとも思います(これは私の師匠のSilvia Rivera Cusicanquiの影響です、以前のエントリー「左派の傲慢」との違いも参照)。僕はこういう場面に出会うと、「自文化を大事にする先住民の本質主義は、常に他の人たちに向かって開かれていたんだ」と幾度も独特の形で主張していた、アンデス・オーラルヒストリー工房にいて今は自分の村に戻った同僚(Godofredo Calle)のことを思い出して、それはこういうことでもあるのかい、と心の中で問いかけたりしています。


miércoles, 19 de octubre de 2011

お生花(せいか)

水曜日にうちの会の生け花の師範試験があって、後輩が一人合格した。おめでとう~。
お生花と呼ばれる伝統花の師範試験では、現代花も併せて生けるのだけれど、3時間ほど部屋に閉じ込められる(もっとだったかな)。そして本当にフルに時間いっぱいやることがある。忙しい現代では、なかなかそれだけの濃密な時間を自分と花だけで向き合って過ごすことはないもので、私はそのときに生けたヒバとは、それ以降(種として)すっかりお友達になってしまった。

現代花ではなくて伝統花をやることの意味は、多分人それぞれなのだろうけれど、僕自身にとっての意味は<何かが伝承されること>にある。新米の我々は、本当にそれこそ先生と二人三脚になる。最初の頃は(今でも)、自分が生けているんだか先生が生けているんだか、どちらかというと後者だろうかね、ということにもなる。でも多分そこが大事なのだと思う。生けるという行為が、自分と花という対話だけでなく、自分と花と先生という三者の関係になるというかな。型を受け取るというのは、真似をすることとは違う。身体(指)の動かし方とか、眼の使い方とか、自分の感受性の全てを使って、「そうか、これがいいんだ」というのを自分の中に刻んでいく。

これは少し、研究者の世界での技の伝承と似ている。すれてきてしまった今は少なくなったが(悪い意味で要領が良くなったか)、私は昔、自分の先生の柳原透という人が、この場面に出くわしたときに何を言うか、これを言ったら次に何を言うか、なぜこう来たら次にそうなのか、それこそそれがそこにあることの意味を、じーっとひたすら「見ていた」時期が数年間ある。これは「OO学」(ディシプリン)という場合の物の見方を身に付けるのとは違う、もう一段基礎的なところでの思考の仕方を身体で覚えようとしていたんだと今では思う。事実、経済を教えていたその先生が私に経済「学」を勉強するなと言ったのは、多分そういうことなのだと思っている(実際には、経済学を勉強しているやつで現実の経済の動きが見えないやつは沢山いるから、そうなるなと言われたのだった)。大学とか何が面白いんだかさっぱり分からなかった私は、それならば意味があると思えたほとんど唯一のものに、もう文字通りしがみついていた時期がある。

でも不思議で面白いのは、そんなに二人三脚でやっても、やはり先生の形にならないということなのだ。先生の形が自分の身体の中に入ってくる、それなのに自分から出て行くときは、抗いようもなく自分の形になっていく。この、どうしようもなく自分らしくなってしまうという感覚は、そもそも勝手気ままな私に新しい何かを確実にもたらした。

なんとなく、役者の世界にいる人が伝統芸能の世界に興味を持つのはそういうことのような気がして、口頭の世界で言葉の術(態)が伝えられていくのはそういうことのような気がして、生け花を越えたある一つの世界とつながれるように思うのだ。しかも生け花は業界としてはそれほど勢いがなくて、特に伝統花はこれはいいかもというところまで行っている会はとても少ない。それも含めて、研究者の世界に加えてもう一つ、技が伝承される世界にいられることは幸せで、そういうことが何らかの形で他の人にも起きるといいなと、思っていたりする。

martes, 18 de octubre de 2011

ボリビアTIPNISの行進(峠越え)

ラパス県の北部の亜熱帯地域からラパスの街に入ってくるためには、その直前にクンブレ(cumbre)と呼ばれる高度4,700mの峠越えがあります。ボリビア史上最大の低地先住民の行進となり、明日水曜日にラパス市に到着する予定のTIPNISの行進は、今日火曜日の午前中にその最大の難所に差しかかりました。私が色々と調査をしているラジオ局も取材に行くというので、車の片隅に乗っけてってもらいました。

峠の向こう側は深い霧が立ち込めています。ここはポンゴ(Pongo)と呼ばれる場所。

崖から見下ろすと、昨夜テントを張った地点が遥か下に見えます。

取材に向かう、うちのラジオ局のレポーター。 


午前9時前ごろ、霧の向こう側から既に行進を始めた隊列が姿を現します。ラパスに近づいて膨れ上がり、全体で2,500人くらいいるみたいです。


先頭にいるのがTIPNISに住む低地先住民の人々。この人たちがシンボリックに持っている弓矢が、前内務大臣の「やつらは弓矢で撃ってくるからとても危険だ」という新種の差別発言を生みました。

後ろに続くのは、高地先住民組織のCONAMAQ(Confederación de Ayllus y Markas del Qullasuyu)。この組織は早い段階でこのデモ行進への支持を表明し、途中から隊列に加わっていました。

低地先住民運動の代表の一人にインタビューをするうちのチーム。モヘーニョ、トリニタリオ、ユラカレ、チマネなど、低地先住民言語を話す人たちの集まりで、うちのラジオ局が毎日午前中に放送する「アイマラ言語(Lengua Aymara)」の番組の時間にも、中継で出演してもらいました。


ラパス市が差し入れでコカ葉のマテ茶とパンをふるまっています。市役所の道路局と警備局が交通整理に当たり、この後の峠の地点では実際にラパス市長が出迎えたようでした。 ラパス市はMovimiento Sin Miedo (MSM)という左派なのですが政権政党Movimiento al Socialismo (MAS)と袂を分かった政党が握っていることが反映しているようです。ただし、このデモ行進側は極力MASの反対勢力のキャンペーンに利用されるのを回避しようと努めてきたことも、同時に指摘しないといけないでしょう。

今日はそれ以外にも、青年団(若者たち)の差し入れ(写真)や、宗教団体の靴や医薬品の差し入れの行為も頻繁に行われ、体調を崩した妊婦の人が病院に運ばれるなどもしていました(ここ数日で3人ほど赤ちゃんが生まれているようです)。

これはやはり政治なのだ(ボリビアのTIPNIS運動をめぐって)

TIPNISのデモ行進に対して、よく投げかけられる批判に、でも住民は実は道路を欲しているではないか、というものがある。

これ自体は事実として正しい。

それに対して、低地先住民運動側は、当該地域の生態を維持することがボリビアだけでなく南米全域の気候の恒常性を維持するために必要不可欠だという筋と、道路建設を契機としてコカ栽培農民による土地の占拠が進むと国立公園内の脱森林化が急速に進展してしまうという筋を組み合わせて説明することが多い。

でも、ちょっとこれを別の角度から考えてみよう。

おそらく当該地域内部では意見が割れているはずで、このことは認めるところから出発しなければならない。しかし、全国を揺るがす運動を作り上げたのは、生態を守ろうとする側の運動であって、ボリビア政府側が必死で道路建設を支持する側と会合を繰り返して、TIPNIS保護側を引っ繰り返そうとした試みが、結局は成功しなかったことは重要な示唆を与えている。環境主義の文脈で主張を展開したことが、都市中間層と外国からの好感と支持を生み出した一方で、低地先住民運動を貶めてつぶそうとしたボリビア政府は、明らかに対応に失敗した。そして、外国や反対勢力からの資金提供という要因では、最終的に何が大きな運動になるかを説明するのは不十分だと、私は以前から思っている。(政治的には、大体これを持ち出すと政権が逃げにかかっていると受け止められてしまうことが多い。)

そして、たとえ道路建設を住民が欲していたとして、その道路建設が実際に実施されていた場合にどうなるだろうか。上にもある通り、この件の背景には、アンデス高地から進出するコカ栽培農民と低地先住民との間の勢力争いがある。中期的にみて、低地先住民の自律的な生態圏が破壊され、文化的なまとまりが維持できなくなるか、再度他の地域への移住を余儀なくされるのは、確実だろうと思う。現在TIPNISに住んでいる低地先住民は、20世紀初頭にはもっと西の方に住んでいたらしく、もともと力が優勢なのはコカ栽培農民の方だからだ。今回の行進が、途中で衝突と死者を出しても何としてでもラパスに着こうとしたのは、この勢力争いで今回退いたら二度と対等になることができなくなるという計算が大きく働いているはずだ。つまり道路建設を欲する意見に従うことは、ある基準からみたときにプラスの効果をもたらさない。

つまり、何がそもそも正しいのかではなく、住民の意見がデフォルトで正しいのでもなく、政治とは正しさを作り上げるものなのだと思う。私の見解では、大っぴらに叩きつぶそうとしつつ、その裏側で利害とか打算で何とかできると思い込んで工作をしたエボ・モラレス政権が(モラレス大統領はコカ栽培農民を最大の支持勢力としている)、その「正しさ」を低地先住民側に取られたのが、今回の政権側の対応の最大の失敗だ。そしてその正しさは、集団間の勢力争いと実際に結びついた正しさでもあるのだ。

そしてその正しさが今回、「生態」、それも低地先住民のそれであったということは、「水戦争」「コカ戦争」「ガス戦争」を経てきた2000年以降のボリビアの社会運動史において、今回のTIPNISをめぐる運動が占めることになる重要な位置を示唆しているはずだ。そしてこれは、支配階層に対する異議申し立てではなく、社会勢力間の共存とせめぎ合いが全国的議題になったという点で、エボ・モラレス政権以降「多民族国家(estado plurinacional)」となったボリビア社会を、やはり反映しているのではないかと私は思っている。同時に、依然として様々な集団を結びつける正しさが社会の側から提示され、突き上げられた政府が軌道修正を余儀なくされるという、従来から指摘されてきたボリビア政治のパターンが変わらないことも示されたのではないだろうか。

domingo, 16 de octubre de 2011

ボリビア(ラパス)の選挙の風景

ボリビアの選挙は、民主主義のお祭りのようだ。(今回はまだそれほどでもないけれど)情勢がどんなに荒れているときでも、選挙になるとピタッと投票が行われる。その意味で、ちょっとカルナバルに似ているところがあるとも思う。かつて私は、大使館(外務省)からの派遣という形で、2004年12月の地方選挙と2005年12月の総選挙で米州機構(Organización de Estados Americanos, OEA)の国際選挙監視員に加わったことがある。

今日(10月16日日曜日)は選挙日。私が住んでいるところの近くの、ラパスの中間層が住む地区(Alto Sopocachi)の投票風景を載せてみます。ちなみにここは、少し先の道を一つ挟んで、中間層の上の方と中間層の下の方を分断する線が走っているところ、言い換えるとアイマラ民族色がぐっと濃くなる線が走っているところで、そういう点からもちょっと面白い地区です。

ボリビアでは投票は義務で、前日から酒類の販売も禁止され、当日は最高選挙裁判所(Tribunal Supremo Electoral)の許可証をとっていない車輛の通行は禁止となる。昼前になると、住宅街の道を家族連れが三々五々投票所に向かってくる。
(あまり早く行くと、投票監理員が遅刻していて投票所が空いていなかったりする(笑)。)
(注:TSEは、以前は全国選挙裁判所(Corte Nacional Electoral, CNE)という名前だったが、新憲法の下で名前が変わった)

投票所の様子を幾つか。大体地域の学校が投票所になっていて(これは日本と同じだ)、入ってみると名前順に投票室の割り振りが貼ってある。ボリビアでは以前は登録されている選挙人台帳ごとに部屋が割り振られていたので、自分がどこなのかを確認するのがひと苦労だったのだが、2009年に生体認証による選挙人登録が導入されると同時に、単純にアルファベット順の配置になり、だいぶ楽になったようだ。

投票室の見取り図(手書き)と投票用紙の見本も貼ってある。

ある投票室の前の様子。この投票用紙を広げているのが重要なポイントで、これは事前に印が付いていない白紙の用紙であることを周囲に対して証明しているのだ。ここで投票用紙を受け取った人は、たった一人で教室の中に入って、印をつけて、出てきて、写真右下の投票箱に用紙を投じる。この間、教室の中に他の人が入ることはできず、だからかなり細かく投票室ごとに有権者が配分されて、しかも結構な列になったりする。

この投票過程は、毎回抽選で市民の中から選ばれ、事前の訓練(capacitación)を受けた選挙監理員(jurados electorales)が設営をすべて司り、投票が午後4時に終了した後は、自分たちの部屋の開票作業までを行い、結果を書類に記入したうえで、それぞれの投票箱が最高選挙裁判所に向けて送られる。それぞれの部屋(メサmesaと呼ばれる)に、場合によっては政党代表の監視員も貼り付けられる。この投票を全員でやっている感じが、私は日本の選挙よりもずっと民主主義の精神に近いのではないかと思う。
(今回は司法府の選挙なので政党監視員は認められていない。)

ちょっと違う言い方をすると、今回初めてボリビアで実施される司法府の高官を選ぶ選挙は、現政権による司法府の掌握の意図が大っぴらに出ていて、様々な批判を浴びている最中なのだが、それと<投票をする>という行為自体に人々が与えている重要さとは、分けて考えないといけないのだろうなと感じるのだ。

ちなみに、ボリビアではかつての1952年革命の後に普通選挙が導入されたのだが、1964年のクーデターによる軍政開始の時期までは不正が横行していたようで、事前に印を付けた投票用紙が投票所の外でお金とともに配布されていたという話を聞いたことがある。したがって当時の国民革命党(Movimiento Nacional Revolucionario, MNR)の得票率はあてにならないようだ。その当時の記憶が残っていることもあって、上記のような形が取られているのだろうと思う。

投票所になっている学校の中の様子。

外には食べ物の屋台が所狭しと連なっている。Chicharrón、fricasé、fritanga、sajta de polloなどこういう所でのおなじみの料理が出ている。よく探すとcharquecán(オルーロの方のリャマの干し肉を揚げたもの)やwallaqi(チチカカ湖の魚のスープ)なども見つかる。人がひしめき合って、家族が昼ご飯をここで食べていき、店の人たちがあわあわと動き回る。この全体が一種独特の雰囲気を作り出す。

chicharrón(豚の唐揚げ)をよそっているところ。

これはfritanga(豚のトウガラシ煮込み)。黄色トウガラシに十分に赤トウガラシを合わせます。私はこれが大好物。白トウモロコシを茹でたモテ(mut'i)とジャガイモを乾燥させたのをもどしたチューニョ(ch'uñu)と。

村の方に行くと、投票の前後に村人たちが投票所とは別のところで輪になって話し合いをしているところを見るという話をよく聞きます。これは、共同体的な代表決定の仕組みが近代選挙の仕組みと並存していると言ってもいいですし、まとまりを維持しながら外の(白人支配者たちの)世界にいかに対峙していくかという意識が働いているという見方もできるでしょう。この辺りのウチ・ソト意識がエボ・モラレス政権登場後にどう変わりつつあるのかは興味深いところです。このブログでも取り上げている2010年末からの現政権の迷走とは別に、2005年末の総選挙を通じて多くの人々が自分たちの側の代表だと認識できる初めての大統領(エボ・モラレス)が誕生したことが、ボリビア社会の広い意味での民主化を大きく推進したことは、疑いのない事実です。

viernes, 14 de octubre de 2011

さかってるぜ!

よく読ませていただいているブログに天満放浪記というのがあるのですが、その最近のエントリーが achalaw! になっているのを見て、ふと思い出したことがある。

このての感嘆句はアイマラ語とケチュア語でほとんど同じで、例えば「美味しい~」というときにこれは使えるはずで(というかそう教えてもらって)、以前、
Achalay !
と言ってみたことがある。(アイマラ語では末尾がyになる。)

そうしたら、横にいたおばさんが恥ずかしそうに怒り出して「何てこと言うの!」と僕に言う。おお?と思って聞いてみたら、その人は「さかってるぜベイビー」(訳が古くさくてスミマセン)と受け取ったのだった。そして確かにアイマラ語にはachalaという名詞があって、それは「発情期にある動物」なのだった。

こういうのは結構うけるので、失敗しても問題はないのだけれど、やはりその人や地域の言語使用の文脈があるのだという重要な教訓を僕にもたらした。

ちなみにアイマラ語では、「たくさん」という単語が複数あるのだが、その一つは男性のあそこという意味にもなるので、使い方を間違えるとそれもまたちょっと面白かったりする。アイマラ語の会話は、そういうdoble sentido(意味の二重化…というか駄洒落ですかね)を使った遊びに満ち溢れているので、話についていくのがすっごく大変でもある。

(ちなみに、アンデス地域を専門とするとても有名な言語人類学者の人が、最近の文献で、「冗談の場面でしか使われなくなるのは言語使用の衰退を意味している」という筋で、様々なインタビューの言説分析を行っているのだが、一般論として何を意味しているかは推察できるとして、アンデスでbromearというときは実は高度な言語能力を要求されるという印象があって、本当にそう考えていいのかなあと、いまだに私は思い続けている。)

jueves, 13 de octubre de 2011

Reflexivos en castellano y en aymara, o que viva el castellano andino

En una de las entradas anteriores (enlace aquí), escribí que aun cuando en aymara se dice "manq'asiñani," en castellano se dice "comeremos" no más.

Pero según lo que he escuchado hoy, parece que sí hay casos en que dicen "nos comeremos" entre los bilingües aymara-hablantes.

¡Jallalla el castellano andino!

Ojalá que venga el gran día en que esta forma de decir del castellano no sea castigada (actualmente sí castigan a los que hablan así).


Nota de pie:

Un aspecto gramatical quizás importante aquí es que en el castellano los pronombres reflexivos (me, te, se, etc.) funcionan como complemento directo del verbo, mientras que en el caso del aymara el sufijo reflexivo -si no tiene esa función y más bien requiere un otro complemento directo. En un artículo reciente, el maestro Juan de Dios Yapita ofrece una explicación con el ejemplo del verbo jikxatasiña (cf. mi entrada anterior relacionada):

1. Ejemplos de su uso:

    Jikxatasiña uka verbompix kunäms aymaranx arsuña, ukxat arst’añani.
    A. Kuns jikxatasta.
    B. Trabaj jikxatasta.

Su propia traducción al castellano:
Verbo conseguir algo para sí, hablaremos sobre cómo se habla en aymara con el verbo jikxatasiña.
A. ¿Qué te has conseguido?
B. He conseguido un trabajo.

2. La diferencia con el castellano:

    Verbo jikxatasiñampix janiw “akan jikxatasta” -- “aquí me encuentro” sañakikiti castellanonjama.
Aymaranx utjañapapuniw mä kunasa, "complemento directo" sañani, mä khitimpis jikisiña, jan ukax mä kuns jikxatasiña.

Su propia traducción al castellano:
Con el verbo jikxatasiña, no se dice simplemente "akan jikxatasta" -- "aquí me encuentro" como en el castellano.
En aymara siempre tiene que haber un objeto, es decir, encontrarse con alguien o encontrar con algo.

(Pero nótense que mi intención arriba era también celebrar la creatividad que emerge en las zonas fronterizas del uso de las dos idiomas.)

Referencia
Juan de Dios Yapita. 2011. "Yatiñasawa - El verbo Jikxatasiña en su contexto." Página siete, 1 de octubre, La Paz.

martes, 11 de octubre de 2011

De lo coyuntural y del mediano- y largo-plazo

Aquí en Bolivia nos fascinamos por lo coyuntural. Nos fascinamos por la política que va cambiando rápidamente, y siempre el tema genera debates acalorados.

Al mismo tiempo, la situación precaria nos condena a lo coyuntural. En este país es bastante difícil ganarse la vida en el mundo académico. Las consultorías que consigues muchas veces no pagan bien, y demoran en su pago. Te ofrecen trabajo y después te engañan y te meten cuchillos por tu espalda. En medio de estas circunstancias es que hay que mantener a la familia y a si mismo.

En estas circunstancias, los investigadores externos con financiamiento (como yo) estamos frente a una cuestión ética/estratégica importante. ¿Cómo podemos contribuir y complementar con temas y trabajos con la vista al mediano- y largo-plazo, un tema que no genera ganancia inmediata, requiere trabajos minuciosos, pero que encaja plenamente con las problemáticas que atraviesa esta sociedad?

Aspiraremos a que no seamos un mero intermediario entre las dos sociedades, sino por un pensamiento que vive entre las dos sociedades.

domingo, 9 de octubre de 2011

Suma qamaña y la relación madre-hija

En los pensamientos sobre el concepto de suma qamaña (vivir bien) aquí en Bolivia, se menciona con frecuencia la ética que emana de la relación madre-hijo. Esto es porque un componente importante de suma qamaña es el vivir en armonía con la naturaleza, y la figura central de la naturaleza es la pachamama (madre tierra), así que los esfuerzos para pensar la relación hombre-naturaleza naturalmente llega a enfatizar la ética del hijo hacia su mamá. Un ejemplo típico de este argumento se puede encontrar en los escritos del filósofo boliviano Rafael Bautista.

Pero este argumento, ¿no es excesivamente masculino en su conceptulización? Si tomamos en cuenta las formas anteriores de la cultura andina, en muchas ocasiones las mujeres y los hombres operaban en ámbitos paralelos, tanto en los aspectos del parentesco como los religiosos.

(Un trabajo importante en este tema es Irene Silverblatt. 1990. Luna, sol y brujas. Género y clases en los Andes prehispánicos y coloniales. Cusco: Centro Bartolomé de Las Casas.)

Según este enfoque, siempre las mujeres tenían una relación privilegiada con la pachamama, aún cuando los hombres también la veneraban con ofrendas. Si es así, ¿no es la relación hija-madre que tendría que ser privilegiada para reflexionar sobre el tema? Y aún más, debe haber una línea paralela (masculino/feminino) de pensamiento y reflexión en todos los ámbitos de suma qamaña. ¿Nuestros debates estarían tomando en cuenta estas conclusiones importantes de la antropología andina?

たまごたまごたまご

今回ボリビアに着いたときに、ひよこを6羽、エルアルト市の7月16日(16 de julio)市場という特大市場があって、そこで買ってリオ・アバホ(Río Abajo)の家に持って行っていたのですが、そのひよこどもが嬉しいことに今回は順調に育ち、先週から本格的に卵を産み始めました(2羽ほどは少し前から産み始めていた)。

これがそのニワトリども。卵が実際に孵るcriollo(うちのおばあちゃんはアイマラ語発音でkiriwulluと言う)ではなくて、ただ産むだけのはponedoraと言います。 二年前に6羽買ったときは4羽しか生き残らなかったのだけど、今回はちょっと性格のキツイにわとりで、6羽とも全部生き残り今に至ります。写真初公開。皮をむいたジャガイモがつけてある水を飲もうと狙っているところ。

家の敷地の一角に、家の人たちが即席でレンガと木材で卵産みスペースを作ってくれた。覗いてみると、あるある。やっぱりこれは味が違うとうちの子供たちも言うし、さっそく目玉焼きサンドイッチを皆で作って食べてみて、ああやはり味が違うんだと実感する。幾つか私も頂いて帰って、今日の夜はもやしの卵とじを作って堪能。ちなみにcriolloのニワトリは、もっと青みがかかった色の卵を産む。

ちなみに、この卵は全部取ってしまうとダメで、常に幾つか残しておかないといけないらしい。全部取ると、ニワトリがq'illiになってしまって、隠れて卵を産むようになってとても面倒なのだと、うちのおばあちゃんに言われる。q'illiというのは辞書によってcapricho (Manuel de Lucca)(気まぐれ、アマノジャク)とかenojarse (Félix Layme)(腹を立てる)とあるアイマラ語で、この二つの意味がいっぺんに入っているのは、何となく日常的にここの土地の人々と接していると、「ああ~」と納得するところもある。

以前の子豚たちはだいぶ大きくなってきました。四匹のうち一匹既に売られて残り三匹。もう一匹売ろうとしているところ。最近よくあやしていたら、ちょっとなついてきて、ブヒブヒ言いながら付いてくるのだけれど、雨季に入ったのでもう泥だらけだ。

ラズベリーの灌木の下で色々とあさっている子豚ども。 

この茂みの中をよ~く探していると、以前生まれたヒヨコが少し大きくなったのが見つかる。9羽生まれたのだが現時点で6羽生存。1羽はかなり早い段階で死んでいて、残りの2羽は用水路に落ちて流された説と、うちの犬が食べてしまった説が並存していて、よく分からない…。これはいつものことなのだけど、うまくこの6羽が生き残ってくれると結構いい感じのはずだ。しかしながら現在、私が買った6羽に迫害され気味で(蹴られたりしている)、どうなるかな…。