私のケチュア語は遅々とした進みを改める気配がないが、私の先生はとてもすごい先生だ。言語的な感覚が相手と合うというのは、僕にとっては師弟関係における大事な要素の一つだ。
この僕のケチュア語の先生は、二年前に自宅から少しのところで車に轢かれて複雑骨折して、三か月間生死の間をさまよった。そしてそれと共にミシガン大学で教えていた彼女の仕事もパーになってしまった(正確には中断してしまった)。去年のブログにその頃のことを少し書いてあるが、それとともに糖尿病が悪化していて、しかもちょっと前に家族が出かけた間に代理の人に注射するインシュリンの量を間違えられて、一度意識不明になっている。
それでも去年に比べたらだいぶしっかりして、勢いも出て来たのだけれど、でも昔と変わったことがある。一回の話が長くなった。そして長くなったのは、ふつうに考える<老い>ではなくて、今僕にもう一回しゃべっておかないとと多分思っているのだ。
そういうことを経る中で、私の考えも少しずつ変わってきた。しばらく前までは、まだもう一度先生に会えるだろう、もう一度何かをやり直すチャンスが回ってくるだろうと、どこかで頼っていた、というか、そこを甘えなければ自分が持たないくらいでもあったのだけれど、たとえ次があったとしても今しかないのかもしれないと、少しずつちゃんと思えるようになってきた。それは人の老いとともに自分が何かと向き合うことを余儀なくされてきたのかもしれない。それを成熟と言うのか何と言うのかは、まだ放っておこう。
今日も帰り際、まだ話すことはなかったかなと先生は一生懸命考えている。それを見ていて思い出したのは、そうか、入試が終わって報告に来るかつての塾の生徒たちの姿だった。何かが終わって次に進んで、ひょっとすると何かが終わっていってしまう中で、もやもやして気持ちの整理なんてついていなくて、今の瞬間があともう少しだけあってほしいという。そういうことを思い出したりしながら、私は静かに座っていた。何かをちゃんと覚えようとしていた。
でも今一緒に仕事をしているから、まだまだ先がある。次に会うときは、ケチュア語が分からない他の家族が探し出せない昔のノートを掘り出す手伝いをするぞ。この人と一緒に、一つ仕事を作るんだ。
No hay comentarios.:
Publicar un comentario